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阪神淡路大震災

文字数; 2164字


 1995(平成7)年は日本にとって悲惨な幕開けとなった。起こってはならない出来事の連続だ。阪神・淡路大震災、オウム真理教によるとみられる(後に彼らの仕業と判明)仮谷氏拉致事件、地下鉄サリン事件、警察庁長官暗殺未遂事件、横浜駅毒ガス事件などなど枚挙にいとまがない。
 どれを取っても何とも言い難い虚脱感を感じる心境だ。
 中でも大震災が及ぼした日本中に対する危機感は、人々の心を動かし、知らない人たちに対する救援をするという美しい心が自分の中にあることを知って、どこかほっとするものを感じさせてくれた。
 大震災が起こった1月17日(火)は地震があったという情報をテレビで知っただけで、仕事に出かけた。その悲惨な状況を知ったのは、仕事を終えての帰路の車の中であった。耳を疑うほどの惨状に、ただただ絶句するのみ。聞き違いであることを願いながら帰宅する。テレビに写し出された映像は、そんな願いをいとも簡単に吹き飛ばす。
 すぐに頭に浮かんだのは、滋賀の石山寺付近で働いている娘の安否だ。その無事を確認してから次に気になるのは、直接教えたことはないものの、私が所属する教会出身者で、当時私が勤務している学校の卒業生のことだ。早速教会に電話をしてみる。住居が傾き住むこともできない状態とのこと、夫婦とも身柄が無事だったとの情報に安堵はしても、それからの生活のことなどを他人事ひとごとながら考えるだけで、ぞっとする。
 彼女から地震後3カ月が経った頃、手紙をいただいた。
「(前略)1月17日の地震から約3か月が経とうとしています。この3か月は私にとって長いようでもあり、あっという間の短い時でもありました。電気、ガス、水道とすべてが途絶えてしまった地震当日、生まれて初めて避難場所で一夜を過ごし、絶え間なく続く余震に精神的にも肉体的にも疲れ、祈る余裕のない中でただ一言「イエス様、助けてください」というのが精一杯でした。(中略)1週間くらいは一日に1~2回パン一枚と缶ジュース1本でした。でも自分一人がこのような状況ではなかったので意外と耐えることが出来ました。(中略)私の家も(中略)壁のひびにガムテープを貼ったり、特に風呂場はタイルが剥がれ落ちて、ひどい状態だったので、ビニールシートを張り巡らしています。修理したくても現在タイル不足で当分修理ができないらしいので、もうしばらくはビニールシートを眺めての入浴です。(中略)一日一日守られ、教会の人たちに祈られていることに感謝しています。(中略)感謝なくしては毎日が過ごせません。」(4月13日付)
 「40年前の今日だったですね」   (注:私がまだ中高勤務の頃の話)
 勤務する学校に車を停めて降りると、同僚の教師が話しかける。
 「もうそんなになりますかねぇ」
 「あの水害はひどかったですよね。覚えておられるでしょう」
 40年前と言えば、私が9歳の時だ。その6月29日は日曜日だった。
 私は前夜から発熱で寝ていた。礼拝が終わった12時頃、母が枕元に来る。
 「一番いい服に着替えなさい」
 いい服というのは白っぽい替え上着風のもので、私が持っている中で最も嫌っていたものだ。いつもよれよれの服を着ていたので、その一番いい服を着ると私はいつも照れる気持ちで恥ずかしかったのである。小学校のクラス写真を撮る時に着せられて、いざ写真撮影、という時には担任が止めるのも意に介さずに脱いでみすぼらしいセーターで映っている。
 元料亭(旅館だったのかも知れない)を引揚者住宅として市が貸していた場所に私の家族は潜り込んでいた。小高い場所にあるその2階から下の道路を見下ろして、私はさっきまで苦しめられていた熱が吹っ飛ぶのを感じた。
大通りは既に川と化していた。優雅なミシシッピーの流れとは似ても似つかぬ急流と化していた。ありとあらゆる物が猛スピードで眼下を流れ去って行く。
 柱と思しき角材。屋根の一部。箪笥。引き出し。家の壁。葉を一杯身にまとった大木。大小様々な木切れ。台所用品。得体のしれない物体。
 私が通っていた小学校の講堂は避難場所となっていた。その周辺はドロドロとしたぬかるみだ。大勢の人たちがゴザを敷いて家族ごとに集まっている。友人の家族を見つけて、一緒にゴザに座って周囲に目をやる。持てるものをできるだけ持ち出したと言った様子だ。
 講堂の裏山は壊滅状態だったそうだ。その水害での死者は二百数十名だった。
 阪神・淡路島大地震にあった卒業生の母親は、この大水害でひどい目にあっている。水害が日曜日だったのが幸いしたのだろうか。彼女は礼拝に出席していた。激流が収まってから父は彼女と一緒に家に帰ってみると、彼女の住居はすっかり流されてしまっていたという。
 1月17日の大震災のニュースに私はこの出来事を思い出した。母子揃って出会った悲劇は、私の想像を絶するものであったはずだ。
 「一度持ち物をすっかり流されているから、地震に娘が遭(あ)ったこともそれほど深刻ではありませんでしたよ。」
 地震から何日か経った時に、お見舞いを言うとその母親は事も無げに私に言う。自然に出るその口調には私を納得させるだけの力がある。そして娘を思う母親の愛情も感じる。神に対する信頼がほとばしり出る。


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