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「淋しい」を紐解く③ その正体に気づいた時の話(後)


「淋しい」の本質に気付いた瞬間の話、その続きです。

「淋しい」が「口さみしい」となって表れ、盗み食い・買い食いを頻繁にする思春期でした。

大学生・大人になってからは、食べ物も飲み物も娯楽も刺激も、あればあるだけ、その場でとことん・・・みたいなパターンになってました。

すっかり「貪る気満々」の気質になってました。
しかも自覚ゼロ。

「ムサボリーナ」
そんな名前をつけたくなるモンスターです。

そんな私が、(これは別に機会に振り返ろうと思いますが)ある体験をし、あるメンターに出会い、その後、ある講習を受けて、本腰入れて自分らしさを取り戻そうと決意して、そっから2年ちょっと・・・

あの日です。
「ああ、おいしい」と幸福感に包まれて、感謝がこみ上げてきて、そして、満腹になるまで貪らなくても、満足している状態のまま、感謝で食事を終えるという瞬間がやってきたのは。

それまでは、無自覚に食べてました。
自分の満足感よりも、満腹にすること、皿を綺麗に片付けてしまうこと、そんなところに焦点が言ってたように思います。

貪るか、やっつけ仕事かの二択・・・
そんな食生活だったのでしょう。

いえ、人生全体が、貪るかやっつけ仕事かの二択だったのでしょう。
(書いてて泣きたい….)

この時、私は、自分の「淋しい」の本質がくっきりとわかりました。

隙あらば貪ろうとしてる、欠如の恐怖に支配された自分。

それが、私の「淋しさ」の正体でした。
自分の中の淋しい淋しい「ムサボリーナ」を、初めて自覚しました。

自分の中の「貪り気質」が、過去に自分をどんな行動へと駆り立てたのかを、ついに本当の意味で理解した瞬間でした。

淋しさゆえに、愚行を繰り返したという自覚は、その時までにすでにありましたが、その「淋しさ」の正体が「貪り気質」ということにようやく気付きました。

「淋しい」がたとえ(表面的に)解消されても、「貪り気質」を成仏させない限りは、同じことの繰り返し。

ああ、あの時も、あの時も、あの時も、あの時も、
わたし、貪ってたんだ・・・

さらに気付きました。

貪ろうとしてる人間は、基本的に不満を抱えて相手の前に現れます。
ということは、「こいつ、私の不満をどのくらい解消してくれるんだい?」みたいな批評する気満々ということでもあります。

不満顔でこっちに近寄ってきて、おそらく自分が何をしてあげても、不平を垂れるであろう人物・・・そんなヤツに、幸運が舞い込んだり、ご縁がやってきたりするわけありません。

そんな疫病神、みんな一目散に逃げたくなります。

それが私でした。

同時に、気付きました。

そうか!
わたし、あの頃より、淋しくないんだ!!

だって・・
満腹じゃないのに、最後まで食べようと思えば食べられるのに、満足が「快楽→苦痛」へと、いつものパターンをたどってしまわないうちに制御できる・・これは、その証拠に違いない!!

感謝してるうちに、それを止められるって、
こ、これは、人生初の「腹八分目」じゃないのか??

そういえば、最近は、ネットの娯楽も、ほんのわずかな時間で済んでる!
へー、面白いな、で終わってる。「時間を無駄にした」という後悔にならないうちに、次の行動に移行してる。

あー、わたし、もうムサボリーナじゃなくなったんだ。

ありがとうございます!!!!

なんて幸せ。
なんて平和。

とまあ、わたしの「淋しい」にまつわる気づきの体験は、こんな感じです。

「淋しい」という一見無害そうな感傷の裏では、もしかしたら、ムサボリーナ(男性ならムサボリーノ)というモンスターが潜んでいるかもしれません。

もし、あなたが、何かをしていて、例えば、人と楽しい時間を過ごしている時、食べてる時・飲んでる時、娯楽に興じてる時、お金を使っている時、何かを目指して努力している時などなど・・そんな時、「貪らずに、愛でたり祝ったり感謝したりできる状態」かどうかが、そのモンスターの支配力を知る鍵になると思います。

満足が苦痛へと変わるずっとずっと前に、感謝でそれを終える。

これができた時、ムサボリーナ・ムサボリーノは、成仏します。

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