大分市は、もっともっと、面白くなる! -『放浪記』的、大分市の、現在未来的分析

[ 光と、別府湾 ]
 別府湾を眺めていると、その無類さに驚くことしきりだ。  燦々と陽のあたる、紺碧の青い空の日ばかりではない、雨しぶきの吹雪く悪天候でも、いっしゅ独特のさざ波大波が立って、美しい。この海は、じつにはっきりとした「自らの色」を持っている、不思議な海だ。
 別府湾と言うが、何も別府市の専売特許とはならない、大分市にも、むろん、接している。
 何年か前、久しぶりで、大分出の偉人、建築家磯崎新さんと晩ご飯を食べていた時、「昔、別府湾には、小さな島があってね、地震で沈んじゃったんだけれど、外来貿易の荷解きや、積み出しで、けっこう栄えた港もあった。僕の祖先は、そこの冲中士の元締めだったようだ。沈んでから、大分に移って来て、浜辺で、また同じ仕事を始めた。子供の頃は、今の港辺りで、よく泳いだよ。」そう、懐かしそうに言われた。
 地震で没したという瓜生島は、今の大分川の河口に、むしろ近かったという説も一説にはあるにはあるらしいが、不勉強な僕は寡聞にして、定かではない。
 その磯崎さんが、別府のビーコン・プラザを設計した時に、髙山辰雄画伯に依頼した大屏風絵、というか壁画が、「別府湾」だ。黄金の、渦巻く、別府湾の流れのなかに、鳥や人間が、ノアの方舟か、宇宙創成のごとく、描き込まれている。その神人一体( 神を、別府湾の波や流れの背景、鳥や人を、神の創造物たる、生きとし生ける万物としての「モノ」ととらえれば )の風景に、僕は圧倒される思いがする。
 磯崎さんは、「大分の特徴は、光だ」と言われた、という。(註1)  それは、ギラギラして照り返った、光を乱反射する海、というより、円やかな光、大きく自然や人間を包み込む、球体の柔らかさ、をいうのだろうと思う。
 このあいだ( というか、僕は、しょっちゅうヤボ用で、あるいは用が無くても、六盛の冷麺を食べに、友永のパンを買いに別府に行くのだが、生まれ故郷に地形や空気の似ている別府や鉄輪は、大分でもとりわけ好きな土地だ )、別府に行ったら、海から潮の香りが漂って来て、何だか、古里に帰ったような気がした。
[ 手前味噌、尾道 ]
 僕の生まれ育ったのは、広島県の東部、小さな港町、歴史の古い、古刹と造船の町、尾道。大先輩、大林宣彦監督の、有名な尾道三部作でご存じのように、フェリー、渡船の行き来する、ドックの槌音のきこえる海峡というか狭い海、 向かいの島とほんのわずか隔たった川のような水道から、密教の古刹、千光寺、古くは遣唐使を見守った燈火のあったと伝えられる玉の岩まで、いっきにかけあがってゆく、坂また坂の町だ。
 そういう起伏や水の存在が、いっしゅ独特の、町の気配を醸し出し、つまり僕らが身体的に感じる、ゲニウス・ロキ(ラテン語だが、かつて、亡き建築史家、鈴木博之さんが、建築的に解説されて、以降、「地霊」と訳するようになった)を持った土地柄なのであった。
 小津安二郎の名画「東京物語」で、原節子と笠智衆親子の暮らした家が、坂上のどのへんにあったか見当もつくし、他にも、寺の石段や軒下、小路の奥の井戸の匂いまで、町の隅々が身体に染みついている。古里とは、そういうものだろう。
[ マッチョな自動車を、駆逐する? ]
 今回、旅のシューレ大分市編、「県都の誇りを取り戻そう!」の前半は、僕が、生意気にも、「大分県は面白いのに、なんで、大分市はそうでもないのか?OPAMがあるのに」という演題で、前半の前座を請け負った。
 生意気な話だし、「他所者が、何を言うか?」とお叱りを受けそうだが、他所者こそ分かる、その土地の良さ悪さもあるので、話すことにした。
 別府湾に面している大分市であり、大分川もあるのに、意外なことに、町なかに、潮の匂い、水の音がしないのが、少しく不思議だった僕は、そのこともいっしょに考えようと、来てくれた皆さんに問いかけた。物理的な潮の匂いや、水の音じゃなくて、町に暮らす大分市の人びとが、案外、心や気分を水に向けていないのじゃないか?という意味だ。それが悪くいうと、余裕の無い、人びとがあんまり、のんびりブラブラしていない、仕事仕事でちょっとあくせくしているゆとりの無い町、というイメージにつながるのかなあ?県都だから仕方が無いのか、皆が忙しいのは?ゆったりのんびり出来る、憩いの場、OPAMがあるのに?
 それから、大分市には、どうも、裏道や裏通りのイメージが薄い。表通りばかりが目立って、何でもかんでも頑張って目立たせようとして、「ブラブラ」歩くのに、適していない、面白みが少ない。
 これは、大分市に限らないが、「目的地から目的地に、直行する」装置である、自動車に皆が頼り過ぎているからかも知れない。
 僕は自慢じゃないが、運転免許を持っていない。若い頃から「あんな砂を噛むような法規やルールを一週間でも覚えるぐらいなら、死んだ方がまし」と思っている。それに、身体の具合が悪い人やお年寄りなど例外はあるものの、持って歩く「モノ」として、いちばん大きな( しかも危険な )荷物になって、一般には百害あって一利無しだ。僕は、経済的にも「もっとも安い」( ある統計で自動車一台持っているのと、月八万円タクシー使うので、経費は同じだそうだ。それなら、事故の危険も無い、優雅なタクシー乗り捨てが、もっとも良いに決まっている )タクシー愛用者だし、バスや電車、そして、何より「ブラブラ移動」の最大武器である、自転車愛好家だ。
 大分市ももっともっと、自転車愛好家が増えると、必ず、町も変わると思う。大分市が粋(いき)な町になるためには、自転車が必須だろう。
[ 大分県は、ロマン主義的両性具有の気質 ]
 大きい声では言えないが、僕は、お城のあった町というのは、何となく、侍の気質( まあ、僕ら賃金労働者、つまりサラリーマンの元祖なので、いちがいに否定は出来ないのだが )が、長い歴史のなかで染みついていて、ある部分、マッチョ( これを何と訳すかはじつに難しいところだが、権威、権力志向とも違うが、全く違う訳でもないし。律儀で几帳面な、真面目な性格が昂じて、付き合い難くなった昔の友人、というのとも違うけど、いやー難しいなあ )なところがあるのは、たしかだ。ちなみに、尾道は港を中心とした商工の町で、侍の町ではなかった。
 いつだったか、ほとんど見ないテレビだが、たまたま誰かとNHKだったと思うが、司馬遼太郎のドキュメンタリーを見ていて、「長い武家社会支配のなかで、日本人の心根に浸透した、「公(おおやけ)」という思想」( 司馬の言だろうが )があるということを、言っていたが、複雑な気持ちで「フウーん」と思ったものだ。これを、侍の町の気質とすると、やっぱりちょっと肩が凝る部分もある。
 「人に合わせるのは、絶対に嫌だな、俺は俺で、勝手にやらせてもらうよ」というのが、これと反対の、商工の町の気質だろうか。
 これを、敢えて深読みしてみると、郷里の大先輩の、大林監督が、「人間、較べ合うのが、まず駄目。やがて競い合い、戦争になる」とおっしゃるように、飽くまで極論だが、マッチョや几帳面や、「人の為、社会の為」というのは、まかり間違えば、戦争に行き着く危険だってある固い気質でもある。
 監督の最新作は、無頼派の檀一雄の原作をもとにした、太平洋戦争開戦直前の、佐賀の唐津の青春の蹉跌を描いたもの。お得意のシュール映像満載で、すこぶる楽しめるが、監督のメッセージを、僕は、酒場の女の啖呵に読み取った。
 曰く、「唐津んもんが、命かけるのは、山曳くときだけたい」。
 つまり、お祭りですね。
 ここで思い出したが、僕が学生に必読書の一つとして、すすめているのが、オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガが、たしか第二次世界大戦が、今にも勃発しようとするちょうどこの頃( ちょっと前だったか? )に書いた、名著『ホモ・ルーデンス』だ。ラテン語で、ズバリ「遊ぶ人間」。つまり、人間のもっとも知的でクリエイティヴなか活動として、遊びを検証、称揚したもので、ナチスを批判した硬骨漢と、記憶がたしかなら、そう伝えられていたらしいこの歴史家の、真骨頂がぞんぶんに、現れたものだ。
 日本が朝鮮を属国化して、三・一独立運動を武力弾圧した時に、「朝鮮の友に与える手紙」を新聞に書いて、日本政府を批判した、民藝運動の創設者、柳宗悦を思いだす。柳は、あろうことか、その朝鮮民族のために、旧景福宮内に、「朝鮮民族美術館」をつくる。お上に盾ついた、ホンモノの文化人であり、しかもミュージアムが人を救い得ることを実証した人で、僕は、とうてい足元にも及ばないが、一個の、頑迷なる、柳主義者でもある。(註2)
 話は逸れたが、大分県は、宮崎と並んで、瀬戸内文化圏にあって、温暖温厚、外海の、謂わば、武力や戦いにものを言わせる「俺が俺が」の武断主義の土地柄とは、かなり隔たった、柔らかで、「奥床(おくゆか)しい」精神性を持った風土であると思うし、これは、またよく言われることでもある。
 その辺は、実は、大分県の美術や、文化を見てゆくと、かなりはっきり分かる性格なのではないか、と僕には思えるのだ。
 今回は、髙山辰雄画伯が、晩年に生まれ育った、大分の浜辺を描いた、しんみりする、墨絵調の大作「遥かな浜辺」を画像で見てもらった。幼い男の子と女の子が佇んだ、心打つ絵である。同じ、海辺の近くに育った、近代日本画の改革者福田平八郎が、描いた、大分の、夏過ぎた頃の瑞々しい「青柿」、それに海中を泳ぐ「羽フグと、鰈」。竹の名匠、生野祥雲斎の、戦後の傑作、モダン彫刻にも比肩する「陽炎」。
 大分県の美術から読み取り得る、大分気質とは、憧れや夢想、哀愁やしんみりした情感を重んずる、という点での、「浪漫主義」、そして、マッチョとは正反対の、奥床しい「両性具有性」ではないか、というのが僕の自論である。
[ 竹田と、梅園のはざまに ]
 ヨーロッパでいうところの、「ロマン主義」は、だいたい啓蒙主義や科学実証主義の勃興した後、その反動というと変だが、私見では十八世紀の半ばから、十九世紀にかけて、沸き起こってくる。
 その同時代、江戸の中期から後期に、活躍した偉人が、大分には二人いて、西( 南か )の竹田(ちくでん)こと、竹田の文人南画のリーダー、田能村竹田と、東( 北 )は国東は安岐の人、医者にして経世家だった、宇宙哲学の開祖?三浦梅園であった。
 竹田の「山陰夜雪図」( 県立美術館所蔵 )という名品を見てもらって、これが大阪の町与力にして陽明学者、天保の飢饉の時に、民衆の窮乏を憂い、米を溜め込む商人や幕府にさまざま提言するのも聞き入れられず、爆死した革命家、大塩平八郎の旧蔵になることなどを話して、竹田の浪漫性に、思いを馳せてもらった。
 梅園の、宇宙哲学『玄語』を僕は、まともに理解しているとは、とうてい言い難いが、とにかく、魅せられる思想である。(註3)理解していないものを話すのは、気がひけるが、魅力のあるものは伝えたいので、仕方ない。人の受け売りもふくめて、自分勝手な解釈も入れて、僕は、「正反対、対極の要素の、引っ張り合い、ぶつかり合いの、無数の総体で、世界は出来上がっていると考えた梅園は、その捻れ、入れ替わり、陰陽の反転する力、力動性にこそ、宇宙エネルギーのダイナミズムがある、と考えた」と説明?した。
 大分こそが、その地球磁場、宇宙捻転の発火点、梃子でなくで、何であろうか?
 それから、僕が竹田荘と、梅園邸に行って感心したことのいちばんは、その抜群の空間の動きと静けさを持った、裏庭だったことも話したものだった。  まあ、結局、奥床しさ、ですね。
[ 旅する大分、佐藤渓から、林芙美子へ ]
 ちょっと前に終わった終わったOPAMでの展観は、昭和の放浪画家にして、詩人の佐藤渓、広島の熊野生まれで、湯布院に没した人だ。近年人気の高まっている、これも放浪の俳人で、大分を旅している、種田山頭火との二人展とした。
 佐藤渓には、とりわけ、「生き迷っている、戸惑っている、等身大の人間の姿」が出ていて、それが旅や放浪に結びつき、ひかれる。(註4)
 佐藤渓と山頭火は、二世代も世代が隔っていて、実は、僕のなかには、二人を「合わせ技」する、もう一人の巨人がいる。
 もちろん、古里、尾道の女学校を出た、先輩?昭和の大ヒット作家、林芙美子である。何ていっても、『放浪記』だ。
 冒頭の殺し文句は、僕の生涯の乾坤一擲の、座右銘になった。
 曰く「 私は、故郷を持たない。宿命的に放浪者である。」
 これが実は、昭和五年、1930年当時、近代化、都市化の急激にすすむ、例えば東京で、地方からドンドン押し寄せて、都会に住み始めたサラリーマン層、勤労労働者層、つまりは僕らの元祖だが、その「故郷喪失者、古里出奔者」の心を掴んで、昭和の大ヒットとなったに違いないのだろう。
 近代人であるいじょう、テクノロジー、科学技術の進歩や、生活の利便化の恩恵を受けて、和洋折衷の生活様式のなかにどっぷり漬かって生きているいじょう、大都会にいようが、田舎に暮らそうが、僕らは、この「旅すること、放浪せざるを得ない」宿命から逃れられない、と僕は思う。
 だから、もっと暴論すれば、大分の人も、「古里にどっぷり浸かって、安堵せずに」、「ここに居る、ここにある、これもまた旅」と感じることで、逆に大分がもっと面白く見えて来るのでないだろうか?
[ 観客はバクテリアだ ]
 最後に、僕の役目じゃないが、稀有な映画人である、田井肇さんから学んだことを書いて、報告を、岩尾君にバトンタッチしたいと思う。
 田井さんとは、まだ会って間もないが、面白い話が満載で、話すとこんなに面白い、博識の人は滅多にいない人だ。ことに、映画に対する情熱が、凄まじく、また凄い。一道に身を賭した人が如何に、深く豊かな見識を持っているか、の絶好例だ。
 映画館というのは、農業です。
 つまり、こういうことですが、素晴らしい野菜や作物をつくっている人で、僕はこれこれこういう作物をつくっている、と胸張っている人は、おそらくはいない。じゃあ、どう言うかというと、彼らはひとしなみに、「お天道さま、気候や風土、つまり、この素晴らしい土地に、つくらせていただいている。」みな、そう言いますね。
 農業の土台、すべてを決めるのは、やはり、土壌、土地でしょう。
 作物、良い映画作品は、このなかから、もちろん生まれるが、その土壌はその作物を食べた( 映画をみた )私たちじしん、つまり観客が、ああでもない、こうでもない、といろんな反応をし合って、この、素晴らしい、活力、ヴァイタリティー豊かな土壌を育ててゆく。
 清潔で綺麗な土壌が、豊かなのじゃない。さまざまに違う、個性の異なる人間が、蠢いて、互いにハレーションや影響をし合って、真の豊かな、開かれた土壌が、出来上がってゆく。
 だから、私も、あなたも、みな、映画をみる、愛する人間は、映画館、映画界という農業にとって、バクテリアなんですよ。」

 それは、大爆笑ではなかったと思う。
 僕には、はにかんだ顔、輝く目がまず集まって、田井さんの話の合間合間に、含羞にとんだ、大分らしい、賑やかでしっとりした、笑い声が響いた、と感じられた。
 「ミスター映画」田井さんには、トークの前後にたっぷりと、映画の話をきかせてもらった。僕らだけできくのは、勿体無い話だった。今後も、田井さんから、話を皆できき続けたい、と約束し合ったものであった。 
 小さな、密やかな、面白い、共同体が、成立した瞬間だったのではないだろうか。

 夕闇のつつむ、大分川の土手そば、気持ちのいい風の吹く、サリー・ガーデンの瀟洒なギャラリーに集ってくださった、多くの皆さんの笑顔が響く、心温まるよるであった。その晩のホスト出会った、橋下栄子さんとスタッフの、行き届いたホスピタリティーにも、皆さん、大満足の様子。
 その後は、素敵な料理にお腹いっぱいになりながら、歓談は続いた。
 ダイナミックなイラストに人気のある、北村直登が、竹田の図書館や、ホルト・ホール前のモニュメントを設計した、知的で温和な建築家、塩塚+古庄夫婦が、新鋭彫刻森貴也、豊後南画コレクター二宮君、オーガニック・マーケットの後藤亜紀子さんはじめ、ほんとうにたくさんの、素敵な人たちが来てくださった。
 だから、「もっともっと、大分市は、面白くなれる」、と僕は、信じる。
(註1)       
 これは、磯崎さんから、直接きいたものではない。大分市美術館館長の、菅章さんからの又聞き。菅館長の意見でもあるそうだ。
(註2)   
 柳宗悦と民藝運動については、畏敬する美術史家、美学者、長田健一先生の論から、多くを学んで、借りている。
(註3)      
 三浦梅園について、僕が正確に、理解しているとは、とうてい言い難い。 
だから、ここで勝手に書いているのは、すべて、梅園関係の著作の、主には、三浦梅園資料館の解説ヴィデオや、刊行物、とりわけ、学芸員の浜田晃さんに教示されたことの、受け売り、また、それに勝手に自分の解釈をねじ込んだものである。と断りたい。 
(註4)   
 これは、今回会場にも来てくれた、大分合同新聞の、文化欄の担当記者、佐藤栄宏さんの意見。佐藤渓の作品が、これだけ残ったのは、近代建築の遺産、聴潮閣を保存しながら、佐藤渓の顕彰に、情熱的に尽力して来られた、高橋鳩子さんの功績が、大きい。
 
 四旬節第三週、都下東村山のサナトリウムの村で。
大分県立美術館館長
「大分、たびするシューレ」顧問
   新見 隆 

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