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住み処

「そ……ね、落ち葉の……ら大……虫!す……く…いて…」
トントントントン。女の手元から調理音と、唇からか細い声。男は手元の収穫物を房から一粒ずつ取り分けながら、うんうん、それで?と相槌をしています。黄昏の橙光も窓枠を乗り越えられなくなってきた頃。男はそろそろ灯火を点けようかなと指を走らせました。
男は二人それぞれが暮らしの作業をしながら、会話を楽しむこのゆったりとした時間が大好きです。女の小さい声のすべてを聞き取れたことはいまだかつてないけれど、それでも確かに感情が乗っかっていて素敵だなと毎日、思うのでした。

同じ村に生まれた二人は、幼い時から大きな魔法がつかえます。理由も仕組みもわかりません。ただ男は、大きな石を投げ飛ばしたり、手元に火を灯したりするのが楽しくて時々試していました。
それは女も同じでした。そしてそのことを、夏の晴れた日に川辺で偶然確かめ合ってしまってからというもの、二人は秘密を共有する仲間になりました。村から外れた川辺に抜け出しては、新しく見つけた魔法で驚かし合うのが二人の日常になりました。
しかし間もなく大人たちに見つかってしまい、二人はあっさりと追放されてしまいました。もっとも村人たちだって、悪魔と繋がった忌まわしい若者二人と同じく、魔法を使えるのです。ただし、各々の小さな魔法で生活が成り立っているのを、誰も自覚していません。
男と女は、追放された悲しみと絶望に暮れながら山道を登ってゆきましたが、振り向いて追い出された村の小ささを初めて知ったとき、二人はほとんど同時に泣き止みました。
二人の手には心強い大きな魔法と、それよりも大きな絆がありました。
山道の脇に入ると、放棄されて長いであろう…少なくとも二人の幼い記憶の地図には存在しない、山道の脇のあばら屋がありました。二人はそれを住処とすることにし、手始めにそれぞれの魔法で柱や壁を直しました。ごくごく簡単な仕事でした、男と女の大きな魔法にとっては。

部屋の真ん中の柱の自然な継ぎ目を、男は灯火をつけるたび見つめては自慢に思うのでした。そして今度は魔法灯の丸っこい造形に目をやって美しいなと感心するのでした。男は二人で作り上げ、今も作り続けているような気がするこの家が大好きでした。
「し……その………わ、私の……げ袋に……て…」
ぐつぐつぐつぐつ。女の調理も大詰めのようです。料理の湯気がこちらまで届いて、手元に重なる種々の自然物と混ざり合っていい香り。男は酔っぱらうような、不思議な気持ちがしました。
女は調理の時間以外だと、だいぶ無口な人です。普段は男が話すのを、頷いたり、嬉しそうに微笑んだりするだけです。料理中の顔を合わせず、声も掻き消える時間でやっと、女は自分の話をしてくれます。だから男にとって夕方の数刻こそが、いちばん愛おしくて、いちばん大切にしたい時間でした。
夕飯を早く食べたい気もするけれど、もう少しかかってほしい気もしてくるのでした。

「ご……ね、今……きつ………けな……も…」
男は灯火の下で、布団に横たわる女の言葉を聞いています。
女は病に冒されていました。男が思いつく限りの看病でも和らげてやれないほどの熱を、女の身体が発しています。料理中でもないのに自分から話しているのは、必要に駆られてのことでした。あるいは高熱による朦朧が恥じらいすらも、意識の靄に隠してしまっているのかもしれません。

数日前、男は食材を取りにいつもの沢へと行きました。自分の足跡を頼りに斜面を下り、河原に降り立って今日の川の具合を見定めます。男は驚きました。対岸に人影があったのです。男が女以外の人影を見るのは五年ぶりでした。
互いの正体がわかったとき、男は踵を返して斜面を戻ろうとしましたが、後ろからはそれよりスピードの速い水音が聞えてきました。
「おい!おーい…」
声をあげながら近づいてくるのは、男と女の追放を決議した村人会の議長でした。

議長は、男の親が病気で死んだと男に伝えました。
お前の親だけじゃない、みんなが病気で動けなくなって、数日中に死んでいく。水を変えてみようという話になったので動ける俺が汲みに来たんだ、と議長はぼそぼそと語って、それから話し過ぎた、という顔をして目を背け、ジャバジャバと戻っていこうとしました。
「待ってください!もう一つだけ教えてください…」
男は議長の手を掴んで引き止め、女の親の安否も尋ねました。
振りほどいて首を振る議長の身体もまた、よく見ればやけに黄色くて、病に染まっているのは明らかでした。

その出来事を話すか話すまいか、男は手に持った獲物を並べながら、ずっと考えていました。返事も疎かな男を不思議に思いながら、女は調理を続けていました。晩御飯の時間にも男は、どんな動物と会ったとか、川の流れがどうだったとか、やたらと大げさな手振りで話して聞かせるので、不思議に思いながらも、女は頷いたり、嬉しそうに微笑んだりするのでした。

男が話すよりも先に、女は病に倒れました。
実は男のほうも、少しだけ料理の味がおかしいことを不思議に思っていたのですが、調理魔法の狂いはすぐに女本人の身体にまで拡がってゆきました。

日に日に、いや数刻の間にも、女の肌の色は川で見た議長のそれに近づいてゆきました。
男は一生懸命、女を励まし、楽しい話を聞かせました。女がうなされるたび、男は女を抱きしめてやりました。男が、何で自分じゃなかったのかと嘆くと、女はか細い声でそんなこと言わないでと微笑み、そして二人して泣いてしまうのでした。
経験と能力はあっても知識を何も持たない二人は、病の前には無力でした。
結局、三日三晩寝ずの看病に努めた男の隣で、女は死んでしまいました。

さらに三日三晩悲しみと絶望に暮れた末、男は空っぽになった身体と心をようやく女から外側に向けました。必要に駆られてのことです。
臭気に包まれて虫の湧いた亡骸を、男は躊躇なく、そして優しく抱き上げ、外へ連れ出してやりました。引き戸をがたがたと開き、空腹でよろよろとした足取りで、少し埋まってしまった自分の足跡を探りながら斜面を下って、女を川底に横たえました。魚影が数個、驚いたように離れてゆきます。亡骸を追ってきていた蠅が、物欲しそうに水上をうろうろと飛んでいます。
揺らぐ川面は女を、嬉しそうに微笑んだように見せます。
男が自分は、耳が悪かったのかもしれないと初めて疑いました。川辺には獲物も魔法もなくて、無数の生命と一人の亡骸とが生き生きと景色を描いていました。男にとってもっぱら仕事場であったはずの川辺という場所は、それまでと全然違って見えました。

男は家に戻りました。驚いたことに、部屋のあらゆる場所が膿を流すように、くすんで、突然古びたように感じられました。実際そうなのです。男は辛うじて家を支えている柱と、ぐにゃりと造形を崩した魔法灯とを見比べました。
女の欠落は、因果としては魔力による絶え間ない共鳴の終了をもたらしましたが、男には知識が無いし、そもそもそれよりずっと大きなことでした。
調理場に張った大きなクモの巣を見て、男は二人の使える魔法が面白いほど相異なっていたことを思い出しました。一度だけ女に、その気づきを打ち明けたことがありました。
「二人で何でもできるじゃん!」興奮気味な男に女は、いつにも増して大きく頷き、いつにも増して嬉しそうに微笑んだのでした。それは追放前日のことでした。

酷く空いた腹を満たすため、男は自分がとってきた獲物を手当たり次第に口に入れました。
川魚も、斜面の房で生る実も、いや男がとってきて、女が調理していた食材は全て、そのままでは不味く、食えたものではありませんでした。それでも男はかまわず、食べ続けました。
男は空腹以上に、女を喪って空っぽになった心が満たされてゆくのを感じました。形の美しい魔法灯も、ころころと可愛らしい音を鳴らす引き戸も、カラフルな蔦で編んだ網かごも、番いの鳥をあしらった茶目っ気のある寝具も、そして毎日男の舌を楽しませていた料理も、女と同時に消えてしまったのです。消えてしまったものを数えることで、男はまた女に会えたような気分がしました。
男はぼろぼろの家で、不味い食材で腹を満たしながら、それでも幸せに暮らしてゆくのでした。

調理場に張った大きなクモの巣の主は、そうとは知らずに不死の魔法を纏った男を尻目に窓枠から飛び出し、のそのそと山道を下ってゆきました。

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