(A面)村田沙耶香『消滅世界』について――「家族」という制度、その消滅

 
 この作品の主題は、家族制度がいかに解体されていくか、という問題である、と言おう。

 大家族から核家族へ、そして一人暮らし世帯へ。こんにちの日本の世帯数はそのような移り変わりを見せている。

 そうした流れのなかで、そしてその先で、何が起きるのか、そのことがこの物語のなかで描かれている。

効率的なる同性婚

1 


 この物語の舞台は、近未来の日本を感じさせる。そのなかで、興味深い設定は、物語の世界において、同性婚が法的に認められていない、という点である。近未来的な日本においてもなお、同性婚は制度化されていないのである。

 この設定は、さらりと会話のなかで言及されているだけなのだが、この物語のなかで、重要な意味を持っている。その会話は、主人公の雨音と友人の樹里とのあいだで交わされる。

「私も同性婚が認められてれば、樹里と結婚したかったな。ずっと知ってるから安心だし、子育てや家事も分担できるし。ユキとナオミはそれで海外に行って結婚したよね」
「そうそう。でも、そこまでするのも大変じゃない」
「うちの国は、どうしていつまでたっても男女の結婚しか認められないのかなあ。時代にあってない気がするよね」

『消滅世界』河出文庫、72頁

 彼女らは、同性婚が認められていない現状に不満を抱いている。同性婚は法的に認められるべきだ、と考えている。二人は、可能なら、互いと結婚したい。ここで重要なのは、それが彼女たちが同性カップルだからではなく、単に二人で暮らすことが「安心」で、いわば効率的だからである。

 つまり、二人は同性愛者の権利擁護、というような当事者的あるいはリベラル的な考えから、同性婚の制度化を主張しているのではない。この小説の興味深い点は、異性婚の解体が描かれているにも関わらず、性的マイノリティが登場しないことである。そのことをポリコレ的に非難したいのではない。

 注目したいのは、非当事者(ここでは異性愛者)が同性婚に賛成する要因のひとつには、保守的な家族制度に対するマジョリティの不満が存在する、という点である。そのことが上の会話に表れている。

 どういうことか。

 通常、同性婚の制度化の推進は、何よりも同性愛者の権利擁護という観点から語られる。同性のパートナーとの結婚を望むマイノリティにも、マジョリティの異性同士のカップルと、同等の権利を保障すべきである、という考え方である。

 しかし、上の会話で、彼女たちが言っているのは、そのような権利擁護というリベラル的な視点ではなく、(同性愛者ではない)彼女たちの純粋な利益のために、同性婚を認めてほしい、ということである。それは、同性愛者との連帯でもなければ、反対にマイノリティの権利主張に対する反動的なものでもない。単に、彼女たち自身のために、同性婚の制度化を願っているのである。

 結婚は、面倒だ。面倒な交際期間を経て、面倒な家庭生活。異性であることから来る面倒な欲望やストレス。そんなものを家にまで持ち込むなんて、非効率的だ、ナンセンスだ。つかれる。

 しかし、結婚という制度は、保険のようなものである。自分の万が一のときのために、助けてくれる人、自分の身辺の整理をしてくれる人、そして自分の財産を残せる人、そういう人はいた方がいい。自分も近しい人のために、そういう役割を担えるとしたら、担いたい。だから、結婚はしたい。

 それなら、気心の知れた同性の友人と結婚し、ともに暮らすのがいちばんではないか。彼女らが言っているのは、そういうことである。

 
 彼女たちには、ミカという共通の友人がいる。ミカは、結婚せずに、ひとりで子を二人生み、女性のルームメイト二人とともに暮らしている。「ヒト」と恋愛をしたことがないというミカは、恋愛や婚活、そののちの結婚生活といった複雑で面倒な手続きをスキップして、子どもを作ったのである。彼女は、物語のなかにおいて、女性三人と子二人という「新しい家族のかたち」を体現している。

 ここには、もはや核家族さえも解体された「いろんな生き方を選ぶ人」が存在する。ミカのシェアハウスというのは、「新しい家族のかたち」の象徴である。もはや、家庭ではなく、個人の集積としての弱いつながり。

 このような「家族」に制度的な権利が保証されることを、雨音たちは望んでいるのである。

 ところで、なぜ恋愛の経験すらないミカに出産が可能であったかといえば、「今、精子提供者なら精子バンクで十分じゃない」(71)という樹里のセリフがあるように、(明示されてはいないが)ミカも「精子バンク」から提供をうけ、この物語世界で一般的となっている人工授精を受けて、妊娠したのだろう、と推測される。

そのうち、セックスも恋もこの世からなくなっていくと思うわ。だって人工授精で子供を作るんだから、わざわざそんなことしなくていいじゃない。

同、51頁

 すなわち、「新しい家族のかたち」を可能にしたのは、人工授精と精子バンク(あるいは精子凍結)というテクノロジーなのである。その結果として、出産を望む女性にとって、生身の男性は不用になっていく。

夫のいらない「夫婦」


1 


 この物語では、その人工授精技術は次のように発展したという設定になっている。

第二次世界大戦中、男性が戦地に赴き、子供が極端に減った危機的状況に陥ったのをきっかけに、人工授精の研究が飛躍的に進化した。男性が戦場にいても精子を残して行けばそれで妊娠が可能になり、残された多くの女性が人工授精で子供を作った

18-19頁

 すなわち、この技術は、その開発段階から、男性不在の生殖を可能にすることが目的とされていたのである。したがって、この技術が確立し、一般化したいま、家庭に男性は必要なくなる。

 この物語世界において、「新しい家族」のかたちが、ミカのような女性数人の「親」と「子」という形態であるのは必然的であって、たとえば、男性だけのシェアハウスにおいて、彼らが「親」となることは不可能なのである。夫婦ならぬ「婦婦」は子を持てるが、「夫夫」には無理だ。

 
 このようなテクノロジーの進歩によって、女性だけの効率的で確実性の高い生殖が可能となった。それは、男性が戦争で不在となったなかでも、生殖を可能としたい、という必要、欲望がその進歩を促したわけであるが、テクノロジーの発展と人間の欲望は、相互作用的である。

 つまり、人間の欲望がテクノロジーを進歩させると同時に、テクノロジーの進歩が人間の欲望を形成することもある。

 では、他方でそのような生殖に関わるテクノロジーを生み出した人間の欲望とは何か。

 それは、まどろっこしい恋愛と結婚、そしてどぎまぎするようなセックスに対する忌避感である。そのような煩雑な過程を経た上でも、なお妊娠できるかは不確実である。

 そうであるならば、より快適で効率的で確実性の高い方法を求めるべきではないのか。性も愛も、不快なものをとことん排除し、あらゆるものを効率化すべきだ、という思考様式。そして、そのことと不可分な性に対する根本的な忌避感。

 
 かくして、性への忌避感は、強まっていく一方である。

中学にあがると、さらにそれぞれなりのやり方で、皆、物語の中の男の子と恋をしていた。(・・・)男子も、物語の中の女の子にそれぞれ恋をしているみたいだった。私たちの性欲は、無菌室の中で育っていた。(・・・)大半の子は物語の中の人と清潔な恋をしていた

26-27頁

 「無菌」で「清潔」な恋。ここで、「菌」であり、「不潔」とされているのは、性欲それ自体ではなく、他者に向け、また他者から向けられる欲望に満ちた視線のことだ。暴力的に、一方的に向けられる欲望は、汚い。おぞましい。

 そして、そのような忌避感は、必然的にキャラクターに向ける自己の視線として省みられることになる。当然ながら、私が見つめるキャラクターが、私に対して性的な視線を向けることはないからだ。

私は、自分って矛盾してると思うんです。好きなキャラたちを愛してるのに、聖域なのに、彼らで性欲処理してる。(・・・)たまに、突然我に返るんです。あ、私、一番好きな人のことを汚してるって。聖域なのに、そこでマスターベーションしてる。自分の一番大切なものを強姦してるんですよ

102-103頁

 これは、雨音の会社の後輩のことばだが、そのような性に対する忌避感がよく表れている。そして、決して欲望を見せることのないキャラに対する欲望は、必然的に、一方的で暴力的な汚らわしい行為(=「強姦」)として表象されざるを得ない。このことは、それ自体としては根本的に解決不可能な問題である。

 しかし、そのことは、よりいっそう自らに「清潔」な恋愛と生殖を求める衝動を加速させていく。

 
 そして、もうひとつ、上に引いた中学生たちの新しいかたちの恋に関する記述で興味深いのは、それぞれが「それぞれなりのやり方で(・・・)物語の中の男の子と恋をしている」という点である。すなわち、ここでは、恋は完全に個別的なものであって、いわばそれぞれにカスタマイズされている点である。

 「恋の対象もその在り方も、人それぞれ」というのは当然のことのようだが、それもひとつのイデオロギーである。国民的アイドルあるいは時代のセックスシンボルとよばれる存在に大多数の人々が恋をし、ときに欲望を向ける、そして、わかりやすいステータスを身につけ、きらびやかな場所でデートをする、ということが恋愛の王道とされた時代は確かにあった。

 加えて、もちろん、恋とは、もとより個別的でプライベートなものではあるが、日常と連続的であった。たとえば、学校の教室。いつものように学校に行くと、好きな人がいる、というような日常。

 しかし、恋する相手が物語の中のものとなったとき、日常生活の場とは位相を異にする空間において、ひとが恋をするということになる。それは、すべてが自分の部屋というプライベート空間のなかで完結する、ということを意味する。

 引用文中で、「私たちの性欲は、無菌室の中で育っていた」と語られているとき、「無菌室」とは、端的に言えば、誰も入ってくることのない子ども部屋のことである。

 このように見たとき、物語世界の生活には、①女性ひとりで出産が可能になったこと②恋と性が個別化され、「子ども部屋」で完結するものとなったこと、の二点から、核家族が大多数の一人暮らし世帯に解体されていき、女性を中心としたシェアハウスがわずかに「家庭」的なものの名残となる、という流れが伺えるのである。

現代の延長線上の「実験都市」


 
 そして、この傾向を急進的にさらに推し進めていったのが、「実験都市」の暮らしである。「実験都市」においては、まず、全員が「一人暮らし」を推奨される。「夫婦や家族という概念を持ち込まれると風紀が乱れるからである」(193)。ここにおいて、「子ども部屋」的なプライベート空間は、1Kのアパートの一室に拡張した。

 主人公は、「実験都市」においても、密かに夫との家族関係を持続させようとする。しかし、隣り合った二部屋のワンルームを行き来しながら、二人で暮らしているうちに、だんだんとその生活に違和感を抱きはじめる。

早く自分の清潔な部屋に帰りたかった。自分の好きな食べ方で自分の好きなものを食べ、性欲が高まれば自分で静かにそれを身体の中から処分する、あの清潔な部屋へ、早く帰りたかった。

230頁

 清潔さを求めるがゆえに、ワンルームに籠るようになるのではない。そのような空間で生活をしているうちに、他者との共同生活、否、他者の存在自体が不潔なもののように感じられてくるのである。

 そして、「自分のデータを入力すると、視覚・聴覚・嗅覚と電子振動により、より素早く、身体の中の性欲をクリーンアップすることができ」、「1~5分もあれば身体の中をクリーンにすることができ」るという「クリーンルーム」が駅前に設置されていく(242)。

 こうして、汚らしい性欲は部屋の外部で、個別にカスタマイズされた刺激を得ることで、トイレのなかで排泄するかのように処理され、自分の部屋はさらに清潔なものとなる。

 
 さらに、実験都市では、ついに、男性ひとりでさえ、出産が可能となる。男性も人工子宮によって妊娠が可能となり、もはや男女の性差というものが消滅する。しかし、それは、男性性が完全に消滅することによってである。

 そのことは、「実験都市」において、全員が「おかあさん」となることによって象徴的である。そして、男性性の消滅は、「実験都市」の生活にすっかり馴染んだ、主人公の次のような認識に表れている。

ほっとして、それからこの「子供ちゃん」に胸がなく、おそらく男であるということに気がついた。

269頁

 すなわち、「実験都市」の世界は、全員に胸があり、子宮がある――世界には女性しか存在しない!――かのような幻想によって成り立っているのである。

 こうして、「実験都市」では、全員が潔癖主義的にプライベート空間を保護し、全員が等しく妊娠可能になった。そのような空間において、もはや家族というものは存在し得ない。シェアハウス的な共同生活すら不可能であり、その必要もない。家族というものが、生活のなかから、住居のなかから排出されたとき、公共空間全体が「家庭」となるのである。それこそが、「エデンシステム」なのであった。


 ここでは、まだプライベート空間は存在している。公的な空間での個人の自由や尊厳、個別性といったものは、極めて限定されているが、そのことによって、むしろ、以前よりも増して、強い秘密性、閉鎖性を持った個人のプライベート空間が発生するのである。

 公的空間において、個別性を失う個人にとって、他者がそこで何をしているか、ということに互いに関心はない。それゆえに、その私的空間においては、極めて多様でラディカルな、個人の、個人のための行為が行われることになる。


(この点において、ジョージ・オーウェル的なディストピアとの違いが明白となる。『1984年的』な監視社会において、そのようなプライベートなど存在せず、個人は屋内においてもつねにモニターを通じて監視されているからである。あえて簡潔に整理するなら、『1984年』では、他者に対する徹底的な関心が、『消滅世界』では、他者に対する徹底的な無関心がその社会を規定している、といいうる)


 そのことが主人公に、人類最後にして最初のセックスを「創造」し、「ペット」を飼育することを可能にするのである。そして、その行為は、今後続けられていくとしても、長らく露見することはないであろう。ほかならぬ雨音という女性が、自室で何をしているか、ということに管理が及ぶことは、この世界において想定できないからである。

 このような「近未来的」社会は、現代社会の傾向をそのまま引き延ばしていった先に現出する。快適さ、清潔さ、効率性を求める結果として、その「実験都市」が生じ、その追求のための生活が営まれているからである。

 我々の社会は、この「実験都市」と断絶してはいない。我々の社会の志向性の延長線上にそれはある。その上で、それが危機的か、あるいは望ましい未来かと言うことの判断はすべて、読者に投げ出されている。

おわりに~これはディストピア小説か?


 しかし、――また引き合いに出すならば――ジョージ・オーウェル的なディストピア小説が、そのような空間を描き、読者に違和感や不気味さを提示することで、来たるべき未来社会への警鐘を鳴らしたのに対し、『消滅世界』はそのような意味でのディストピア小説であるとは思えない。著者によって、この世界が「ディストピア」として提示されているようには読めないからである。

 実際、本書の文庫版解説において、斎藤環は、「本書への反響として女性の側からは主として、「ユートピア小説」、男性からは「ディストピア小説」と言った評価があったと側聞する」としている(276頁)。

 その「噂」にどれだけ信頼を置けるかは定かではないが、この物語を「ディストピア」として受け取らなかった読者が一定数いたということは、間違いないのであろう。

 女性と男性とのあいだで評価に違いが現れるというのは、上に指摘したとおり、物語世界が最終的に提示する社会の形が、男性性の「消滅」した世界であるという点にあるのであろう。それは、男性にとっては脅威であり、一部の女性にとっては、歓喜すべき現象であるに違いない。

 だが、その世界がディストピアか、ユートピアか、というのは評価の裏表でしかない。現実世界と隔絶された前提を持つ近未来的な世界として提示される空間である、という前提は、共有されているからである。

 最後に、私が強調したいのは、この小説において、現実世界を異化しているのは、物語内の社会の構造それ自体(たとえば「実験都市」を維持しているところの制度)ではなく、主人公の雨音である、ということだ。

 彼女は、現代社会の価値観も、「実験都市」の常識も、ズラしてしまう。それは多分に戦略的なものである。それゆえに、この小説を分析するには、ディストピア/ユートピア的な物語世界(あるいはその社会とそれを動かすシステム)を見るのではなく、社会に対する彼女の戦闘的な身振りにこそ注目すべきなのである。続く(B面)では、その問題について検討しよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?