カリスマ信奉者/溌剌と生きる

カリスマ信奉者

まあ私の事なのだけれど。誰を信奉しているかは、みなさんお察しの通り。

今日、ある人との会話の流れで「僕は神格化するほどの人って居ないと思ってて」と言われ、「あれ?もしかして自分って、誰かを神格化してると思われてる?」と感じてしまった。

私は、名越康文さんに出会うまで、大人を尊敬したことが一度としてなかった。もう一度言う、一度としてなかった。敬意は払っているのだが、尊敬した事は無い。「尊敬」できるのは、私が「人間的に」敬意を払えるなと思った人だけだ。その定義で行くと、名越康文さんと野田俊作さんぐらいしかない。野田さんに至っては、グレーゾーンのような所もあるので、実質的に名越さんぐらいしか居ない。それでも「敬愛」か「信仰」レベルで「神格化」と言われると笑ってしまう。ゴータマ・ブッダのような人なら話は別ですけどね。彼らは聖人でないからこそ好きなんですよ。

私はひねくれものなので、自己啓発書を軽蔑しているし(ごめんね)、批評家を軽蔑しているし(ごめんね)、某フランスに住んでいる人だとか、メンタリストだとか、ライブドアの人だとか、オタキングだとかは、もれなく全員好きではない(ごめんね)。「何故か?」と聞かれれば「なんとなく」。それを強いて言語化するなら「人間的に尊敬できないから」。

もう少しそれらしく言うのなら、私の信念パターン(ライフスタイル、過去の学習)と、彼らのそれが違うから。こんな事を言っていると、私も人間的に尊敬できない部類の人に入ってしまいますね。でも、好きか好きじゃないかは、不悪口ではなく価値判断でしょう。と、自己弁護しておく。

で、そんなひねくれものだと、影響を与えられる人が少ない。それでも、尊敬している、或いは好きな人からはとことん影響を受ける(これは3種っぽい?)そのパワーだけでなんでも出来てしまうぐらいに。私がこんなにひねくれてしまったのは、みんながみんな良寛さまのような生き方をしていないのが悪いんですよ()

彼ほどの人を世俗で探すのは難しいので、野田先生に私淑し、名越先生を生涯の師と(勝手に)仰いでいる訳です。この2人に出会わなかったら、今頃自分はどんな嫌な人間になっていたんでしょう。あんまり考えたくありませんね。兎に角わたしに「諭し」が出来たのは、この2人だけという事。逆に素直な人は疑うという事をしないから、誰かの言った事をなんでもそのまま聞き入れて、両義的になって潰れる人も多いんですかね。どっちもどっちだな。

野田先生に出会っての一番の収穫は、思想抜きにして学ぶという事。日記を読んでいると、もちろん彼の恣意的な部分が出てくる。その恣意的な部分だけを取り除いて、自分の思想を当てはめると、これが面白いくらいにバッチリとハマるんですよね。時代精神の古い部分だけ取り替えるという感じ。理論と意見を分けると言うと伝わりやすいかな?

私も色々と言いましたが… 人生の指標となるような人が居るのは(特に生きているのは)素晴らしい事ですね。私のように(ごめんね)色々と言う人も居るけれど、まあいいんじゃないですか、勝手に言わせておけば。人は相手の知っている部分でしかその人を見ないわけで、その人たちの品性に合わせて他人を見るわけなんだから。私も含めてね。

あ〜、はるかなるふあっく〜。

溌剌と生きる

manaさんというジュエリー作家兼歌手の方が居て、珍しいご職業をされているのだが、今日その方が偶々、私がよく聴きに行っている配信に出ていらして、とても元気を貰った。

とにかく溌剌とした方で「自分が話しているだけで楽しい」とか「人生に答えを求めるのが正解じゃないよ、人生の答えは自分で決めるのが正解」とか「その場を楽しむのが目的じゃ駄目なんですか?」とか、とっても明るく言明してくださるので、自分に足りない、何かこう勢いのようなものを、ドーンと教えてくださった感じだ。いや気分が良い。一度お話ししてみたいな。

ずっっっと前から、ナルシストになりたいと常々思っていた。なれたらどんなに幸福だろうかと思うし、manaさんや野田先生ぐらいのナルシストを見ていると、物凄く勇気づけられる。なんなんだろうね、あれは。

最近よく「貢献感」という事について考えているのだが、「貢献『感』」なのだから、主観的な感覚だ。働いて税金を納めたり、家族の家事を手伝ったりするのも、もちろん貢献的な活動なのだが、それは目に見える、生産的な活動ばかりだ。

私が齢80.90を過ぎたおじいさんになったら、きっと何かしら人の手を必要とする時が来るだろう。当然若い世代には体力では敵わないし、頭脳面でも敵わない。

時々思う。実際に貢献していなくても、貢献していると感じられないかなあ、と。それと同時に、幸福に人生を生きることが一番の貢献なのではないかと。ただ存在するだけで貢献しているような、そんな人間になれないかな。幸福であって、自分が幸福であることによってまわりの人々に幸福を与え、そのことによって貢献感を持って幸福であるというような、そういう良い循環のなかで老いてゆきたいな。それは立派な生産活動ですよね。

私は人が幸せそうにしていると、自分も幸せになれるから。知っている人なら尚更ね。「生きていくんだ それでいいんだ」ですよ、やはり。これは正しいと思う。

ああいう風に生きたいな〜。元気に、溌剌と、自信を持って、ナルシスティックに。そのまま老いたら、きっと貢献感を持って、幸福なまま生涯を終えれそう。