学生から社会人になる間の28枚

大学は1年浪人して入り、休学、留年を経て6年間在籍した。だから人よりも3年遅れて社会人になった。

大学(都内某美大)では写真と実験映像を専攻していた。同時に広告の勉強もしていた。

最初の4年生から社会人2年目の夏(2004-2007)までに撮った写真が出てきた。ここにその一部を貼って供養しよう。

美大受験の浪人と、長期入院からの休学はかろうじて親も応援してくれたが、まさかの英語の単位が足らず留年。

大学院を受験していたのに、ゼミの教授に「良かったな、お前結果を待たずして留年決定だ。まだ居られるぞ」と笑われた。

がははと快活に笑うのでつられて笑った。

美大のおおらかな空気は居心地が良すぎた。教授の下でのびのびと制作に打ち込んだ。

社会人になって、品川のオフィスにネクタイを締めて通うのが苦痛だった。

2005〜2006年当時の僕の周りでは、女子は皆、テレビ局やCM制作会社などに入社し、男子はフリーターやアーティストになる者が多かった(今もそうなのだろうか)。

留年が明けて転がり込んだ最初の会社は広告代理店の系列Web制作会社で、当時CMプランナーになりたかった僕はその代理店の名前が冠になってりゃいつか本社に行けるのでは?と甘く見積もっていた。

そんなことは規則が許さない、と知ったのは入社後だった。

来る日も来る日も、興味のないバナー広告の構成を書いたり、こんなの誰が読むんだ?と思いながらプロバイダのメルマガを書く日々。

こんなことしている間にも同級生は個展を開く準備をしている。

打ち合わせで赤坂の親会社に行けば、同年代の若手が資料室でコピー年鑑を写経している。

研鑽を積む人々を横目に、「自分は何をしているんだろう」。

こんなことがしたくて今まで生きていたわけじゃない。

腐りそうなのがいやで、予備校時代の友人たちとグループ展を開いた。それも今思えば現実逃避だったのかもしれない。

僕以外はフリーターや無職だったが、会場の段取りやDMの手配など、メンバーは誰も手伝ってくれなかった。

「そういうの昔から得意でしょ」「唯一の社会人は段取りが慣れてるよね」

イライラしつつも、実際、案内状のコピーを書いたりグループ展のタイトルを考えたりすることに夢中になった。1年目を生きながらえる燃料になった。

2年目、それまで接点のなかった先輩から「俺の下でやってみないか」と誘われた。部署異動と同時に、コピーライターになった。

この先輩に拾われてから3年間はさらに腐っていた。というか枯れていた。休日返上のスパルタがツラかったから。

でも先輩は超人的に仕事のできる人だったから尊敬の対象だった。

4年目から突然放任になった。急に仕事が面白くなった。

「自分で決められるって楽しいでしょ。あとは頼んだ」そう言って、先輩は独立した。その1年後に自分も転職した。

それから5年後、二度目の転職先は広告会社。

先輩とは今もたまに仕事するし、グループ展をやった友人とは一人だけ今も連絡を取り合っている。留年を笑い飛ばした先生からは講演の依頼が来て快く引き受けた。

拾う神がいた。

僕にとっては、教授も、友達も、先輩も、彼女(のちの妻)も、僕を拾う神だ。僕はすこぶる運がいい。

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伊藤 拓郎

写真のはなし

写真が好きです。 https://tacrow-photo.tumblr.com/ にアップしたり、ここで話したり。
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