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079.言葉溢れる街

2003.8.19
【連載小説79/260】


数日前から、無性に島に帰りたくなっている。
もちろんトランスアイランドへ、だ。

再び東京に戻った。
日本滞在も3ヶ月近くなる。
これだけ長く滞在するのは何年ぶりだろう?

島に帰りたいといっても、それはホームシックのような感覚ではない。
都会や文明生活に疲れたという訳でもない。
今日も旅を楽しんでいるし、このまま続けてもいいのだ。

強いて言うなら、そろそろ島に戻るのが自身の創作生活上、リズム的にいいタイミングではないかという漠然とした感覚。

僕の中にある「主観」と「客観」や「定住」と「放浪」の作家的バイオリズムの転換期が来たのだろう。

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東京に戻って数日。
眠らない街に出て、研ぎ澄まされる観察眼を楽しんでいる。

ひとつの土地の上に、その言葉の意味する通り「不自然」なほど人々が集い、可能な限りの人工物を積み上げ、それらが休むこと許されぬかのごとく脈打って稼動し続ける…
そんな文明観察には夜がふさわしい。

各地を旅していると、文明の進化度や密度のバロメーターは社会の不眠度と比例しているのがよくわかる。

日の出と共に1日が始まり、日没と共に労働が終了し、巡り来る同様の明日に備え休む…
地球と太陽の関係性をベースに2分される昼夜を行き来して、延々とその営みを重ねてきた人類が、いつの頃からか持つに至った基本リズムからの脱却願望。

ある意味で、本来ならヒトの生活の陰となる部分を開拓するのが都市文明やそこに根付く様々なカルチャーの本質的パワーなのだろう。
故に、都市の夜は多くのことを教えてくれる。
「文明」はもちろん、その対極にある「自然」についてもだ。

で、夜の文明観察を通じて僕が強く感じること。
それは、街が「言葉」に溢れているということだ。

行き交う人々の会話も、どこからか聞こえるアナウンスも、携帯電話でやりとりされるメールも、ネオンサインや無数の出版メディアも、全ては「言葉」で構成されている。

東京の街は、音声とテキストの海に沈む一種の海底都市だ。

人々の立つ地面を海底として深さを増し続けるその海の海面は、遥か高きところにあり、たとえ広告塔のネオンが光る高層ビルの屋上に昇って背伸びをしても、僕たちの手は届かない。
そして、その深さに遮られるが故、南海の島でなら無数に見える星が、かくもまばらにしか見えないのだ。

仕事柄か、その深き海を構成する海水のごとき「言葉」の存在を考えてしまう。

言葉は我々人類に魅力溢れる異空間を与えてくれたのか?
それとも、引き返すこと難い不確実な空間へと引き込んだのか?

多分、双方とも「yes」だ。

本物の海同様、そこには無数のロマンが存在するのと同時に幾多の危険が潜んでいる。
「言葉」はヒトを幸福にもすれば、不幸にする力をも持つのだ。

ところで、言葉の海底都市を楽しむ面白い方法を見つけた。
「nesia」のオーディオプレイヤーを立ち上げ、ヘッドフォンで聞くのだ。

コンテンツはインストルメンタルではなく、歌詞(つまりは言葉)を伴うもの。
音のない小説や詩の朗読などでもいい。
大事なことは自らの価値観に通じるものを選ぶこと。
つまり、耳で聴くのではなく、心で感じることのできる「言葉」を選ぶことだ。
そうやって街を歩くことで、酸素を得たシェルターの中から混沌とした海中を観察するかのごとき感覚を得ることができる。
カタチなきはずの言葉たちが、大小の魚のごとく泳ぐ様が見えるのである。

今や、「言葉」の氾濫そのものは、既に引き返すことできない大きな潮流なのだろう。
求められるのは、言葉の海から光るものを見つけ出す能力だ。

溢れる「言葉」の中に、特別な「言葉」を浮き立たせることでヒトは築いた社会の深さと広さを何倍も強く知ることができる。
文明社会を溺れることなく過ごすための読解力や読み手としての知恵はきっとあるはずだ。

では、ある意味で言葉の海の創造側に位置する創作者の僕は何をすればいいのだろう?

まずは、自らの生み出す「言葉」に「光」が宿っているか否かを問い直すということ。
そして、その光を混沌とする海の中で、いかに見知らぬ相手に知らせるかの術を模索することだ。

長引いた海中の旅から、島へ戻りたくなったのは、そんな次なる目標ができたからなのかもしれない。

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僕の創作の先をどこに向けようか?

「言葉」を構成要素とする創作物は、まずその量により大きな違いを見せるが、島での創作にはコンパクトなものが似つかわしいような気がしている。

詩や詞のように、より少ないインプットからメッセージ伝達というアウトプット効果を狙う文芸に大きな興味があるのだ。
民話や民謡のような口承文化に代表されるカタチなき文学もいいかもしれない

一方で、表現の造形部分、すなわち「言葉」のデザインも興味深い。
21世紀のヒューマンテクノロジーとその背後にある洗練された感性に対して、言葉をどう演出し流通させるかは、創作者にとって避けられない課題だ。
ITやモバイルを視野に入れたハイパーワークもさらに推進させることにしよう。

明後日の成田発オアフ便を押さえた。
ワイキキに少し滞在して、トランスアイランドの我が家に戻る予定だ。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

20年前に創作した連載小説をCMSを使って再配信する…
僕が世界各地を旅した副産物としての小説群をアーカイブする真名哲也のバイオグラフィとしてのスタートしたこの「note」ですが、260話に及ぶこの作品を丁度20年前の同日とリンクさせるスタイルで重ねた意味は連載を重ねる中で、僕の中で着実に凝縮されています。

小説という手段で言葉を紡ぐことの意味は見えない未来の予測活動だと思います。
この回を記した日に僕が南洋の島々に描いていた楽観的な未来は、残念ながら霞の中に入ってしまった感があります。

コロナ禍もウクライナ危機も台湾有事も…
当時の僕にとっては「想定外の未来」でした。

いや、今はラハイナという世界中で最も好きだと公言してきたハワイのオールドタウンが消滅したことが僕にとって「想定外の敗北感」のようなものです。

この先の20年をどう生きるか?
そこにどんな言葉を残していくのか?
いや、そもそも残りの時間が20年のスケールで僕に存在するのか?

そんなことを考えながら、言葉の海に染まった僕の時間は随分長くなったものだと思います。
/江藤誠晃



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