未来掲載評(工房月旦) 2023年5月号

未来2023年5月号掲載

突堤のへりに腰掛け見下ろせばあまりに近し悔恨とやらは 松田美智子
行動が気持ちいい。思い切った行動ができる人物なのに、水面か浮遊物か、そこにいつかの悔恨を見てしまう。言葉同士に自然な繋がりがあり、想起される状況が体の感覚を刺激してくる。「悔恨」は「かいこん」と読んだ。予想以上の感情が出現した、その違和感を「とやらは」に込めていると考えるが、遠くなってしまい、四句目と響き合わない感じもある。

躓いてすべてがうまくいかなくて硬いタイルに広がるシェイク 森本耕史
あっ、と思った。躓いても、反射神経が働けば、被害がマシに済むポイントはいくつもある。大ざっぱな「すべてがうまくいかなくて」から、打ちひしがれているのがわかる。疲れていたのか。だからシェイクだったのか。甘くやわらかいシェイクであることが更に、もう駄目だ……という状況を示している。

いつかまた青い魚になりたくてなれない日々を海辺で過ごす 椎名ろざな
「また」だから、自分はかつて青い魚だったのだ。ただの憧れではないその意識が特徴的な歌である。連作に登場する他のモチーフからして、「青い魚」とは、水族館で人目を集めるような、色鮮やかな魚だろう。私はアジがよく獲れる地域の生まれなので、和食に欠かせない青魚を連想した。そのように捉えても回帰の視点になる。海辺で過ごせば、かえって当時との違いが際立つ。今だからできることも、きっとある。

自分しかゐない自宅をたとへれば電池あやふい時計のごとし 桑田忠
自宅を時計に例えているようでいて、自分を電池に例えている。まだ大丈夫だ。動かせている。明確であるべき時計を比喩に使うことで、「動かせてはいるが、きっちりとではない」というニュアンスが生まれる。テレビのリモコンなどであれば、あれっもう電池駄目だな、とわかる瞬間がある。じわじわ危うくなるものとして、電池と時計がぴたりとはまっている。

天王寺駅のあたりをコンドルが飛んでゆく祝日の昼すぎ 早川夏馬
天王寺駅のあたりが混んでいたのだろう。私も十一月に訪れたので思い返してみた。はっきりと「天王寺駅前」とはいえない、あのあたりだ。バスの中から見ていると、何やら立派なところに来たなと思ったが、その地へ降りてみると大概めちゃくちゃだった。コンドルは死んだ生き物を食べる。祝日の昼すぎ、人々の上、大きな翼を広げて飛ぶその姿を見たら、どんな異変を感じるか。想像が膨らむ。

その白さくきやかにして白鷺の水見つめおり静止画のごと 細川延子
二回読んで、美しい場面、冴えた歌だと惹かれた。この姿を目撃して心動いた自分のように、白鷺も何かを感じているかもしれない。言葉のカメラで収めている。二回読んだ理由は、「白鷺の」と「水」が繋がっているのか、少し迷ったからである。何かを「白鷺の水」と呼んでいるのかとも思ったが、「白鷺は見つめている」の意味で受け取った。光景に集中して読みたい歌だからこそ、歌の中心を明確にする助詞を選ぶと、下句の表現がより鮮明になると考える。

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