休み明け

もうちょっとなにか書き残しておいた方がいいような気もしないでもない。それで、なにはともあれ書いてみることにした。すばらしいアイデアが出るとも思っていないし、これまでに思いつかなかったようなビジョンが見えるとも思っていない。なにもしないで毎日をすごすのも悪くはないが、毎日やっていることをなんとなく書く中で、考えが自然に見えるのも悪くはないかと思う。

Jalshaのブログ 2019.01.01「書き始め」
https://adler.or.jp/2019/01/3887/

(「Jalshaのブログ」とは、野田俊作先生がご病気で補正項を辞めた後、亡くなる5ヶ月前まで続けていたブログだ)

何処から書けばよいものか迷うのだが、この一月の間、衝突事故に遭ったり、引っ越しの目途が立ったり、人生で一番重く自己を省みたりと、慌ただしく過ごしていた。

お分かりの通り、私の書くものは、特定の個人の影響を強く受けている。初めて彼の文章を読んだ時、自分が考えていた事の、というよりは、この世を渡り歩く為の大きな地図を見つけたような感覚になった。

だが、私が言葉は、ずっと彼の模倣でしかないように思う。模倣と言っても、その個人の意見や思想と自分のそれが著しく離れている訳ではなくて、むしろ近い。今までそれで悩んだ事は無く、というか自ら進んでそう書いていたので、それで良いと思っていた。「私」の言葉は必要が無く、より多数に少しでも分かりやすく伝える事が出来ればそれでよい、と。「自分の」という事にこだわる人が余りにも多いから、1人ぐらいそうでない人が居てもいいだろうと。その考えが、最近パートナーさんとの会話で揺らいでいる。

どうやら私は、自分の考えや感情が固まるまで人よりずっと時間がかかるタイプの人間で、しかし黙っていては何も考えていないだとか話を聴いていないと思われるのではないか(つまり劣等の位置に置かれるのではないか)という学習が過去にされていて、つい固まる前の状態で言葉を吐く癖がある。しかもそれは、自分が過去に見聞きした物の中で、いまの自分の思考や感情に一番近い物を、適当にあてがったに過ぎない。「張りぼて」とは少し違う。生きている。

また野田先生の言葉を借りさせていただくなら〈まごころ〉でもって〈まこと〉を語ってはいるが、言葉は〈かりもの〉だ。言葉が〈かりもの〉であると、時より、相手に〈まごころ〉も無く、〈まこと〉も無いと思われてしまう事がある。17年間、ずっとそんな悩みを抱えて生きてきたような気がする。

だから、自分の言葉が〈かりもの〉であることが嫌いだった。そうなのだが、自分の言葉は出てこない。そもそも、「自分の言葉」なんて無いと思っていたから。それなら数ある物の中から最も自分に近く、最も良いと思う物を選ぼうと考えていた。しかし、このやり方では一つ問題があって、私の「まごころ」だけは、絶対に相手に伝わらない。差異がある。その差異を、誰かの言葉で埋める事は出来ない。そんな思いを、無意識の奥底に秘めていたのだが、パートナーさんに掘り当てられてしまった。

自分の言葉を発見したい。自分がこういう事を思うとは考えてもみなかったので、物凄く恥ずかしいのだけれど、ゆっくりとでも挑戦してみたい。何から手を付けていいのか分からないので日常を綴るぐらいしか無いのだが、とにかくやってみたい。

少し迷ったが、今までのnoteも、近いうちに一部の物を覗いて全て非公開にする予定だ。目指せないライフスタイルというものは、ある。今回はそれが分かっただけで十分かな。このパーツは、私には少しばかり違和感があって合わない。大好きだが。

とりあえず、程よく肩の力を抜いて、素直であることを目指そうと思います。出来は酷いものになるでしょうが、宜しければ、これからも見守っていただけると幸いです。