メールとメイド服

色々と書いていたのだけれど、色々と失念してしまったので、大体どういう事を書こうとしていたか想像がつくであろう物を置いておく。()(

こういう事は頻繁にある。数千字ほど書いておいて人様に見せれるものじゃないなと思い、そのまま下書きに溜まっている物も多い。小分けにすれば一月ぐらいなら毎日投稿もできるだろうか。

最近、読んでくださる方々が増えてきたおかげか、書くときに、なんとなく肩に力が入ってしまっている気がする。元々、今日はあそこへ行って買い物をしただとか、ピアノで新しい曲を練習し始めただとか、あのネットスーパーが良いだとか、そういう事を気軽に綴っていくものだったはずなのだが。いかんいかん、気楽にね。


今月は、やらなければいけない予定という予定も無かったので、のんびりと過ごしていた。強いて言えば、明日の夜に行われる不登校の自助会ぐらいかな。

ここには書いていなかったと思うのだけれど、以前、SWさんとのメールでのやり取りで、私に相談をしてくれた子への思いを綴った事がある。

2000文字程度の物だったのだが、SWさんがいたく気に入ったらしく、次の(明日のでは無い)自助会で、そのメールの内容を、みんなに印刷して配ってもいいかと言われた。

と、いう事は、本人とその保護者の方にも読まれる訳だ。別に読まれて困るような物ではないのだけれど、人様に自分の書いた物を面と向かって読まれるのなんて数年ぶりなので、なんだか気恥ずかしい。

SWさんが、その送ったメールの「ここが気に入った」という内容の返信を下さっていたようだったのだが、実を言うとずっと見逃していて、昨日ようやく気づいてその返信を読んだ。

いや、、、若書きですね、いつまでも。ただ真っ直ぐで悪くは無いと思うが、同年代に読まれた時どう思われるか。まあ、なるようになるでしょう。

そのメールの末文に書いてあったのだが、付近の高校で教えている吹奏楽部の顧問の先生が、私がピアノを始めたという事を聞きつけて、自校の吹奏楽部の演奏に参加してみないかと言っていたそうだ。

しかし、このメールが届いたのはもう二ヶ月近く前になる。まあ、二ヶ月前に読んでいても行かなかったかな。嬉しい提案ではあるが、実力が伴っていないのでね。



その他で言うと、最近ふとメイド服を着てみたいと思い立って、色々と調べていた。のだが、どれもイマイチ襟が気に入らない。そうして気がつくと、いつの間にかウィッグを調べだしていた。かわいい。

昔から、どうにも「かっこいい」と言われる事に少し違和感がある。嬉しいは嬉しいのだけれど、私ではない何処か遠くの誰かに言われているような感じがしてしまう。全くもって嫌ではないんだよ。ただ「かわいい」と言われた方が嬉しいかもしれない。まあ、親御さん方にお世辞でしか言われた事がないんだけどね。

逆に、身体が女性で男性性的な比率が多い人は、「かわいい」と言われる事に違和感を覚えたりするんだろうか。私はこの言葉を相手が女性でも男性でも気にせず使ってしまうので、時より男性から複雑な顔をされた覚えがある。

私は今まで書いてきたものの中で、一度も自分の事を「俺」と呼んだ事がないことがない。「俺」と書いても喋っても、なんとも言えない不快感がある。日常生活の中でつい「俺」と言うと、言った自分に嫌悪感を持ってしまう。

自分が「男性である」という自覚が薄い。それでも、自分の手や膝の骨格などを見ていると、男の子だなと思う。体毛等には不快感があるが、身体自体には無い。無いのだけれど、社会的な自己像が男性だという自覚が薄いので、いわゆる「男っぽさ」を要求されると、なんだか違和感がある。

そもそも「男性か女性か」なんて、そんなに気になることかなあ。母はテレビを見ていると、よく「この人は女の人?男の人?」と訪ねてくるのだが、なぜそんなに気になるのだろう。私がおかしいのだろうか。男女(というか人間)に対する好意の質に違いが無いので、どうにも分からない。どうしても知りたいのなら、本人に聴くのが一番いいと思う。

学校の制服から会社での服装まで、画一的な真面目さ=労働生産性だけで人間の価値を計る時代を終わらせなければならない。私なんかはここで、ああだこうだと言っているだけだけれど、「自分らしい生き方」を実践しようとしている人は、そうすることで、地位とお金にしか関心がない大人たちを青ざめさせている。校則違反が増える事も、人間が本来の人間らしさに戻る運動で、いいことなんだ。擁護的言い訳かもしれないけれどね。


失念してしまった話題に帰ってきたので、野田先生の文を引用しておく。「第三の性らしさ」は、類型化しない方がいいと思うのですが、どうですか。

私自身も、子どものころから性同一性にいくらかの違和感があったように思うが、手術をしてまで女性になりたいかというと、そんなことはなくて、ある種の「男っぽさ」を要求されさえしなければ、男性のままでも辛抱できた。完全に快適というわけではなかったけれど、それは生物学的な問題でもなく心理学的な問題でもなくて、社会学的な問題だと思う。具体的にいうと、たとえば、フリルのついたシャツだの、模様の入ったスーツだのを着ることは、カタギの社会に所属していたいなら、許容されないことだ。私的には、そういうのが好きなんですがね。戦国時代に生まれていたら、ぜったい「婆娑羅」になっただろうな。

(中略)極端に男っぽくもなく、極端に女っぽくもない、「第三の性らしさ」が、身体の性別とは独立にあるわけだ。これが文化的なものなのか、あるいはもっと生物学的な根を持つものなのかはわからない。けれども、このような人たちを社会的に許容することが、世界平和のために必要なんじゃないかと、ひそかに思っている。その話はまたいつかね。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2015/02/06.html

全面的に同意。婆娑羅になりたい。

とりあえず、女性的な格好を実際にしてみて、自分が自分の事をどう思うのかが気になる。体験をともなわない言葉は、たんなる観念の遊びだから。

しかし、親元を離れるまでは保留かなあ。理解はある方なのだけれど、問題は母の恋人(不倫相手と呼ぶのはもう適切ではないのでこう呼ぶことにした)だ。中々にホモソーシャルな人なのでね。それに「かわいい」は、中々高くつく。