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ぼくは虫ばかり採っていた

ぼくは虫ばかり採っていた     池田清彦    2018年

地球のいのちへの探求。
いのちの不思議と可能性。

以下、引用です。

ミジンコの種類にもよるけれど、ふだんは丸い頭をしているのに、敵が多いときは頭から突起を出して、捕食者に食われないような個体が出現する。遺伝子は同じなのに、外からの刺激で発生パターンが変わるんだよ。表現型多型と言って、遺伝子は変わらなくても異なる表現型を持つ個体がいくつかできてくる。

私は構造主義生物学の立場から、DNAの突然変異と自然選択で進化起きると考えるネオダーウィニズムを批判してきました。
ネオダーウィニズムは 環境への適応によって、形が徐々に変わり、結果的に大きな形態変化が起こると考えます。 確かにこういったプロセスでも進化は起きるでしょうが、我々はむしろ、クジラが陸から海へ入ったといったような重要な変化は、形の変化が先行し、生き延びられる環境への移行を通して、結果的に適応現象が生じる場合も多いと思っています。

私は奇形という言い方についても、異常という価値判断を下す前に単に希少なだけだと考えた方がいいと思う。生物はどうも本来持っている可能性のうちのわずかしか試していないと思えるふしがある。

生きていることがずっと継続しているのが生命で、それは我々の細胞を見ればすべてそうです。生きている状態がその生きたまま細胞分裂して、生きていること自体が遺伝されるわけです。その意味では遺伝されるのは「もの」じゃなくて「こと」です。
生命における「こと」というのは「高分子の配置」である、ということにならざるをえない。つまり配置がルールを生み出すんです。配置がルールを生み出しながら、次の配置を作っていく。

自然現象の解明が進めば進むほど、美しくしかも現象整合的な理論を作るのは難しくなってくるのではないだろうか。自然は人間が論理整合的に理解するには複雑すぎるのかもしれない。あるいは人間の脳は、因果律や排中律を絶対の真理と看做して理屈を立てるが、自然は必ずしもそのような理屈に従って動いていないのかもしれない。

生物というのは自分の形が変わったら一番適したところに行くわけです。

恣意性はデタラメとかランダムという概念とはまったく違う。ルールそのものの決まり方には根拠がないということだ。物理化学法則のみが具現している時空では、エントロピー増大の法則に従って、現象は安定点に向かってすべっていく。生物は可能性を限定することによって、自らの時空のなかだけでかろうじてエントロピー増大の法則に抗している。

プラトンは個別の猫たちの中に猫をネコ足らしめているイデアが存在し、このネコのイデア(本質)こそ、ネコの名で呼ばれる権利を持つ当のものであると考えたわけだ。
これに対しソシュールは、本質などといったものは存在しない、コトバによってあたかも存在するかのように見えるのだと考えた。


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