見出し画像

【随筆】縄文人の「芸術性」から争いのない世界をイマジンした

 諏訪地域の縄文遺跡を訪ねて以来、諏訪に魅せられている。尖石縄文考古館にて国宝となっているビーナス土偶を見て、そして諏訪大社とその近くにある神長官守矢史料館を訪れ、古代に魂から触れたような気がした。
 そして、ここ半年ほどは、これまで生きていた中で、最もたくさんの土器を見ている。大量の土器や土偶などの出土物を見ている中で、その意匠について思うところが芽生えてきた。その思うところを今回は書き綴ってみたい。

ビーナス土偶は美しいのか 

「縄文のビーナス」そうこの土偶は紹介されていた。絵画にしても「タイトル」は鑑賞に大きく影響するものであり、知らず先入観として”ミロのビーナス”や”ビーナスの誕生”のビーナスと少し結び付け、芸術的な美しい女性を重ね合わせてしまう。

縄文のビーナス

 しかし、実際「縄文のビーナス」を見ると、「ビーナス?」と私は少し違和感を覚える。
 私はこの土偶に「祈り」を見たが、芸術性は感じなかった。
 芸術は、生活の外で、つまり余暇、余技として純粋に美しさを表現したもの、と思っている。(私の狭い解釈だが)
 尖石縄文考古館でみた土器や土偶等の出土遺物には、宗教性や生活感を感じる。確かに火焔型にしろ、水煙文にしろその螺旋の文様が、美しいと思う感情は湧き上がってくる。
 だが、その美しさ以上に「象徴性」とか「意味」が強く見えてしまい、芸術という純粋な美は弱いと思った。

なんだこれは! by岡本太郎

 かの岡本太郎は、火焔型土器を見て「なんだこれは!」と叫んだそうだ。芸術家の岡本氏がそう叫び、瞬く間に縄文文化を一気にメジャーに引き上げた。まさに縄文土器を世に知らしめた「功労者」であるが、それは岡本太郎の芸術との関係で「縄文土器=芸術作品」のイメージが着いたのだと思う。

火焔式土器

 こぞってマスコミが取り上げ、熱を帯びた縄文芸術の大義名分が、本来宗教性、祖霊信仰、そうした「地域で守り育てたもの」を駆逐し、芸術の名のもと暴き立てた、つまり単純な墓荒らし的な行為になったという不幸な出来事もあったと聞いている。
 縄文土器を見て美しいと思う心は、その作者の思いとは離れて、遠く時空を離れた現代の我々の心に生じる。それは仕方のないことだ。
 祈り、呪術を込めたモノは、当然何かしらの意味が込められているのだ。しかし、時が経ち、それが遺物として我々の前に現れた時、芸術性を帯びて、我々の心に訴えてくる、そうしたことはあるのだと思う。
 私は原初が呪術であったのなら、芸術作品として喧伝するのはいかがかと思う。大半の出土物は、墓の副葬品であったり、生活上の祈りであったり、そうした呪術性を帯びたものだと思うのだ。
 祈りが込められたモノに対し我々が取るべき態度は、その声を聞くことであり、静かに手を合わせ古を偲ぶことだと思う。

ヒスイなどの装飾品について

 一方でヒスイをはじめとした宝飾品、石環などには「芸術」の萌芽を感じる。権威付けや呪術としての機能があったのかもしれないが、いずれにしろ生活や実利から一歩離れたものだと思う。
 加工技術はだんだんと洗練され、意匠にも多様性が出てくる。硬い石から徐々に柔らかい石へ人気が移っていったのは、多くの人々に普及品として出回り始めたからであろう。つまり、みんなが欲しかったのだ。誰もがいいと思うもの、これも芸術の重要な要素だと思う。
 ただおそらくこの普遍性、希少性、そして芸術性がのちの「奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の悲劇」につながっていくのであろうが。

ヒスイと黒曜石


 そして土偶の中には、動物のミニチュアが数多く出土するようだ。当時、イノシシや犬がペットとして飼われていたらしいということが分かっている。子供が手慰みに土をこねてペットの土偶を作ってみる、または子供へのプレゼントとして土偶を親が作ってあげる・・・こうした情愛から生まれつつある芸術はあった。
 装飾品や愛玩品に対しては、今に通じる美的感覚や親愛の情を持って、縄文人との共通性を感じることができる。

釈迦堂遺跡では、1000点以上の土偶が出土している

縄文人の精神について

 縄文時代は16000年前から3000年前まで範囲がある。(諸説あるが、まあ1万年くらい続いた)世界では四大文明が起こり、多くの国々が勃興する中日本の縄文時代は「平和に」10000年以上続いたとされる。
 そう、弥生人が来るまでは。

 縄文時代の人骨には、争いの跡がないとされる。そのほかの出土以降からも戦いの形跡がないそうだ。平和=戦争状態でないこととするならば、縄文時代は平和な時代だったといえるのかもしれない。
 縄文土器に描かれるいくつかの意匠には、弓矢のようなものがあるが、これは狩猟上のものであろう。人を殺すためのものではなさそうだ。
 意匠の多くは、蛇や蛙などの両生類を想起されるものであり、そのほか当時一部始まっていた農耕に関係すると思われる堅果類(クリやクルミなど)のようだ。また女性の出産をかたどったものもある。
 蛙や蛇は、冬眠し春に地中から出てくることから、その生態に自然の摂理・象徴を感じ土器などに表したものであろう、類感呪術の一種といえるのではないか。
 素朴な自然信仰が芽生え、自然と調和する生き方が当然であった中で、人と人が争うという発想がなかったのかもしれない。人と人は協力し合い、狩猟等を通じて食料を得て、配分する必要があったのだ。
 そうした自然と調和し、人と人が協力し合い、争いを避ける形で生活をしていた縄文人の精神性は、現代人とはかけ離れたものであったことは想像に難くない。かなり努力しないと、縄文人の思想・境地を垣間見ることはできない。

 ジュリアン・ジェインズの著書「神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡」には、3000年前まで人類には「意識」がなかったという説が述べられている。

 意識を持たなかった(=左脳があまり働かなかった)古代人は、神々の啓示を直接頭の中で聞いて、それに忠実に行動したのではないかということだ。もちろん一説でしかないが、「3000年」前というのが妙に符合するところだ。縄文時代の終わりなのだ。

 弥生期以降、言語により意識が生じ、戦争状態が始まった。以来我々は物質的に豊かになったが、争いに疲れた心は安らぎを平和を求めている。
 平和とは争わないこと。それには自意識を捨てる必要がある。
意識=自我が希薄だった縄文人の精神性に立ち返ることこそが目指す境地である。そして日本人はそれをどのように言うのかを知っている。

”解脱”または”悟り”

 修験道や仏教の修行において、自然の中で肉体を追い詰め必死に自我を消し去ろうとするのはなぜか。それは縄文人であった頃の平和の記憶を取り戻す行為であるのかもしれない。

縄文を知ることは神々を知ること、そして悟りへの道

 縄文を知ることは、日本の神を知ることであるかもしれない、とは神長官守矢氏の史料館を訪ねた紀行文での感想だが、こうして色々調べ、思索していくと、私たちが求めている「悟り」に通じることが分かった。

 縄文神社という本がある。

 この縄文神社は、縄文の遺跡と今に残る神社が重なったところだ。神々の啓示を受けた縄文人が住んだまさにパワースポット。
 縄文の土器や史跡を通じ、感じる懐かしさや心地よさは、遠い昔の記憶につながる鍵なのかもしれない。
 今年は奇しくも辰年。龍は蛇や蛙などの蛇神信仰に通じ、それはまさに縄文の世界だ。
 私は今年、縄文の世界に遊び、学び、そして悟りに向けた一歩を踏み出そうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?