汝自身を演じよ――アッバス・キアロスタミ『クローズ・アップ』について

 舞台はイラン。不可解な事件である。ある青年が、国民的な映画監督マフマルバフを騙って、ある邸宅に出入りしていた。彼は、その家に住む家族とその邸宅を舞台に映画を撮りたいといって、何度もその家にやってきた。ところが、ある日彼はマフマルバフではないことが明らかになる。彼は高名な映画監督とは縁もゆかりもない、名もなき一人の青年だった。ただちに、青年は不法侵入で逮捕される。

 この動機不明の奇妙な事件は世間の注目を集めた。本作の監督、アッバス・キアロスタミもそれに興味を持った者の一人だった(キアロスタミにとって、青年が「演じて」いたマフマルバフは、ともにイラン映画界を支えてきた同志でもある)。キアロスタミは、その裁判が行われる法廷にカメラを持ち込む。その許可を得るための当局との交渉さえも、カメラに収められた。


 開廷。当初、青年は、窃盗の下見か陽動として、邸宅に出入りしていたのだと考えられた。特に、「被害者」家族の次男・メハダードは、それを強く主張し、青年の「犯罪」の「悪質性」を法廷で強く主張した。メハダードは、正義をまとうかのように熱弁をふるった。被告人席の青年は、ただただ困惑した表情を見せるばかりだった。

 しかし、審理が進むにつれ、彼の動機は窃盗の下見でも陽動でもなく、ましてや映画監督の仕事をしてみたいからでもないことが明らかになってくる。では、その動機とは何か。

 明確な「動機」など特にないのである。

 青年は、徐々に重たい口を開きはじめる。彼は、ただ、何かを演じることへの憧れを持っていた。監督になりたいのではなかった。何かを演じることで、痛みを慰撫できると考えた。

 生活は貧しかった。仕事を転々とし、長年にわたる極貧生活に限界を迎えた妻は、二人いた子供の一方を連れて出て行ってしまった。そんな彼にとって、唯一の楽しみが映画だった。特にマフマルバフ監督は、映画を通じて、尊厳を失って絶望の中に生きる彼の痛みを代弁してくれるかのような気がしていたのだった。

 
 だから彼は、その日も、バスの車内でマフマルバフの映画のシナリオを読んでいた。すると、隣に老婦人が座った。映画好きの次男を持つ彼女は、息子と同世代の青年に声をかけた。

 彼は思った。ここで監督の名を騙れば、昼食の誘いにあずかることができるかもしれない。貧しい生活のなかで、歓待を受けながら、一食でもおいしい食事を取れたら、どんなによいだろう。安直だが、切実である。そのとき、次の昼食以上のことは、何も考えていなかったに違いない。彼は、自らをマフマルバフであると名乗った。

 それをきっかけに、彼はその婦人の家に招かれる。彼は、著名な映画監督として遇された。尊厳を失いかけていた彼には、それが心地よかった。自己を回復したような気がした。そして彼は自分がマフマルバフを尊敬しているのと同じように、彼らから尊敬されることを望んでさまざまに行動し、ときに家族皆に働きかける。いつのまにか、映画好きの次男メハダードと映画を撮る話まで持ち上がり、彼は徹底して高名な映画監督を演じ続けた――。だが、その「演技」も暴かれ、彼は告訴されたのだった。


 ところで、この映画は、実際の法廷の映像と、「犯行」の「再現」映像と、その二つの場面が交互に現れる。

 しかし、その区別はわかりにくくなっている。なぜなら、「再現」のシーンにおいても、主要な関係者はすべて本人が演じているからである。すなわち、法廷の映像と、「再現」シーンは、基本的に同一の登場人物によって構成されている。

 そのことが意味するのは、裁判のあとで、関係者が再び集まり、キアロスタミの演出のもと、「犯行」を「再現」し、カメラの前で演じたということである。

 青年は、自らを監督として騙っていたが、むしろ俳優になりたいと思っていた。何かを演じたいのだった。

 そんな彼に、キアロスタミが用意したのは、彼自身、つまりサブジアンという名の自分自身の役だった。


 彼は、サブジアンである。だが、そのこと――彼がサブジアンという青年自身であるということ――を、彼は放棄しようとしていた。

 そんなサブジアンが、それまでたえず否定するほかなかった自己自身を演じることになる。それは、絶望していた自己を、再び自らのものとして引き受けることであり、否定の対象でしかなかった過去の自己と現在の自己との連続性を認めることである。

 彼は、サブジアンというメインキャラクターとして実際の法廷に立ち、またカメラの前で、「犯行」を再現してみせるというそのプロセスをつうじて、自己とふたたび向かい合って、実存的な深まりを見せることになるだろう。

 
 そして、この映画の中で内面的な深化を見せるのは、サブジアンだけではない。彼と関わったメハダードも大きな変化を遂げている。

メハダードは正義感が強く、合理主義的な青年だった。大卒で技術を持ちながらも社会的に不遇な兄を、メハダードは努力が足りないせいだと断じ、いっそうの刻苦勉励を説く。

 一方で、彼は、時代の閉塞感を否応なく感じ、また自らの内面にある芸術への理想を捨てがたく思ってもいる。そのことが、彼をもまた、マフマルバフをはじめとする映画への共感と憧憬に向かわせている。

 そんな彼は、サブジアンの不可解な「犯罪」を合理的に解釈し、法廷でその悪質さについて正義を振りかざすように力説していた。が、無目的的なサブジアンの行動と、その絶望、痛みに気づいたとき、彼は自分が内面で抑えつけてきた漠たる不安と欲求に直面するのである。そして、彼もまたその葛藤を抱える青年としてカメラの前に立つことになる。


 したがって、この映画は彼らが彼ら自身を演じることに、大きな意味がある。これを俳優がただ一連の出来事を演じて見せても、ただの再現映像にしかならない。奇怪な「事件」の動機と真相を探るミステリーとしてそれなりに面白いかもしれないが、それは、この『クローズ・アップ』という映画が持っている魅力の小さな一側面でしかない。

 キアロスタミは、この作品に関して、「誰もが心のなかにサブジアンをもっている」と言っている。社会的に苦境に立たされていることからくる、炙り出されるような、切りつけられるような余計者的意識。いや、もっと根源的な、自分が自分であってしまうということの絶望。

 しかし、わたしは、わたしであることしかできないのである。極めて当然なことに。だが、極めて残酷なことに。

 だから、わたしは折に触れて思い起こさねばならない。カメラの前で、卑小な、しかし、切実な自己自身というものを演じているサブジアンとメハダードの姿を。

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