見出し画像

アフガニスタンからウィーンまで歩いてきたヤコブさんの話

ウィーンを離れる最後の日。

私が選んだディナーの相手は、家族でもなく、同僚でもなく、ヨハネス通り3番地のケバブ屋で働いていたヤコブさんだった。

「ヤコブさん」と私は言った。「あなたは仕事をいきなり辞めて、しばらく見かけませんでしたね。私の家族はあなたを心配していたよ。そして数か月前に、あなたは再び私の前に現れた」

それが最後の日でなければ、その質問を口にすることはなかっただろう。

「あなたは、どこで、何をしていたのですか?」

ヤコブさんは笑顔のままだった。

「ぼくはSatoruが大好きだ。あなたはナカムラと同じ日本人だ。子どもたちもsehr süßだ。ぼくはあなたが大好きで、あなたの子どもたちが大好きだ」

ヤコブさんの英語は、彼にとっての第三言語だ。ボキャブラリーは限られ、同じフレーズが反復される。しかし言語とはリズムである。反復するなかで意味を超え、伝わるべきものが伝わっていく。

ヤコブさんは、アフガニスタンのカブールから、成人男性が1日かけて歩けばどうにか辿りつける距離の町に生まれた。それから二十数年後にウィーンに移って、私が当時住んでいた貸間の向かいにあるケバブ屋で働いていた。私の子どもたちの頬っぺたを撫でて、8ユーロの弁当ボックスの、ハラールされたラム肉を過剰に盛りつけてくれた。

私とヤコブさんの共通点はふたつあった。ひとつは、中村哲を尊敬していること。もうひとつは、呼吸をする人間であることだ。

最後のディナーをともにする理由としては、それだけあれば十分だった。

「殺人」とヤコブさんは言った。「戦争があった。殺人があった。アメリカを好きになることは難しい」

「このレストランでは水煙草を注文できるんだ」と私は言った。「おいしいものを食べよう。それから水煙草を一緒に吸おう」

店員がシーシャに火を点け、テーブルの什器に沈黙が注がれた。中村医師は遠い空の下で、疾患を治し、井戸を掘り、知識を授け、無辜の人びとの命を救った。そうして何者かに銃撃され、不帰の人となった。アフガニスタンの地には大いなるものが残された。

私は何を残したのだろう。

「Satoruさん。ぼくはあなたが大好きで、あなたの子どもたちが大好きだ」
私の視線を正面から受けて、ヤコブさんはどこまでも美丈夫なのであった。

ヤコブさんの話。

ヤコブさんは、ケバブ屋で稼いだ給料で、母国に住む十数人を養っていた。自らの親族と、若くして結婚した妻の親族たち。彼らを食わせるだけの「見えざる手」は、アフガニスタンの経済には及んでいない。だからウィーンで職を探した。独学のドイツ語とイスラム社会の人脈に助けられた。母国への送金を拒まれたときには、ある種の金融サービスに助けられた。ケバブ屋の仕事は悪くなかった。削り残しの肉も食べられるし、Satoruのような日本人とも知り合えた。あの店は立地が良かったので、様々なお客さんが訪れた。フランス人も来たし、トルコ人も来た。イタリア人も来たし、インド人も来た。それからアメリカ人も来た。アメリカを好きになることは難しかった。けれどもアメリカ人に罪はない。そう思うように努めていた。

ある日、ヤコブさんは、気さくなケバブ屋の店員であることを辞めた。

彼がウィーンに戻ってきたのは、その十か月後くらいだろうか。私はそれをfacebookのメッセンジャーで知った。彼とは既に「友達」になっていた。

「アフガニスタンからウィーンまで、歩いて戻ってきたんだ」

シーシャの味が薄くなってきた頃合いに、ヤコブさんは確かにそう言った。

「歩いて戻ってきた?」

「大変だったよ。でも問題はなかった。幸いにもぼくには二本の足があったから」

ヤコブさんは笑った。

そうして彼の語るところによれば、イランのある地域では、少しだけリスクを感じたとのことだった。

その話を聞いて、私の頭に浮かんだのは、「ハイパーハードボイルドグルメリポート」というテレビ番組だった。


ここから先は

1,505字 / 2画像

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?