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自ら(みずから)と自ら(おのずから)

今、関わっているコミュニティ
 統合的アプローチ研究会
 eumo
 Ecollogical Memes
 エッセンシャル・マネジメント・スクール(EMS)
 手放す経営ラボ
 楽々テラス、ビン笛つながりプロジェクト、地元町内会など

人の繋がりから日々面白いことが起きています。
正しいとか間違っているとかではなくて。
それぞれの人が自分の見えているものを語っている。
楽しく対話してる場で思いを感じ、学ぶことが多いです。

昨日のオンライン読書会で得た言葉
「何と すこやかなんだろう 風は」
日々の時の流れはそんなふうに思えます。

違う本で似たことが書かれていたのが非常に印象的だったので、2つの本から以下に引用します。

「それまでは、私も自己と自然との対立した関係に悩み続けていた。しかし、自己と自然が、底辺では同一のものだと、自分なりに確信を持てるようになってきた。日本語では、もともと同じ書き方をしていたのだ。「自ら(みずから)」と「自ら(おのずから)」が、深層で共通基盤に立っていることを理解できた時、私は言葉の中に神を感じた。」

「まず「自ら(みずから)」の意味を説明したい。これは自分の意志ですすんでやる時に使用されている。または簡単に「自分が」を表わす言葉になっている。しかし実はこの自ら(みずから)はその内部に自ら(おのずから)という意味を孕んでいる。後に説明するように自ら(おのずから)は自然の働きを表わすものだから、自ら(みずから)は根本的には、自分と自然の両方の動きを含んでいる。
これは大変に重大なことで、自己の意志の代名詞として使用される自ら(みずから)が、現代流に言う自我ではなく、その基礎に自然を含んでいなければ、何の力もないことを示している。
これはどういうことかと言うと、人間の意志と呼ばれる近代的自我が、自分では如何なる意思を持っても、自然の力の応援がなければ、成立しないことを表しているのだ。我々が個人の意志だと思っているものも、その力を発動するには、自然の裏打ちを必要とする。そして、自然の中には自己以外の他者の意志も入ることを暗示している。」

「自ら(おのずから)が意味する自然の動きの中に、自ら(みずから)という主観が入り、初めて両者が人間にとって価値を帯びてくる。この主観を科学は否定しているので、止まるところを知らぬ物質主義に陥っているのだ。
主観に頼れば、客観の応援はない。つまり科学的根拠のない、わがままな弱い自我から生まれる薄弱な意志しか持つことができない。また客観に偏れば、主観の応援はない。その結果、無意味で畏れを知らぬ物質主義に陥っていく。自ら(おのずから)という自然も、自らという人間意志との相互関係で捉えなければ何の意味もなさないものになる。要するに、人間の意志があって、初めて自然には価値が生まれ、自然の力が加わって、初めて人間の意志にも価値が出るのだ。」

『生くる』執行草舟著 講談社 2010年


「経営者が新しいチャレンジをしているときには、直感や情動が大切であり、爬虫類時代までに発達した古い脳が活性化していることは間違いありません。
一方、経営学者がその経営を観察して分析しているときには、論理や言語を司る大脳新皮質しか活性化しておりません。だからこそ美しく体系化できるのですが、言語で記述できない最も大切なところはすっぽり抜け落ちてしまいます。同じように、本を読んで言語で情報を得た読者も大脳新皮質しか活性化しておりません。
言語情報から先鋭的な経営者を突き動かしているダイナミズム(古い脳が担当している)をイメージすることは、「想像力が乏しく。情動に蓋をしている人」には無理です。」

『自然経営』武井浩三・天下伺朗著 内外出版社 2019年

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