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私の朝鮮旅行2017①

朝鮮旅行には、ツイッターでいかれている方も多く、特に珍しいものではないものではあるが、北朝鮮シンパによる朝鮮民主主義共和国称賛レポートがあっても面白いかと思って2017年に朝鮮民主主義人民共和国へ旅行に行った記事を書いてみようと思う、朝鮮に詳しい方も、朝鮮を知らない方も楽しんでいただければ幸いである。

あと100円の料金設定をしていますので、ご慈悲のある方は課金していただけると次の朝鮮旅行への積立資金になります。ぜひよろしくお願いします。

それではご笑覧ください。

朝鮮民主主義人民共和国(以下DPRK)を旅行の情報をネットで見て面白そうだなと思ったので実際に2017年9月14日から18日にかけて現地の旅行を行った。滞在先としてはとして平壌直轄市近郊・黄海南道の平壌から信川博物館までの街道・黄海北道の平壌から開城市及び板門店までの間の街道などを観光しました。
5日間にわたる調査の結果、DPRKにおける都市と地方の格差や国内移動の自由が制限されていること、農村における建造物の老朽化とエネルギー及び機械・資材の不足が確認できた。
経済制裁の影響は都市で軽く地方で重いように感じられた。農業においてまだまだ様々なものが不足している中でも、農民の意欲の向上や自然環境の改善などの金正恩氏の改革の成果が確認できた。
DPRKの農業はおおむね先行研究の通りであったが、農村への最新機器の普及など新しい事象も確認できた。DPRKの農業は現在変革期であり現場は流動的である。おそらく私が旅行した以後に変わったところも多くあると思われるので現地での継続した調査が望まれる。

私は実は農業系の学部を卒業しているので、自然と沿線沿いの風景でも農業に注目することも多かった、朝鮮の農業については日本ではあまり知られていなく、また一般的な朝鮮旅行でもあまり注目されることがない分野であると思われるので少しでも興味を持っていただければ幸いである。

私の朝鮮の農業についての意識は農業を専門に学んだ学生とはいえハングル文字もわからないにわかなので以下の位のことしか調べられなかった。長いので飛ばしていただいて結構である。農業情報以後に朝鮮旅行1日目のレビューが始まります。

朝鮮農業史(糞ニワカ)

朝鮮民主主義共和国農業基礎データ

国の領域12054kヘクタール,領土12041kヘクタール,農地面積は2630kヘクタール,森林面積は4904kヘクタールである.
食料等の数値では、食事エネルギー供給量は平均87%である.タンパク質の一人当たりの摂取量は35グラム・日,動物性タンパク質に限ると10グラム・日である.一人当たりの食糧生産価格は142ドルである.上水道は99.6%,下水道は77.1%整備されている。成人の肥満率は7.1%である.穀物収穫面積は1195kヘクタールであり,単収は40480キログラムで,穀物の総生産量は484万トンである.

朝鮮民主主義共和国農業簡易歴史

 社会主義朝鮮の農業は解放後の土地改革から始まる,1950年の朝鮮戦争の勃発までに土地改革としてそれまでの李氏朝鮮時代や日本植民地時代からの地主の土地が小作人に分配された.この改革により5ヘクタール以上の土地を持つ地主は無償で土地を没収され地主階級は完全に消滅した.
朝鮮戦争後,DPRKではソ連をモデルにして農業の集団化が行われた。農業の集団化はソ連の影響下の東側諸国でも当時同時に進められていたもので1957年には農業集団化は100%を達成した.ソ連・ルイセンコ主義や中国で同時期に進行していた過ちをDPRKも犯した.
1974年には現在もよく取り上げられる有名な農法の「主体農法」が登場する.これはあくまで初期は対内的スローガンでありその内容は1950年代からの農業の焼き直しにすぎなかったが「三大革命小組運動」という運動が提唱され選抜された党員と大学生が大衆動員型増産運動として動員され現地で技術・思想・文化の三大革命の指導を通じて増産を目指させたことが画期的な措置であった.
1984年になると社会主義陣営の経済悪化や中国の改革開放政策を受けて「国営企業が自らの損益に責任を持つ規定」が制定されて小規模な改革開放が行われたが,農業においては小規模の試行地区がつくられるにとどまった.
1990年代の社会主義陣営の崩壊は,DPRK経済に深刻な影響を与えた.貿易の多くを東側諸国,特にソ連に貿易の6割を頼っていたDPRKは1990年のバーター取引から米ドルなどの強い通貨へと貿易の現金取引化により外貨不足に陥っただけではなく,1991年までに20億ドルから3億ドルまで対ソ貿易額が低下するなどの影響を受けた.対中貿易も社会主義友好国への友好価格を廃止したことでダメージを受けた.特にこの両国からの原油輸入の低下は深刻であり1980年代3%まで低下した.原油輸入量はDPRK全土で交通を麻痺させ,農業分野においては資材の不足や輸送あらゆる影響をもたらした.両国からの食糧輸入もほぼ不可能となり,従来の援助も停止された.
1995年には大規模な水害が発生した,原因は何十年間に乱開発した農地から土壌の流失が引き起こされ,暴雨により急速に特大の洪水と冠水災害に発展したことによる.洪水は40万ヘクタールの農地に被害をもたらし,50万人の庶民の住居をなくして,その年の穀物は災害により190万トンの減産を記録した.1996年と1997年にも洪水と干ばつが発生した.これらの災害により大量の死者及び餓死者が発生した.DPRK当局は統計を公開していないが,日中どちらの研究者も30万人以上100万人以下の間で死者及び餓死者が発生したとしている.
1996年に「労働新聞」「朝鮮人民軍」「労働青年」の三つの新聞が日本でも有名な「苦難の行軍」に進入したと発表した.三新聞は「全朝鮮人民よ団結して立ち上がれ」のスローガンのもと経済の修復を試みた.国家を戦時体制に移行し,その体制をもって経済活動を行わせるこの政策は,農業において援農政策とし近郊住民に強制農作業をさせる「田植え戦闘」.それまでの主力とされていたトウモロコシから収量の高いジャガイモへ転換する「ジャガイモ革命」などが行われた.
「先軍政治」という韓国に併合されることを避け国家を保つために行われた軍事優先政治の中でも,農業においては2002年の改革において農村の小規模私有農地と野外市場が完全合法化された.2005年には食糧の集中買取制と専売制が実施され計画経済時期の「主体農法」の失敗の克服が試みられた.
金正日氏の指導の下で,朝鮮農業は2009年には最悪期を脱した,そして2011年に金正日氏の死去から現在の金正恩氏の体制代わり,農業にも大きな変革が現れた.
金正恩氏は3月に権力を父から引き継いだ後に重工業重視から軽工業・農業重視へと政策を転換し,人民生活の重視を打ち出した.同年12月には、「生産者自身が生産と管理における主人としての責任と役割を果たすようにする社会主義企業管理方法」完成させるように指示を出した.ここで考案された案は2012年の下半期から試験的に導入され、農業においては一部の協同農場で「圃田担当責任制」および現物分配等を試験的に実施した.
2013年にはら全国の協同農場で「圃田担当責任制」の全面的導入が始まった.2014年にはそれの恒久化を行うように金氏が指示を出した.特に同年5月30日,金委員長は,「現実発展の要求に即して我々式経済管理方法を確立することについて」と題する論文を直々に発表し,我々式経済管理方法の確立の本質と必要性,我々式経済管理方法確立の原則と方向,我々式経済管理方法の主要な内容を公表した.またこれに合わせて農業法などの諸法が改正された.
 この農業政策はおおむね成功を収めて農業生産は回復した(表8).を参照されればわかるように2014年の519万トンから548万トンまで増加した,2016年に497万トンまで低下したのは,南部2道大干ばつ及び北部1道においての大洪水が原因であると考えられる,しかしこの大規模災害においても以前より減収の規模は小さくなった.DPRKにおける食糧自給率は90%以上というのはこの穀物生産量の推移とその他の穀物の生産量から事実と思われる.DPRKの農業は国家のGDPの22%を占めているにも関わらず非常に災害等に脆弱であるが,現在それらが改善されつつあるのはDPRKの経済の回復と経済成長,それによってもたらされた技術改良.制度改革による意識の向上など近年の改革によるものであると考えられる。

朝鮮旅行1日目

ものすごい馬鹿なので朝の3時に北京空港に到着する、12時に平壌へ出発する便で予約しているので北京空港内で寝たり飯食ったりして過ごす、その後ロシア製のツポレフに乗って定刻どうり平壌へ。ちなみに後で案内員さんから聞いたところによると私の入国書類の書き方は完全に間違っていたらしい、まあ英語も朝鮮語もわからないのでしょうがないね、入国審査中に糞焦ったのは大学図書館で借りた社会主義農業の研究書が取り上げられそうになったけど中国語で交渉して返してもらえたこと、隣の白人のおっさんはサッカーのグラビア雑誌を取り上げられてた、基準がわからん。

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北京空港での案内窓口表示

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平壌空港到着、隣の飛行機の国旗のペイントがかっこいい。

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平壌空港の貨物扱いのおっちゃんたち

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ターミナル、建て替えたばっかりで真新しく快適だった。

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空港周辺の農村風景

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橋を渡って平壌へ、この橋を渡るまで存在した信号や街灯などは全部死んでいた。深刻な電力不足がうかがえる。

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右下の制服は交通警察か何かであろうか?

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車窓から主体思想塔が見える。

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コスモスが沿線どこでも美しかった。これは平屋建て住宅、農村では高くても2階建てまでしか存在していなかった。

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中心部に入ってくると、テレビでもよく見る高層建築群が見えてくる。

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朝鮮の信号、中心部は車も多いからかと持っているものが多かった。

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第一夜晩飯の食堂、団体さんが入るのが準備がされていた、ちなみに私は個室でした。

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夕食、朝鮮旅行中の食事は韓国料理より辛くなく薄味で、日本人にも食べやすい味であった。

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照明がケバイ、どこの食堂もこんな感じだった、昭和か?

店の看板、ネオンよめぇ。

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調味料、砂糖・塩・胡椒・化学調味料、正直いらない。

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街に入る入口にあった2人の偉人の肖像画、朝鮮に来たなと実感する。

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金日成広場に集まる学生?たち、ちょうどこの後の滞在中にロケットの発射があったのでそれのお祝いの練習であろうか?

高麗ホテル売店

高麗ホテルの売店、味の素旅行者買わないだろ・・・というのは置いておいても日本製品が少し置いてあった。

その後は疲れもあって熟睡。2日目に続く。

いいね、課金、くーださい。

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