(B面)村田沙耶香『消滅世界』について――母の呪縛への抵抗

 *(A面)とセットでお読み頂けると幸いです。

 この作品の主題は、「正常さ」を強いる母親の呪いに抵抗し、反逆する子の物語である、と言おう。

 衝撃的な、狂気的なラストシーンの意味は、母親に対する主人公の反逆の戦略を追うことによって、明らかになるであろう。

主人公・雨音の恋愛時代


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 この物語のなかには、恋愛や結婚をめぐるさまざまな「正常さ」が主張されている。

 物語世界においては、夫婦間のセックスが「近親相姦」であるとされ、生殖は人工授精によって行われることが一般化している。すなわち、夫婦間の性行為はタブーとなり、夫婦は、「科学的」な方法によって生まれた子どもを養育するための「家族」としてのみ、存在する。


(物語世界では、人工授精技術と精子バンクの発達により、もはや子どもを作るために「わざわざ」結婚する必要が(特に女性にとっては)なくなりつつある。この作品における「家族」の問題については、A面参照)


 主人公の雨音は、最初の結婚相手に、突如として性行為を迫られ、「夫に襲われたんです」と警察に駆け込んで騒ぎとなり、すぐさま離婚となった経験がある。「家族」に性的な欲望を向けるなど忌まわしいことだ。

 しかし、そのような世界において、雨音の母親は、あえて夫とセックスをして、子を産んだ。その子どもこそ、雨音である。母親は、雨音が幼い頃から言い聞かせてきた。

お父さんとお母さんはね、とっても好き合ってたの。恋に落ちて結婚して、愛し合ったから雨音が生まれたのよ。

村田沙耶香『消滅世界』河出文庫、12頁。

 そのことの意味を幼い雨音は理解していなかったが、学校で性教育の授業を受け、人工授精技術を知ると、彼女は疑問を抱くようになり、先生や母親に質問する。母親は、あっさりと、性行為によって妊娠したことを明かし、雨音の担任の教師にも平然とそのことを告げる。

 すると、雨音が両親の性行為によって生まれたという事実は、すぐさま学校の教師や同級生に知れ渡ることとなり、雨音は好奇の視線に晒されることになる。

「お前んちって、父さんと母さんがヤッて生まれたんだろ? そういうのキンシンソウカンっていうんだぜ、うげー、気持ちわりー!」/吐く真似をする男子に、私は反論できなかった。吐き気を誰よりもこらえているのは自分だったからだ。

17頁

 雨音は、「それからは毎日図書館に通って、「正しい」性について調べた」のだった。ここから、彼女は、「正しさ」というものに、とらわれていくことになる。

 2

 
 だが、雨音は、周りの友だちと同じように、アニメのなかのキャラクター「ラピス」にはじめての恋をする。

 そして、雨音の 「初体験」は、そのラピスとのあいだでのものだった。

物語の中に住んでいる恋しい人が、しっかりと自分の子宮を摑んで、揺さぶっているのだ。触れないはずの相手と、その瞬間は肉体が繫がっていた。

私は古い本でしか読んだことがない「セックス」というものを今、自分とラピスがしたのだと思った。

24頁

 その体験を友人に話すと、それは自慰である、と何度も指摘されるが、雨音にとっては、それは、立派な「セックス」の体験である。彼女は、ヒトとのセックスも経験していくが、 雨音の言うところの「経験人数」には、ヒトもキャラクターも含まれる。

 「彼氏ができたことある?」と友人に訊かれた雨音は、「うん。初めての人とも、2人目とも、ちゃんと恋人だったよ。セックスだってしたし」と答える。初めての人とは、「ラピス」であり、2人目とは、同級生の男子(=ヒト)である。

 彼女にとって、自分が「ラピス」に「発情」することは、自分が母親とは違って、「正常」であることを保証してくれるものだったが、同じラピスが好きな同級生の男子にも、ラピスに対してと同じように「発情」する感覚を覚えたとき、彼女は不安に陥る。

私の肉体の奥底には、母が言うような、好きな人と交尾して、「家族」である「夫」との近親相姦の末に子供を孕みたいというような本能が沈んでいるのかもしれない。世界の秩序と嚙み合わない発情が身体の中で動きだしたら、私はそれに引きずられながら生きていくしかないのかもしれない。

36頁


 そこで、彼女は、「母から植え付けられたわけでも、世界に合わせて発生させたのでもない、自分の身体の中の本物の本能を暴きた」いと思い、その同級生を誘って、セックスをする。そして、「自分の本能が、ちゃんとこの世界の形をしているということ」を確認して、安堵するのだった。

 「この世界の形をしている」とはどういうことだろうか。「世界の形」なるものが、このあとの展開の鍵になっていく。

 3


 しかし、さらに大人になっていくにつれ、母親の行為の意味を深く理解していくと、雨音は「さらに不気味に思うようにな」る。

 母親は、成長した娘に告げる。

「予言するわ。あんたは人類最後のセックスをする女になるわ。消えゆくものにとり憑かれて人生を送る呪いをかけておいたの。あんたを産むときにね」
「ふざけたこと言わないで」
「私はね、あんたが、狂った世界に負けずに『正常』であるように、正しい世界を赤ん坊のあんたに教え込んだの。あんたの魂に刻み付けたのよ。(・・・)/あんたは恋とセックスに呪われてるのよ! あんたは必ず、いつか正気に戻るわ! 世界がいくら狂っていても、絶対に正常な本能を取り戻すわ! 私があんたの魂に、しっかりと『正しい世界』を焼き付けたんだから!」

156頁

 「両親が愛し合って」自らが生まれたことを知った思春期から、雨音は何度も、母親の言う「呪い」を否認しつつ、怯えて暮らしてきている。

 魂だか、本能だか、自らの内部でありながら、自分では知り得ないどこかに、不気味な欲望が潜んでいるのではないか、という不安。血によって規定された、自らの深層にある得体の知れない何か。その奇怪さが彼女を恐れさせる。

 それゆえに、彼女は、アニメのキャラクターとも、ヒトとも恋をし、その「恋人」との「セックス」を繰り返す。それを通じて、自分の本能が、母親のいうようなものではないこと、「ちゃんとこの世界の形をしているということ」を確かめようとする。自分の本能が世間で、普通の正常なものであることを。

 だが、もはや、夫婦どころか、恋人同士の間でも、「セックス」をすることは少なくなっている世界である。雨音は、母親からの影響の不安を案じるがゆえに、「セックス」をするが、むしろ、その行為を繰り返してしまうことこそ、母親の「呪い」にとらわれ続けることなのだ。

 雨音は、このジレンマから抜け出し、母親の呪縛から自由にならなければならない。その戦いのプロセスが、物語の見所である。

反撃開始


 1


 雨音は、母の呪縛を破らねばならない。

 では、彼女はいかなる戦略をとりうるか。それは、一言で言えば、母親が自覚せず、こだわっていることを見つけ出して、その無効性を指摘する、ということである。相手のこだわりを指摘し、それが絶対的なものではなく、別の方途があることを示すことによって、それは可能となるだろう。

 ひとは絶対的だと信じていたものがそうでないと知ったとき、パニックに陥るだろう。そのとき、それを突きつけた者が優位に立つ。

 2


 母親のことばをもう一度見てみよう。

「あんたが、狂った世界に負けずに『正常』であるように、正しい世界を赤ん坊のあんたに教え込んだの。(・・・)/あんたは恋とセックスに呪われてるのよ!」

 改めて、強烈である。強敵だ。

 ここで、母は「正しさ」「正常さ」を強調する。自分の欲望とそれに基づいた行為は、本来的で、むしろ、自然な欲望を隠蔽し、制度的に抑圧する世界こそ、「狂って」いるのだ、と。

 母のこだわりとは、その「正常さ」への固執である。

 しかし、この固執こそ、母親の急所である。母親が社会的に禁忌とされていることを堂々となし、それでも生活を続けてきたのは、自分だけが「正常」であるという矜恃と自尊心があったからである。人間本来の性質を保っているからこそ正統であり、この考えのもと生きることが正当である、と。

 そうであるならば、母親の自負心を支える一点である「正常さ」という観念が崩壊すれば、母親はもはや生きていくことができない。雨音の戦略は、母親のいう「正常さ」ということの意味を揺るがすことで、母親の呪いを、いや母親の生きている理由自体を、無効にすることである。

 3

 
 ところで、ことばの意味をズラして抵抗していくという術は、すでに雨音は実践している。

 上に見たように、すでに、雨音と母親とのあいだで、セックス、ということばの定義さえ、異なっている。母親にとっては、当然、異性の「ヒト」同士の肉体的な交接であり、他方、雨音にとっては、それは必ずしも生身の肉体を要せず、相手は「ヒト」に限らない。

 確かに雨音は、母の予言の通り「セックス」に興じている。だが、それは、キャラクターとの「セックス」をも含むものであり、母の言う「セックス」とは異なっている。意味するものが、ズレている。

 したがって、この時点で、雨音が「セックスに呪われる」という母親の予言は、的中しつつも、相手が「ヒト」に限らないという点で、その意味するところを、変化させられているのである。

 あるいは、「家族」という観念。この作品は、家族制度というものが今後いかに崩壊していくか、ということがリアルに描かれているという点で、興味深い(そのことについては、(A面)で述べた)。

 母親にとって、家族とは、恋愛と性愛と生殖が一体化した結婚によって結びついた特別な関係性のことである。恋愛結婚をし、日常的に肉体的な関係を持ち、その延長線上で子供を産む、その関係が絶対である。

 しかし、雨音にとっては、そうではない。結婚は、恋愛によらないし、夫とセックスすることは「近親相姦」であるゆえに、ありえない。生殖は、人工授精によって行われる。家族は、恋人や友人と等価な存在でしかない。

 この点に、「家族」という観念に対する、母親と雨音の認識の差異が表れている。

 では、なぜ雨音は、あえて結婚し、家族を作るのか。もはや家族という関係の特別性など信じられていないのに。

 それに対して、雨音はこう答える。「それ〔=家族〕を私の次の宗教にしようとしているから」(136)。

 つまり、雨音は、自分の信仰するもの――ここでは「家族」――が数ある宗教のなかのひとつの宗教であり、幻想である、という冷めた認識を持っている。なにかを真に信仰しているひとは、その対象を宗教だ、とはよばない。

 例えば、彼女の母親は、自らの「家族」に対する価値観が絶対で、その他の考え方は、想像することすらできないので、雨音のような認識を持つことはできない。

 しかし、雨音は、母親が絶対視している「正常な」「家族」というものが、絶対的でない、ということを発見した。そのとき、彼女は、圧倒的な優位に立つ。

戦闘開始


 1


 母親は雨音に語る。

「私があんたを産んだのは、恋をしたからだったわ。でも誰も理解してくれなかった。生まれたときから世界が狂ってた。私だけは正常でいたかったの」

155頁

 母親は、「正常さ」というものに執着している。「正常な」恋愛、「正常な」結婚、それと結びついたセックス。

 その執着ゆえに、それを排除していく世界は、「正常」とは真逆の「狂った」世界であると認識される。母親にとって、いまや世界は狂っている。

 そうであるならば、雨音のとるべき戦略は、「家族」や「セックス」という観念と同じように、母親のいう「正常」という観念を読み替えてしまうことである。雨音は、母親の「正常」への異常な執着こそ、「狂っている」のだ、と突きつける。戦闘開始。

「時代は変化してるの。正常も変化してるの。昔の正常を引きずることは、発狂なのよ」

155頁

 母親は 〈正常な私〉対〈異常な世界〉という対立を主張するが、〈正常〉 対 〈異常〉という二項対立は無効だ、と雨音は言う。それを絶対不変のものと捉えることこそ、「異常」=「発狂」なのだ、と。

「お母さんは洗脳されてないの? 洗脳されてない脳なんて、この世の中に存在するの? どうせなら、その世界に一番適した狂い方で発狂するのが一番楽なのに」

263頁

 雨音は、「ヒト」を「世界を食べて、その世界にぴったりの形になる動物なの」と説明する(274)。「世界の形」というキーワード。

 私たちは、意識せず、「世界」を身体に取り入れている。そうして、人の価値観や思考様式は変容していく。言い換えれば、私たちは常に世界によって、洗脳されている。世界は可変的であり、人間は可塑的である。

 だから、〈異常な世界〉に抗う〈正常な私〉という母親の考え方は二重の意味で誤っている。私たちはひとつの世界にいて、そこには「世界」が説く正常なものしかないから。また、それを、私のなかに、取り込んでいく(=食べる)ので、世界と私は一体であるから。

 2


「どの世界に行っても、完璧に正常な自分のことを考えると、おかしくなりそうなの。世界で一番恐ろしい発狂は正常だわ。そう思わない?」

「お母さん、私、怖いの。どこまでも“正常”が追いかけてくるの。ちゃんと異常でいたいのに。どこまでも追ってきて、私はどの世界でも正常な私になってしまうの」

264頁

 母親は、自分だけが正常で、世界が異常であることを恐れていた。しかし、雨音は、自らが正常であることこそが恐ろしいのだと言っている。つまり、「世界を食べて、その世界にぴったりの形になる」ことへの恐れである。そのようにして、「正常」に洗脳されることこそ、「一番恐ろしい発狂」だ、と彼女は言うのである。

 だからこそ、「ちゃんと異常でいたい」。世界の強いる思考様式に抗って、自我を保つという意味で、雨音は確かに、母親の教えを継いでいる。しかし、それは、母親の意図するところとズレた地点においてである。

「ねえ、お母さん。お母さんが私をこんなに正常な人間にしてしまったんじゃない。そのせいで、私はこんな形をした『ヒト』になってしまった。今度はお母さんが、私のために正常になって。この世界で、一緒に、正しく、発狂して」

264頁

 母親の「呪い」のせいで、雨音は「世界にぴったりの形」になり切ることができない。もとの社会にも、「実験都市」にも染まりきれず、はみ出してしまう(一方で、彼女の夫の朔は、どちらにも簡単に馴染んでいく)。

 ゆえに、雨音は、「正常」に(「その世界に一番適した狂い方で」)、「発狂」する必要がある。「ちゃんと異常で」いられるように、「正しく、発狂」できるように。

 3


 では、その世界でいちばん適した狂い方、とはなにか。雨音は、それが「実験都市」の世界においては、母親を監禁し、「子供ちゃん」とセックスを「つくる」ことだと結論した。猟奇的な結末である。

 なぜ、そんな突飛な結論に至るのか。

 母親は、獣である。雨音はそれを飼育している。この「実験都市」という世界に「ぴったりな形の動物」(=ヒト)に調教するためである。母親はヒトだが、この世界に「ぴったりな形」ではないので、ヒトならざるヒトであるからだ。

 そして、「実験都市」の生活において、もはやセックスは解体されてしまったので、雨音は、偶然、家の前にいた少年と、それを「つくる」。

 一見、唐突で不可解な行動だが、これらは、「実験都市」という世界が、住人に対して強いていることなのである。

 「実験都市」は、その効率性や快適さを謳い、人々にその生活を礼賛する価値観を刷り込む。あるいは、コンピューターのプログラムによって、いわば偶然に選ばれた相手の精子/卵子と人工授精を行い、妊娠させる。

 つまり、彼女は、この世界が強いる思想と行為にしたがって、それを具現化しているだけなのである。彼女は、母親に「実験都市」のイデオロギーを注入して洗脳し、「実験都市」のやり方で偶然の相手と「セックス」する。

 「実験都市」の方法をそのまま(=「正常に)実践することが、すなわち「異常な」狂気的な行動となる。「その世界に一番適した狂い方で発狂する」とは、その意味において理解される。

 雨音は、「実験都市」が絶対的なものであるかのように強いるものを、読み替えて実行してみせることで、それを相対化してしまう。「ちゃんと異常」な者として。

次なる戦いのほうへ


 ゆえに、この物語で描き出される世界は、すべて、等価である。雨音がすべて、ズラして無効化してしまうからだ。

 だから、物語は「実験都市」をユートピアとして描くのでも、ディストピアとして描くのでもない。

 どれも変わっていく世界の在り方のひとつでしかないから、実験都市の世界は、終局ではない。そこは、歴史の終焉の地ではないのであって、これからも、世界は、正常に変化していくのである。

 そして、雨音は、どの世界にも与しない。来たるべき新世界に対しても、同様に振る舞うだろう。彼女は、なにものも信奉しない。絶対視しない。

 同様にして、雨音は、母親の「呪い」をも読み替えてしまう。「あんたは人類最後のセックスをする女になるわ」という母親の予言は、確かに彼女の将来を言い当てていた。

 しかし、それは同時に、人類最初のセックスでもあった。雨音は、性愛も生殖のための性行為もない世界で、それを「つくって」(=創って)いたからである。彼女は、こうして母親の呪いから脱出する。

 雨音は、どんな世界でも、社会が強いてくるイデオロギーをズラして、「その世界に一番適した狂い方で」、「ちゃんと異常で」いるだろう。

 雨音は、われわれにとって自明な観念をすべて異化し、読み替えてしまう存在なのである。そして、未だわれわれにとって自明でない、近未来の常識をも。

 この小説が真に恐ろしいのは、近未来のディストピア的帰結を描いたことにあるのでも、母親を監禁し、禁じられた性を蕩尽する狂気をあぶりだしたことにあるのでもない。

 世界がわれわれに押しつけるところの何物にも染まり得ない、真のアイロニーを体現した主人公を造形してしまったことにあるのである。


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