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耳かきをめぐる冒険 第十一話 つがいのシーサー耳かき(あるいは寺山修司と九條今日子の変わりゆく関係性について)

みなさんこんにちは。タバブックススタッフの椋本です。
この連載では、僕の耳かきコレクションを足がかりに記憶と想像をめぐる冒険譚をお届けします。
さて、今日はどんな耳かきに出会えるのでしょうか?

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つがいのシーサー耳かき
かき心地 ★★★★☆
入手場所 那覇の国際通りのお土産屋

旅行会社員時代、同僚から沖縄出張のお土産にいただいたつがいのシーサー耳かき。全国にさまざまな種類がある「手づくり耳かきシリーズ」の一つで、細部まで丁寧な仕上げが光る一本だ。二体の表情が微妙に違うところに作り手の遊び心を感じる。

ところで、沖縄といえば、先日沖縄出身のりゅうちぇるとpecoの離婚報道がメディアを賑わせていた。ゴシップ好きのユーザーたちからしょうもないコメントと批判が何万と寄せられていたけれど、その日たまたま話していた友人はりゅうちぇるの考え方がとてもよく分かると言う。彼女は「”関係性”は二人の関係を良くも悪くも引っ張ってしまうが、状況や心情の変化に伴って二人の関係性を自由に変えたっていいはずだ」と主張する。

彼女の言葉から連想したのは、作家・寺山修司と九條今日子の関係性である。彼らはその時々の関係の実質に合わせて、夫婦→ビジネスパートナー→養子(兄妹)というように関係性をなめらかに変えていった。本稿では彼らの付き合い方を参照しつつ、恋愛や結婚における関係性の変化を肯定する立場に立って考えをめぐらせてみようと思う。

「肖像画にまちがって髭をかいてしまったので、仕方なく髭をはやすことにした。門番をやとってしまったから仕方なく門をつくることにした。一生はすべてあべこべで、わたしのための墓穴がうまく掘れしだい、すこし位早くても死のうと思っている」

こんな書き出しではじまる戯曲を書いたのは寺山であるが、これは「付き合ってしまったから仕方なく毎日連絡を取りあう」とか「婚姻届を出してしまったから仕方なく夫婦としてふるまう」ということと本質的には同じであるように思える。僕らの人生にはいつでもこの「あべこべの理論」が強く作用している。

僕らは普段、関係を「結ぶ」という表現を使う。これは本来べつべつに存在していた二本の糸を結ぶことで、両者の関係を「固定する」という言語感覚に基づいている。(この感覚は日本語特有のものであり、英語では build とか become が使われる。) すなわち「夫婦」や「恋人」のような関係性を「結ぶ」ことは、いまここにある二人の関係に、ある種の「永続性」を与えようとする呪いである。「今この瞬間が永遠に続けばいいのに…」

僕らは変わりゆくはずの関係を言葉によって氷づけにして、明日もあさっても「あのときの幸福感」を再現しようと試みる。関係性の呪いにかかった二人にとって、理想の関係はいつだって過去にある。
 
例えば、この世で最も近い存在であったはずの恋人は、別れた瞬間この世でいちばん遠い存在となる。周囲の人たちは「あんなに仲がよかったのに…」と不思議がるけれども、その実、二人の関係は付き合った瞬間から離れ続けていたのだ。形式的な関係性は、関係の実質を覆い隠す。

こうして関係性が解体することを、僕らは関係を「断つ」と表現する。たいていその結び目はどちらかの側に残ったままだから、いつまでもかつての関係性をひきずることになる。

しかし、関係性を表す言葉が「結ぶ」と「断つ」の二つのニュアンスだけである理由はどこにもない。僕らに必要なのは関係を「ほどく」という新たな言語感覚である。

ひとたび結んだ二本の糸の結び目をほどくことができたなら、また二人の関係性を結び直すことができる。寺山修司と九條今日子がそうであったように、関係の実質にあわせて、何度でも二人の関係性をほどいて結び直せばいいというだけのことである。

あらゆる関係性はあくまで形式的な呼称表現としてのみ有効だ。「わたしたち」という関係性を構成するのは「わたし」と「わたし」、すなわち独立した二つの孤独な「個」が寄り添って存在しているということに他ならない。

九條今日子は、晩年に寺山のことをこう述懐する。

「思えば不思議な人だった。あるときはスーパーマンのように。あるときはわがままな子供のように。あるときはかけがえのない親友のように。あるときは傲慢な家主のように。あるときは影武者のように。あるときは結婚サギ師のように。あるときは純粋な天使のように…」

彼らの関係の土壌にあるのは、相手の多面性、あるいはかけがえのない「個」性へのリスペクトであるように思える。これはどちらか一方が相手に依存する関係ではなく、お互いがお互いにやるべきこと/夢中になれることを持っているからこそ成り立つ関係なのではなかろうか。彼らのまなざしの方向はいつだって前方であり、相手に「目を奪われる」ことはない。

「小さいながらも自分たちの劇場ができて、新しい演劇を次から次へと創っていく魅力の前には、私生活は必要なかった。」(九條今日子)

日々変わり続ける不可侵な「わたし」と「わたし」が、変わりゆくことを前提として、お互いにとって心地いい関係性を何度でも結び直してゆく。

関係性というのは完成されたものでも過去に存在するものでもなく、未来に向かって更新し続けるべきものなのであろう。「わたし」と「あなた」の関係はつねに途上にある。

(椋本)


参考書籍
九條今日子『ムッシュウ・寺山修司』
https://booklog.jp/item/1/4480026932
九條今日子『寺山修司のラブレター』
https://www.kadokawa.co.jp/product/321411000079/
寺山修司『家出のすすめ』
https://www.kadokawa.co.jp/product/200408000174/

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