「論文」とは:理系文系で違うらしい

用語の定義が大事だということは、誰でも知っているでしょう。定義(意味)が違えば議論できない。かみ合わない。私がこれまで何気なく使っていた用語で、理系と文系で全く意味が異なるのだと驚いた代表用語が「論文」でした。

少なくとも技術系・理系では(おそらく医学系も)、単に「論文」と言えば、ほぼ査読を通って掲載されたものを指します。その人に査読付き論文が何本あるのかは、とても大きな評価基準です。複数著者の場合、研究の中心人物であったかも重視されます。(見分け方は分野によって違うらしい。例えば工学系では筆頭著者。)つまりある人物が、何かの研究を中心になって行い、他の人(査読者)にも認められた、ということが重要なのです。

雑誌に論文候補が投稿されると、エディターは、著者とはできるだけ関係がない査読者(通常は複数人)を選びます。論文著者は査読者が誰なのかを知りません。厳密な査読では、さらに査読者から著者がわからないように工夫されます。(とは言っても、分野が狭い場合は、互いに想像がつく場合もあります。)査読者は、疑問点があればそれを著者に問い、多少の修正が行われるのが一般的のようです。疑問に答えられたと判断されると、掲載へ。但し超有名な権威ある雑誌の場合は、さらに載せる価値があると判断されたものだけが掲載されることになります。(微妙や雑誌に分野によって作法は違います。)

一方、文系分野での「論文」は、理工系人間からは不思議に見えます。誰かが何かの論点で主張を書いて発表したら「論文」?寄稿を依頼されることが重要?(良くわかりません・・・)


技術系の人が査読にこだわる理由。それは、主張している事柄が裏付けに基づいていると、査読者が理解した証明だから。矛盾はないよね。過去の結果との整合性はあるよね。勝手な主張ではないよね。何か新しい成果を含んでいるよね、など、技術系では確認すべきことがたくさんあります。データを使う場合でも、(例えば偏りのあるデータから得られた”統計処理結果”に意味がないので)そのデータがきちんと集められたものなのかの確認も重要です。その結果、読者は、ある程度論文の品質が担保されていると思って論文を読むことができるようになるわけです。

勿論、査読付き論文が研究者の業績のすべてではありません。それでも査読付き論文を複数通した人が、研究者と認められることになります。技術系分野ではこれが世界のスタンダードです。