生活を積み重ね、歴史に垂直に立つ

松屋のシュクメルリをいちど食べてみたかったので、シュクメルリが復活したという看板を見て、そのうち食べにいこうかと思っていたが、気づくと提供を終了していた。来年復活してくれることを祈って、また一年待つしかない。

昔から怪獣映画全般、特にゴジラが好きなので、ゴジラ-1.0を映画館に見に行こうと思っていたのだが、気づいたらほとんど上映が終了していた。いつか名画座で上映してくれるチャンスをうかがうしかない。

複数の知り合いが設計や建設に携わっていた麻布台ヒルズが竣工したので、見に行きたいと思っていたのだが、現地に行かないまま気づいたら半年ちかく経ってしまった。いつになったら現物を見るのだろうか。



ここ1,2年ほど、常にこういう感覚で生きている。

1年ほど地方の現場に単身赴任していたので、気軽に東京のあちこちに出かけることができなかったのもあるし、昨年の夏に子供が生まれたので、妻の妊娠発覚以降、自分の自由時間をほとんど持たなくなったということもある。

昨年、超体育会系・昭和然としたJTCから、ほとんど日本人がいない外資系企業に転職して、職場の飲み会がなくなった。
プライベートも含めて飲み会に行くこと自体がほぼなくなり、1、2か月に一度、職場が近い知人とランチに行くようになった。
それでも2か月に一度くらいは、知人や仕事仲間や得意先から平日夜の会食のお誘いがある。そのときは、夕方早めの時間に子供をふろに入れて家事を済ませてから、都心方面の列車に乗って約束に店に向かい、二次会は必ず断って日付が変わらないうちに帰宅する。

以前は、仕事や趣味に自分の体力の98%くらいを費やして、残りの2%でかろうじて社会生活を成り立たせている感覚だったが、結婚後、とくに子供の誕生以降は、仕事を30-40%、残りのほとんどを家事と育児に充てられるように体力を温存するようになった。
趣味らしい趣味といえば、通勤時間と夜寝る前に歯磨きしながらする読書くらいだ。
2,3か月に一度、散髪のために近所に2‐3時間出かけることを除けば、1年以上、週末に自分のための予定を入れていない。


野球と格闘技が好きなのでスポーツニュースはよく見るが、それ以外はYahooニュースの見出しを日に一度見るくらい。
2020年以降は基本的にTwitterを見なくなったので、ネット上のトレンドもほとんどわからなくなった。
おそらく、現実世界と並行して、ネット世界でも私の知らないコミュニティが成長していってるのだろう。


若いころは、常に最先端でい続けねばならず、世界の動きを常に把握していないといけないと思っていたが、そんな欲望はすっかりなくなってしまった。
最近読んでいるのは歴史と古典文学、仕事に必要な知識を得るための専門書ばかりで、流行はほとんどわからない。
サブスクで、自分があまり聞いてこなかったジャンルの古い音楽ばかり聴いている。
映像を見るのは、ときどきYoutubeでショート動画をみるのと、妻と一緒にTVerでいくつかのバラエティ番組をみるくらい。
映画やドラマは、まとまった時間が取れないのでほとんど観ない。映画館には2年以上行っていない。
買い物はほとんどAmazonで済ませる。ときどき、仕事で移動するついでにショッピングモールなんかに立ち寄ると、その賑わいで頭がクラクラする。


同年代でも、早い人たちは注目を集めるように、あるいは社会の中でそこそこ重要なポジションを担うようになってきた。
自分は転職して職場が変わったくらいで、年収が多少増えて残業は大幅に減ったが、かといって成功しているとは到底言えない。

自分の周りでいろいろな人やものがどんどん動いて行っているような感じがする。

自分が「置いていかれている」という感覚に不安を覚えることもあるが、その不安も即座に日常の生活空間に霧散してしまう。
不思議と焦りはない。
淡々と過ぎていく時間、その積層のうえに自分と家族の存在があるという実感が、日に日に強まる。



中島らもがたびたび引用した、稲垣足穂の「詩は歴史性に対して垂直に立つ」という言葉を思いだす。
流れていく、あるいは伸びていく歴史の「先端」からみれば、私の存在は静止して見えるのだろう

私自身は、生活によって自分の足元を固めているだけだが、その足元が強固になればなるほど「歴史に対して」より「垂直に」なれるのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?