見出し画像

089.裸の王様

2003.10.28
【連載小説89/260】


IWC(国際捕鯨委員会)の会議上の話。

商業捕鯨の賛否に関して両陣営が主張を譲らない平行線の議論が続く。
1946年の国際捕鯨条約成立以降、長きにわたって繰り返されてきた二元対立論争の中、傍聴席から発言を求める者がいた。

「この問題の一方の当事者としての発言をさせてください。これはお集まりの人類の皆様と私達一族との地球上における長い交友関係に関わることですから…。まず、先祖代々、我々は捕鯨による個体の終焉を死に至るプロセスのひとつとしてしか捕らえておらず、虐待された思いや食物連鎖における不公平感を抱いてはいないということです。確かにかつての乱獲期には、一部地域で仲間が絶滅の危機に瀕する状態になりましたが、それとて皆様の反省に基づく自助努力で最悪の事態を回避して今に至っております。全ては天命に委ねられてあるということなのだと思います。そして、もうひとつ。これは他の海洋生物たちともよく話すことなのですが、皆様の中にある思想的な部分としての“愛護”の概念。これには一種の戸惑いを感じているのです。つまり、私達は人類の皆様に護っていただこうなどとは考えておらず、外部からもたらされる一切の運命に対して、全てをあるがまま受け入れようとする精神を貫いているということです。私達を護ってくれるものがあるとすれば、それは海や空や太陽。つまり地球環境そのものが私達の保護者だと考えているのです」

この発言者は、一頭のマッコウクジラだった…

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この風刺的寓話は先週紹介した“ラハイナ・ヌーン”の席上で、ひとりの作家が即興で語ったものだ。

捕鯨ゆかりの街ラハイナを拠点としたこの会の狙いは、人類という「部分」を地球環境という「全体」から客観観察するところにあり、そのためにクジラの視点をフィクショナルに導入して議論を重ねる試みを行ったのである。

「自然が真に保護されるための前提条件は、まずもって人類が滅びることである」

なる極論がある。

食物連鎖に代表される摂理としての生命バランスとは違い、人類が自然界に持ち込んだ欲望の延長線上にある破壊行為が自然を混乱させているのなら、その破壊者さえ消えれば自然界に秩序が戻るだろうというロジックにも一面の理はある。

まずは、こういった極論を提示することで歴史と現実を冷静に再見する作業も、文筆に携わる者にとっては必要だ。
そこから疑問符を重ね、客観の中に個々が確かな主観を導いていけばいい。

「ならば、捕鯨問題における一方の当事者たるクジラたちは、人類が滅びることを願うか?」

と、“ラハイナ・ヌーン”は議論を進展させる。

答えは明らかである。

彼らは、願わない。
いや、そんな低次元のことなど考えもしない。

護る者と護られる者といった上下関係など存在せず、全てが地球環境の中にフラットな関係で共存する、という人類にとっての理想論が彼らには現実論として通用するのだ。

さらに議論は進む。

「では、相手が望んでいないことを施す人類の側に生まれる対立とは何なのか?」

これに対する答えも明確。

捕鯨における人類の賛否対立構図の背後には、明らかに文化的・経済的・政治的力学が複雑に絡んでいるということだ。

つまり、対象がクジラでなければ、いとも簡単に保護者と利用者が逆転しうるということ。

「自然保護」とは、人類にとって常に「自然利用」と背中合わせの活動だから、国家や地域によって、さらには時代によって、その重要性や優先度が変わり護るべき対象そのものさえ変わってしまうのだ。

実際、ここ2・3世紀の歴史を見れば、捕鯨に絡む動物愛護と文化継承対立の背後に各陣営の別なる思惑が見えてくる。
(詳しくは次回にまとめよう)

網にかかったり、座礁して身動きのできないクジラを見ると、「可愛そう」と思う感情が湧いてくる。
そこには駆け引きなしの動物愛護の精神が生まれる。

一方で、極北のイヌイットが命を賭けた狩りでクジラをしとめ、感謝の念と共に家族とそれを食す文化に触れる時、生命のやりとりの中にバランスが保たれる地球環境の有機性をしみじみと感じる。

これらに「何れが正しく、何れが間違っている」という問いかけが、そもそも成り立つのだろうか?

捕鯨の問題に関らず、世の二元対立を周囲から見ながら、どこかおかしいと思う人は多いはずだ。

答えは全く違ったところにあるような気がしながら、日々の営みに直接影響を及ぼすものではないから、大衆はそのまま課題を放置してしまう…

実は、“ラハイナ・ヌーン”に関らず、我々文筆に携わる者は、その課題に対する追及を試み、その成果をできるだけ多くの人と共有したいと考えている。

例えば、紹介した寓話のように、創作者の特権として想像力で物言わぬクジラの力を借りて、人類側に偏った二元対立に異議を申し立て、第3の道を提示しようとしているのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

“ラハイナ・ヌーン”に参加したことで、ネットワーク上に文筆の場を見出し、文明から遠く離れたトランスアイランドで創作の日々を重ねていることに、改めて大きな満足感を得ている。
創作を通じてやりたいことが、心中でより明確になったからだ。

僕が人生を賭けてやりたいこと。

それは、例えるなら『裸の王様』の最後に出てくる名もなき少年のあの素朴な発言なのだ。

様々な規制を受け、大衆が真実に対して盲目になりがちな世の中で、「王様は裸だ」と明言した少年のごとく、思うがまま、信じるがままを自由に発信していきたいのだ。

実名性と匿名性が交錯する“ラハイナ・ヌーン”は、一種の虚構でありながら、現実に対して鋭くテーゼを投げ掛けるジャーナリズムの可能性を持つ。

そして、多分、同様の可能性をもって、この『儚き島』は機能しうるし、そもそも文学の使命とはそういったところにあったはずなのだ。

20世紀までの文筆者は、大衆から孤高に離れ、一種の使命感を持って創作活動に励んでいた。
これに対して、目指すところは同じながら、21世紀の僕らはとても恵まれている。

南の島に暮らして物理的には大衆との距離を置きながらも、ネットワークを通じて彼らの中に溶け込み、肩の力を抜いて、でも明確な意思を持って言えるのだ。

「王様、裸だよ」と。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

INDEXに戻る>>

【回顧録】

国際捕鯨委員会(IWC)に関してはここ数年で大きな変化がありました。
日本は2019年6月末をもってIWCを脱退。
日本の200海里水域内で商業捕鯨を再開しました。

約30年にわたって反捕鯨国と科学、法律、経済、文化などあらゆる議論を重ねたものの失敗に終わった故の決断に世界中の関係者は驚きました。

といっても関係者が驚いただけで、メディアが追うこともなく、間も無くコロナ禍を迎えることになったというわけです。

人類とクジラの関係史を追っていた当時の僕がこの回で指摘した内容は、モノゴトが常に人類中心に進むことへの異議申し立てでした。

現状を見ると、商業捕鯨が再開されスーパーに鯨肉が並ぶことになりましたが、日本の捕鯨が国際的に避難されるニュースが表に出ることはほとんどありません。
70年代に小学生だった僕達の世代にとって学校給食における動物性タンパクの主役は鯨肉だったので、食生活にクジラが戻るか?と少し期待はあったのですが…

クジラは食べるものではなく、環境を知るために見るものになった感があります。
/江藤誠晃




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?