Intellectual Giftedness - 才能についての科学 #6

醜いアヒルの子 - ギフテッドの一風変わった振る舞い

 ― その子は、極度の知りたがり屋であった。学校では「1+1=2」を鵜呑みにすることができず、先生の手を焼かせた。ガチョウの卵を自分で孵化させようとして何時間もガチョウ小屋で座り込んだり、「なぜ物が燃えるのか」の探求に熱中し過ぎたあまり、自宅の納屋を全焼させたりした。仕舞いには、担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられる始末であった。

 仮に将来、その子が傑出した発明家になることが事前に知らされていたとしても、トーマス・エジソンの親になりたいと思う人は稀有に違いない。頭の良い子が生まれたからと言って、手放しに喜ぶことはできない。賢い子供は優れているのではなく、「異質」なのだ。ギフテッドは「普通」である私たちとは異なった方法で世界を認識し、異なった課題に異なった方法で取り組んでいる。そして、その異質な認知能力が原動力となって現れる一見風変りな振る舞いは、幼少期のトーマス・エジソンのように、時に周囲の人々を困惑させる。

 ギフテッドの「異質さ」は、その世界の知覚の仕方の根本的な違いと、過敏な神経による過剰な反応が原因となっている。そして、その緊張を孕んだ頭脳にいっそうの歪みを生じさせるのが、知能と精神の発達段階のアンバランスだ。詰まるところ、小学生の身体と心を持った少年少女に、微積分やショーペンハウワーを理解できる大学生の知能が同居していたら何が起こるのだろう、ということだ。発達し過ぎた知的能力と、まだ幼い精神や未熟な社会経験の間の大きなギャップは、非現実的なレベルにまで期待値を高めてしまうことがある。かつてIQ 210とマス・メディアで持て囃された韓国の天才少年は12歳でNASAの研究員となったようだが、結局社会でのコミュニケーションに失敗し、心理的な圧迫感で潰れてしまったと聞く。

 万博会場の屋根をぶち抜いて太陽の塔を建てた岡本太郎を例に出すまでもなく、才能とは桁外れであること、過剰性そのものだ。ギフテッドとはその素地を備えた存在なのだとイメージすればよいかもしれない。ギフテッドを子に持つ母親は、こう言ったという。「あの子はいつも、やろうと思ったことをやり過ぎてしまう」と。

 この「過剰性」こそがギフテッドの第一の特徴であり、同時に脆さでもある。そして、それは大人になっても消えない。過剰さは、ギフテッドの感情的な側面や、知的探求、競争意識などに対して広く影響する。このためにギフテッドはしばしばせっかちな性格となり、自分や他人に対して過度な要求を課してしまう。忙しなさや、落ち着きのなさといった身体的な特徴もよく指摘に上がる。彼らはいつも完璧を期待し過ぎるのだ、自分にも、他人にも。

 過剰さは、神経の敏感さと切っても切り離せない関係にある。過敏な神経系を持った子供は、夕方のテレビで流れる悲劇的なニュースに涙を流し、音や光、匂いに神経質なくらいの敏感さを示す。悪気なく、彼らの背中を後ろから叩いてみよう。大げさなくらいに驚いた顔を見せてくれるはずだ。身体に触れられることに対するオーバーなほどの防衛的な反応も、ギフテッドに特徴的と言われている。

 こうした「やり過ぎる」傾向をもって物事のあらゆる側面を理解しようと探求し、何ものにも一貫性を求める姿勢は、完璧主義や理想主義へとつながりやすい。これが行き過ぎると、心配性やうつ気質、自分と価値観を共有しない他者に対する攻撃的な態度になることがある。ギフテッドの才能が上手く社会に受容されない場合に、その過剰性が世間とぶつかり合ってしまうのだ。まるで、オーギュスタン・コーシーなどの同時代の大数学者に理解されず、革命運動に傾斜していったエヴァリスト・ガロアを彷彿とさせる。世間に理解されずに夭逝した天才の悲劇は、いつも人々の心を打つ。

 当たり前のことだが、誰もが自分が想像できる範囲の世界で、物事を考え、理解する。その先は?認知的な境界を超えた世界のことは、その主観にとって存在しないに等しい。コロンブス以前、ヨーロッパ人にとって大西洋を越えた先に存在していたのはインドであったのと同じだ。人と人が分かり合えることには限界があり、この理想とのギャップこそが世界の喜悲劇の源なのだ。

 ギフテッドは特別に鋭敏な神経のために、人生の苦楽をより激しく感じる。喜びはより大きなものになるが、悲しみや苦痛も倍増して知覚される。浮き沈みの激しい、ジェットコースターのようなものだ。才能を持つことに憧れて、そのチケットを欲しがるにしてもよく吟味したほうが良い。普通の人は、自分が彼らの心理を理解できていないことにすら気づいていないが、ギフテッド自身は孤独を深く感じ取り、傷ついている。だからだろう。ことさら他人との関わりを避け、内向的に生きる者も多い。

 七面鳥のひなかもしれないと虐められて育った醜いアヒルの子の物語があった。その子は、いつの間にか大人になったある日初めて、自分がアヒルではなくて美しい白鳥であったことに気づいた。同じように、ギフテッドが人生に意義を見出し、幸せに生きるためには、どんなヒントがあるのだろうか。ギフテッドの「過剰性」について理論付けした、ドンブロフスキの考え方を巡ってみよう。

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