音楽受動
もう半年が過ぎたかと思うと、次の瞬間には年が明けているのでしょうね。あと200日ちょっとで成人な訳だが、全然実感が湧かない。
最近なんだか文章を読んでも如何せん頭に入ってこない。noteでフォローしている方の記事も読めなくて、仕方がないので音楽ばかり聞いている。この間軽い熱中症になったのだが、そのせいかな。
折角なので、あんまり手を出した事のない物を聞こうと、神聖かまってちゃんと大森靖子さんに手を出した。と言っても、まだ人気なのを数曲聴いただけなんだけどね。
お噂はかねがね聴いていたので、なんとなくどういう雰囲気の曲づくりをするのかは知っていたのだけれど、いい意味で新鮮だった。
大森靖子さんの「子供じゃないもん17」という曲が、ゴリゴリのモータウンビートで、スティーヴィーワンダー好きの私としては結構気に入っている。神聖かまってちゃんの歌詞は、精神分析の自由連想法みたいですね。今解釈すると(情緒的に)危険な気がしたので、BGM的に楽しく聴いていた。
偶に適当な事もあるが、文章では「聞く」と「聴く」を使い分けていて、「聞く」はBGM的に、深淵な解釈もせずに聞く。ディスコ系のダンスソングとか、EDMとかああいう物だ。「ノレる」という奴だね。
「聴く」というのは、深淵な解釈をする時に使う。つまりヘッドホンをし、目を閉じて、リズムやそれぞれの楽器の音色、歌詞の解釈、歌っている時の歌手の心情までも想像して聴く。これがえらく楽しい。
エリート主義的な(クラシックや古典文学を嗜む人を指す言葉があったはずなのだが忘れてしまった)曲の聴き方の影響を受けていたので、言葉数が多くて、BGM的な曲をあまり聴いて来なかった。
最近にして、ようやくある種フラットに聞くという事を覚えられるようになったので、聞けるジャンルの幅がグッと広くなって楽しい。ラブソングも少しずつ聞けるようになっている。
ずっと音楽は深刻に聞かなければならない物だと思っていた。誰の影響だろうと考えたのだが、たぶん小学校の頃の音楽の先生ではないかな。古典音楽に熱い人で、シェーンベルクの十二音技法やらについてウンチクを垂れていたのだが、まあ小学生に理解できるはずもなく。
今どきああいう人も珍しいと思うが、ただその雰囲気になんとなく憧れていたのは覚えている。休み時間に生徒にピアノを教えていて、プロコフィエフの、束の間の幻影を弾いていた。
それから野田先生に出会って、ああ深刻に聞かなくてもいいんだと思って、色々な分野の音楽に気軽に手を出せるようになった。
最近は、安克昌先生が好きだったセロニアス・モンクも聴いている。即興ジャズで、最初にピアノで音をつけながら、サックスやドラムスがその音に合わせていく。頭の中の「こう来るだろうな」という予定調和が壊される感覚があって良い。
グッと入り込んで聴くのもいいが、消費的に聴くのも悪くはない。バランスだね。
頭が回らないので、こういう事しか書けない。いや、頭が回らないので、こういう事を書いている。
性についてと、人間関係について書いている最中なのだけれど、私と向き合わなければならない。骨が折れますね。