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山形の姥神をめぐる冒険 読書編 #1

 姥神めぐりは山奥を訪ね歩く、文字通り冒険めいた探究の旅なのだが、同時に自身の内面に降りていく旅でもある。本で読んだあれこれのイメージが山の中にいると不意によみがえってくることがある。こうしてよみがえるイメージは、古い土地の記憶や民族の歴史などを宿していて、自分だけの意識や知覚に依らない。
 実はそのくらい自分の意識など小さなものなのに、今は自意識が肥大化してやたら肯定感だの傷つきだのがズームアップされている気がする。おずおずと震えながら生きている人が多すぎる。
 ほんの少しの摩擦、強すぎる光、小さな異物…。簡単にかぶれを起こし、いつまでもヒリヒリジクジクする敏感肌。そんな自意識の息苦しさからどうしたら抜け出せるのか。そんな「抜け出し」のヒントを、この本から見つけてみたい。l


『沼地のある森を抜けて』梨木香歩 著 新潮社/2005年

 主人公の久美は、先祖代々伝わるぬか床を自宅に持っている。彼女の先祖は南の島にいて、そのぬか床は島からはるばる都会まで運ばれてきた。亡くなった叔母から彼女に託されたのだが、いろいろおかしな事が起こる。例えば、ぬか床から子どもや怖い婆さんが現れたりする。子どもは幼なじみの男の子に似ていて、婆さんは彼女に嫌なことしか言わない。

 「いい歳をして」結婚もせす、子どもを産みたいとも思わず、恋人もいない久美に婆さんは酷い言葉を浴びせかける。

「子どもも生まずに朽ちてゆく体だね。いかにも一度も赤ん坊に死にものぐるいで吸われたことのない乳房だね。…これで一生終わるね。」
「おまえのような不細工な娘は、結婚もできなければ子どもも産めるわけがない。それなのにそうやって体は妊娠の準備をする。」

婆さんの言葉に激しく動揺しつつも久美は結婚や出産について、
「それに拘泥することをしなかっただけだ。そこまで私を支配する問題ではなかったので。」
と反論する。実際そのように賢明に生活してきた彼女だけども、涙があふれて号泣してしまう。自分の中の深いところにそんな悲しみがあることを知っていたので。

 一方、封建的な家庭で育ったがゆえに意識的中性人になった風野さんはフェミニンな男性だ。ガンに侵された母が末期になっても夫の食事を作り続けて亡くなった。そんな父と男性性そのもへの嫌悪感で家を飛び出すのだが、長い髪と言葉使いは女性っぽいのに、思考や行動は理屈っぽくて男性らしいところがちぐはぐだ。彼(彼女)は、アパートで変形菌を飼っている。

 そんな二人がぬか床を契機に出会い、それぞれの問題意識を喚起され、ぬか床を元の場所に返すべく久美の先祖ゆかりの南の島に向かう。南の島には何があるのか。どんなシグナルが彼らを照らすのか。
 冒険めいた紆余曲折があり、彼らはしっかりとそのシグナルを受信する。ガチガチの自意識が溶けて流れていく。ぬか床は沼に返され、変形菌は島に放たれる。

 この小説は後半になるにつれてどんどん空気が濃密になり、鬱蒼とした緑と蠢めく菌類の気配が充満してくる。この雰囲気と姥神のいる山の空気が重なるのだ。
 姥神を探しながらその置かれた環境や歴史を思い、交錯する時間軸や人々の祈りの痕跡を辿る。そんな密度の濃い空間では、シグナルを受信する感覚器官が全力で集中する。そこに自意識の入り込む隙はない。「私は」という主語が外れてしまうのだ。
 これはあの「私的には◯◯だ。」という言い方の無効なのだ。「あくまでも独りよがりかも知れない「私」の意見や感想ですので、正しいとか言っているわけじゃないんです」というあのエクスキューズ。いつからそんなことを気にしながら話すようになったのか。「知らんけど」も似たような意識の現れなのかも。そんな小賢しい意識の支配が解除されるとイエスに満たされる。肯定感全開の身体になる。

 この感覚を味わうことが、姥神邂逅リピーターになりつつある今の私のモチベーションになっている。



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