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「社会派」朝ドラという新傾向と、評論のあり方

 2022年4月から放送を開始したNHKの連続テレビ小説「ちむどんどん」は、9月30日に最終回を迎えた。そして、スピンオフである「歌子慕情編」「賢秀望郷編」が11月6日にBS4Kで放送され、11月12日にBSPで放送される。「ちむどんどん」も、いよいよフィナーレである。

 「ちむどんどん」については、「社会的包摂」という、現代の日本社会の課題と解決策を考えさせるテーマを内包していることを、以下のnoteに書いた。多くの方々に読んでいただき、大変感謝している。

 ところで、ここ数年のAK制作(NHK東京制作)の朝ドラは、現代日本の社会的な課題や問題を考えさせる、いわば「社会派」朝ドラとなっている。「ちむどんどん」も、前述の通り、「社会的包摂」というテーマが設定されていた。

 しかし、「ちむどんどん」に関しては、社会的テーマの観点から評論するドラマ評論家やライターはほぼ皆無だった一方で、ドラマの本質とは全く関係のない、「#ちむどんどん反省会」 等のアンチタグの狂騒を紹介する記事が量産された。
 つい先日には、ユーキャン「新語・流行語大賞2022」に「#ちむどんどん反省会」がノミネートされた。朝ドラがきちんと評論されず、SNS上の攻撃的な声が、マスメディアによって増幅される今の状況は異常であり、憂慮すべき事態である。

 こうした状況に抗う意味でも、このnoteでは、「ちむどんどん」をはじめとする最近の朝ドラが、「社会派」朝ドラとして制作されている理由について考察する。更に、各々の朝ドラがどのようなテーマを扱っていたかを解説し、どのように「社会派」の朝ドラを論じていけばよいのか、考えてみることにしたい。

現代の課題や社会問題を扱う朝ドラを作りたい

 今のNHKの朝ドラの制作陣は、どのようなドラマ作りを志向しているのだろうか。そのことがよく分かるのが、2021年に放送された「おかえりモネ」チーフ演出の一木正恵氏の、以下のnote記事である。以下に、文章の一部を抜粋する。

もし朝ドラをやるならば、現代に横たわる大きな課題から目を背けたくないという思いは強くありました。それは気象災害と、今の圧倒的な「生きづらさ」です。

私たちはこの先本当に生きていけるのか。気象災害は、温暖化という地球規模の問題と共に、放置された山や限界集落など、日本の社会問題もはらんでいます。都市と地方の分断や富裕と貧困の分断から、人が人を監視し足を引っ張り合うかのような現代に、行き詰まりを感じます。

これらを先送りしたくない。朝ドラで描かれることの多い女性の社会進出や、さまざまな意味でのサクセスストーリーよりも、今女性として社会人として行き詰っていることを考えられる題材にしたい。今をとらえたい、という感覚がありました。

私の”人生をかけた一作”「おかえりモネ」を振り返ってみました

 NHKの一木氏のnoteから引用した通り、「おかえりモネ」制作の裏には、「現代に横たわる大きな課題」や「日本の社会問題」をテーマとして扱い、視聴者に考えてもらいたいという朝ドラ制作陣の思いがある。ただし、この思いは「おかえりモネ」に限った話ではない。後述するが、このような朝ドラ制作陣の傾向は、2018年の「半分、青い。」からである。

 現代の課題や日本の社会問題を考えてもらうドラマを作るということは、言い換えれば、視聴者が一度で理解することは難しい、色々と考えながら、見ていないと分からないドラマを作るということである。このような朝ドラを作ることは、かつては難しかった。
 朝ドラの主な視聴者は主婦層である。朝ドラは伝統的に、家事等で忙しい朝の時間でも「ながら見」でついていけるように、説明台詞やナレーションを多めにして、時々見逃しても問題ない、分かりやすい物語が作られてきたのである。
 ただし、過剰な説明台詞やナレーションは、物語への解釈を限定し、視聴者が考える余地が減ってしまう。時々見逃しても問題ない作りにするということは、冗長なエピソードを挿入するということである。そのようなドラマの品質をあえて落とすようなことは、創作者として、本来やりたくなかったことだろう。

 しかし、NHKオンデマンドやNHKプラス等、放送後も見直せる視聴環境が整備されたこと、加えて、TwitterやFacebook等のSNSで、多くの人が感想や考察を共有していること等から、現代の課題や日本の社会問題を考えてもらう朝ドラを作るというチャレンジが許容されるようになったと推察される。
 何度でも見直せることが可能な視聴環境の進歩に伴って、今の朝ドラは、一来氏の言葉を借りれば「より作品性が重視され、何度でも見たい、何度見ても発見がある、深く洞察できるドラマ」として作られている。そのことは多くの視聴者にとっても歓迎できることだろう。

 ただ、従来の「ながら見」視聴者の観点から見ると、最近の朝ドラは分かりにくくなったということでもある。「わからない」ことが「作品が悪い」ということにされて、特に社会的問題や課題を考えさせる、AK制作の朝ドラがバッシングされている理由の一つのように思われる。

「逃げ恥」みたいな朝ドラを作りたい

 前章では、最近の朝ドラ制作陣が現代の課題や社会問題を考えさせる、「社会派」の朝ドラを制作したい思いがあることを述べた。NHKの朝ドラの制作陣がそのような思いに到る理由は、昨今の複雑化した社会情勢等、様々な要因があるだろう。ただ一番大きな理由としては、これは仮説ではあるが、2016年に放送された「逃げるは恥だが役に立つ(逃げ恥)」が朝ドラに大きく影響を与えたことが考えられる。

  TBSで放映されたドラマ「逃げ恥」は、回を重ねる毎に視聴率を伸ばし、最終回の平均視聴率は20.8%を記録する大ヒットとなった。みくりちゃんと平匡のムズキュンラブストーリーとして人気を博したドラマだったが、一方で「社会派」のドラマとしても話題となった。そのことが分かる「逃げ恥」番組サイトのPRメッセージを引用する。

「就職難」「派遣切り」「事実婚」「高齢童貞」「晩婚化」 など、今、現代社会で気になることまで詰め込んだ、新感覚の社会派ロールプレイング・ラブコメディがいま、はじまる !!

火曜ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」


 朝ドラはヒロインのラブストーリーと、ヒロインが手に職をつけて成長する物語という2つの大きな軸がある。その点でいえば、「逃げ恥」をはじめとする、民放で放送されている連続ドラマもほぼ同様である。
 そして「逃げ恥」の新しい要素は、ラブストーリーと成長物語に、現代の社会問題を考えさせる「社会派」の要素を加えて大ヒットしたことである。

 「逃げ恥」の大ヒットは、NHKの朝ドラ制作陣を触発し、「逃げ恥」の様に、朝ドラに「社会派」ドラマの要素を加えたいと思わせたのではないだろうか。実際に、2017年放送の「ひよっこ」には「社会派」の要素はないが、2018年の「半分、青い。」以降のAK制作の朝ドラには、社会的な問題や課題を視聴者に考えさせるテーマ設定があり、また「逃げ恥」の影響を思わせる箇所もある。それらを次章で考察することにしたい。

「社会派」AK朝ドラの歴史

 それでは、「半分、青い。」以降の、過去5年のAK制作の朝ドラが、どのような社会的なテーマを内包していたのか、私なりに抽出してみた。

  • 2018年「半分、青い。」→「発達障害(ADHD)と多様性」

  • 2019年「なつぞら」→「女性の社会進出と働き方の課題」

  • 2020年「エール」→「音楽(エンタメ)と大衆扇動の危険性」

  • 2021年「おかえりモネ」→「東日本大震災のその後と気象災害」 

  • 2022年「ちむどんどん」→「社会的包摂と沖縄コミュニティ」

 「ちむどんどん」については、別のnoteでかなり詳細に論じているので、この章では、「ちむどんどん」以外の4作品について、どのような社会的テーマが設定されていたかを考察したいと思う。

「半分、青い。」

 2018年の「半分、青い。」が扱った社会的テーマは「発達障害と多様性」である。発達障害について、登場人物の台詞等で明言されているわけではないが、発達障害を思わせる描写は多数ある。詳しい考察は、以下のnoteを参考にしていただきたい。

 「半分、青い。」が発達障害を扱っていることはオープニング映像からも分かる。ヒロイン鈴愛は、発達障害の一つであるADHDの特性を持っているが、ADHDの長所は創造力である。毎日流れるオープニング映像では、持ち前の創造力を発揮した鈴愛が、色々な写真や風景に絵を描き足し、独創的で面白い絵に仕上げる。そして、BGMとして流れる主題歌は「逃げ恥」の主演である星野源が歌う「アイデア」である。「アイデア」というタイトル自体が、ADHDの創造力を暗示しており、「半分、青い。」が発達障害をテーマとして扱った証左である。

「なつぞら」

 2019年の「なつぞら」は、朝ドラ100作目という節目にあたった作品である。こうした節目もあり、社会的なテーマとして設定されたのは、朝ドラが長年扱ってきた、女性の社会進出と働き方の課題であったように思われる。

 「なつぞら」では、正社員の女性が産休明けからは退職もしくは契約社員へ切り替えになる問題や、保育園不足の問題の描写があったが、これらは「逃げ恥」で扱われた「非正規雇用」や「やりがい搾取」等、女性の労働問題のテーマ設定に通じている。
 
また「なつぞら」放送当時から、現代の課題として、多くの企業で取り組みが進んでいる「働き方改革」(個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方が選択できるようになる改革)を視聴者に考えてもらいたいという意図もあるだろう。
 こうした問題・課題を考える上で参考になるのは、文春オンラインに掲載されたCDB氏の記事である。なつの上京後のストーリーは、著名なアニメーターだった奥山玲子氏と、アニメ制作会社の東映動画の労働争議をモデルとしており、「なつぞら」のストーリーに盛り込めなかった史実も含め、詳細に論じられている。

「エール」

 2020年の「エール」は、東京オリンピック2020を契機として企画された朝ドラであり、「オリンピック・マーチ」等、多くの応援歌や軍歌(戦時歌謡)を作曲した古関裕而の半生をモデルにした物語である。
 「エール」の社会的なテーマは、音楽(エンタメ)と大衆扇動の危険性だろう。「エール」においては、主人公・古山裕一が「自分が作曲した軍歌(戦時歌謡)が人々を戦争に駆り立て多くの若い命を奪った」という自責の念に苛まれるエピソードがある。このエピソードを含め、「エール」について詳しく論じられているのが、「ミリタリー・カルチャー研究会」による、以下の評論である。

 「エール」に関して、もう一つ参考になる評論記事を紹介する。古関裕而に関する著書もある、近現代史研究家の辻田真佐憲氏による記事である。

 「エール」の物語上「軍歌」が「戦時歌謡」と言い換えられていることへの厳しい批判記事であるが、その是非はさて置き、次のような重要な指摘がいくつかある。

流行歌と軍歌は別物ではなく地続き
「レコード会社は、戦争が起これば「軍歌」を、“売れる商品”としてリリースしていた」
「軍歌が怖いのは、軍部に強制されたからではありません当時のエンタメと地続きであり、それゆえに人々の感情をこのうえなく効果的に動員してしまったからです。」

<朝ドラ「エール」と史実>「軍歌」はやはり“タブー”か。古関裕而の曲を「戦時歌謡」とごまかす問題点

 国を戦争に向かわせるのは、決して政治家や軍隊の暴走だけがきっかけではない。国民の戦争観も重要な要素である。そして、国民の戦争観に影響を及ぼすのが、流行歌や、五輪をはじめとするスポーツイベント等のエンターテイメントだったり、プロパガンダを担うメディアだったりする。
 五輪に関しては、ナチス・ドイツのプロパガンダとして利用された、1936年のベルリンオリンピックが有名であるが、こちらは2019年放送の大河ドラマ「いだてん」の方で取り上げられた。「エール」も「いだてん」も、単に東京オリンピック2020を盛り上げようという意図だけでなく、五輪に関する様々な問題を、あわせて考えてもらおうという意図があったように思う。

 なお、大衆扇動による望ましくない問題は「戦争」だけではない。昨今では「キャンセル・カルチャー」や「SNS上のネットリンチ」が社会的問題となりつつある。
 他ならぬAK制作の朝ドラが、PVが稼げるからとネットのメディアによって安易に煽り記事を作られ、釣られた視聴者により、SNSのアンチタグで作品が攻撃され、挙句の果てに流行語大賞の候補に「#ちむどんどん反省会」をノミネートする愚行まで行われる。大衆扇動の危険性は、戦前も現在も変わらずに存在するのである。

「おかえりモネ」

 2021年の「おかえりモネ」は、東日本大震災から10年という節目で企画された。Twitter上の「#俺たちの菅波」のハッシュタグで話題になったが、「おかえりモネ」はヒロインの恋愛が注目された朝ドラである。ヒロインの百音と菅波先生の関係は、「逃げ恥」のみくりちゃんと平匡を彷彿とさせる、初々しい恋愛が描かれたムズキュンなラブストーリーだった。
 しかしながら、「おかえりモネ」が扱う社会的な課題や問題は、東日本大震災の「その後」と気象災害である。被災地以外に暮らす人間にとっては、今まで知らなかったような厳しい現実もあり、深く考えさせるテーマ設定だったと思う。

 「おかえりモネ」で一番辛い設定を担ったのは、浅野忠信と永瀬廉が演じた及川父子である。母が津波で行方不明となり、その心痛から、父はアルコール依存症となり、息子はヤングケアラーとなる。また、行方不明となった妻の死亡届を出すか出さないかの葛藤を描いた、行方不明者の「認定死亡」のエピソードが描かれた。朝ドラでは、数多くの「人の死」が描かれてきたが、行方不明者が法的に死亡者となるという「人の死」の描写は、きわめて珍しいだろう。しかし、東日本大震災では、こうした厳しい現実がたくさんあった。

 被災地ではない、登米や東京でのエピソードにも、深く考えさせる描写や台詞はたくさんある。例えば、気象情報会社の百音の上司・朝岡が、百音の父・耕治と出会った時の台詞に次のようなものがあった。
命を引き合いに出して、大事なものを捨てろなんて言うのは部外者の暴力でしょう」
 被災地に暮らす人、被災地を故郷とする人にとっては、この台詞はピンときたかもしれない。あるいは、放射能のホットスポット、震災のあった熊本や、豪雨災害にあった地域に暮らす人たちも気づいたかもしれない。
 震災の後、被災地の人たちは、実際の被害だけでなく、風評被害にも苦しんでいた。被災地以外の人たちから、実際に暮らしているという事実を無視されて、「人が住めるの?」「引っ越さないの?」等と、無神経に言われた経験のある人は多い。こうした言葉は、被災地に暮らす人たちが大切にする故郷を貶め、不快感を抱かせ、深く傷つけるものである。そのような言動を暗に指して、「部外者の暴力」と表現したのである。

 その他にも、「おかえりモネ」には、様々な立場の被災者が、どのような経験をしてきて、どういったことを考えて生きてきたかが分かる、登場人物の設定や台詞、描写がたくさんある。東日本大震災の「その後」というテーマを考える上では、それらをできる限り拾い上げて、被災地、被災者について考えてみることが大切である。
 こうした設定や台詞、描写の背景を知るためには、気仙沼在住の漫画家・サユミさんが、気仙沼の観光情報サイトで、放送と並行して連載していた「モネ日記」と「おたよりコーナーが大変参考になる。かなりボリュームはあるが、NHKオンデマンド等で見直しながら読むのがおすすめである。

「らんまん」以後の朝ドラはどうなるか

 前章では、既に放送されたAK制作の朝ドラの社会的テーマを考察した。
 それでは、2023年に放映予定の「らんまん」は、どんな社会的な課題を扱おうとしているのだろうか。実は、制作発表のプレスリリースに、そのものズバリ答えが書いてある。

 今、世界共通の目標としてSDGsが提唱されています。持続可能な地球を守り続けるために人間と自然環境がどう向き合っていくかが問われる現代の世相は、牧野富太郎の生きざまやその思想にぴたりと符合します。

《2023年度 前期》連続テレビ小説 制作決定! 作・長田育恵 / 主演・神木隆之介 


 ということで、「らんまん」で扱う社会的な課題は、SDGs (持続可能な開発目標)である。
 SDGsというテーマで、どのようなストーリーになるのか、どんなメッセージを込めてくるのか、現時点では全く想像がつかないが、「らんまん」がSDGsがテーマとしていることを意識していれば、楽しんで見ることができるだろう。

 そして、2024年以降もしばらくは、社会派ドラマの要素が含まれる朝ドラが制作されていくと考える。その理由は、今の日本には、様々な社会的な課題・問題が存在するからだ。例えば、エネルギー政策と絡めて、朝ドラでまだ扱っていない東日本大震災の福島の問題、「おかえりモネ」でも最後に少し出てきた新型コロナウイルスのパンデミック等が考えられる。朝ドラで扱うことができる、社会的なテーマの題材には事欠かない。

 ところで、BK制作の朝ドラで「社会派」朝ドラが作られる予定はあるのだろうか。まず、2023年は、笠置シヅ子がヒロインのモデルの「ブギウギ」で決定している。音楽家の朝ドラなので、2020年AK制作の「エール」が参考にされるだろうが、時事問題的な要素、社会的テーマの要素は考えにくい。

  そして2024年のBK制作の朝ドラは、2022年11月時点では未発表である。これは全くの予想であるが、2024年のBK制作朝ドラは「大阪・関西万博」を絡めた「社会派」朝ドラが作られるのではないだろうか。
 「大阪・関西万博」の開催期間は、2025年4月13日~2025年10月13日である。したがって、万博開催前の2024年の10月から2025年3月までに放送されるBK制作の朝ドラが「大阪・関西万博」を扱うのではないかという予想である。もし「大阪・関西万博」が扱われるのであれば、個人的には、Eテレで放送された「TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇」のような、ぶっ飛んだ朝ドラを作ってほしいと思う。 

 一応、この予想は、「朝ドラに時事問題を織り込む材料としては、大阪・関西万博はうってつけのネタだな」という理由だけなので、大外れの可能性もある。外れたら何卒大目に見ていただきたい(笑)

「社会派」朝ドラをどう評論するべきか

 ここまで、最近のAK制作の朝ドラが「社会派」ドラマとしての要素が含まれていることを、その理由とともに述べてきた。
 最後に、こうした「社会派」朝ドラをどのように評論すべきなのかを考えてみることにしたい。

 この記事の冒頭でも述べたが、特にAK制作の最近の朝ドラには、「現代に横たわる大きな課題」や「日本の社会問題」をテーマとして扱い、視聴者に考えてもらいたいという制作陣の思いがある。
 したがって、テーマである現代の課題、日本の社会問題を把握することが、評論するための前提となる。テーマを把握した上で色々と考えてみて、自由に論じればよいと思う。

 私自身は「ちむどんどん」に関しては、「社会的包摂」がテーマであると考えて、次の通り、ストーリーを要約した。

比嘉家のような貧困家庭、賢秀のような問題児、矢作のような失敗した人、歌子のような難病を抱える人、沖縄のおばぁ(高齢者)達が、孤立したり、疎外されたりすることなく、「ゆいまーる」と呼ばれる相互扶助の精神をもつ、沖縄県民のコミュニティに包摂されて、お互いに助け合いながら、やり直しや活躍の場を与えられているストーリー

「#ちむどんどん」を読み解く鍵=「社会的包摂」と「沖縄コミュニティ」

 そして、「社会的包摂」は沖縄にふさわしい興味深いテーマ設定であったこと、また羽原大介の脚本や、黒島結菜をはじめとする役者の演技は素晴らしいというのが、私の「ちむどんどん」に対する評価である。
 はっきり言って、たいしたことは書いていない。それでも、朝ドラ制作陣の、現代の課題や社会問題を考えてほしいという思いに応え、自分なりの「ちむどんどん」のストーリー解釈と評価をまとめられたとは思っている。

 しかしながら、ネットのメディア等に掲載される、「ちむどんどん」に関する記事は、ストーリー全体をとらえずに、一部の描写を切り出して難癖をつけるものや、作品の本質とは関係ないアンチの反応をとりあげるもの等、レベルの低い記事ばかりであった。しかも、こうした文章を「ドラマ評論家」「メディア評論家」「大学教授」といった肩書の専門家が執筆していたのである。

 「ちむどんどん」に関する記事について、私は、以下の通り3つに分類した。どこがどう良くないのかをこれから説明することにしたい。

  1. 中身ゼロのコタツ記事と「反省会」という蛸壺

  2. 評論もどきの駄文

  3. 「社会派」朝ドラに通用しない印象批評

1.中身ゼロのコタツ記事と「反省会」という蛸壺

 スポーツ新聞等のサイトには、放送後に、当日放送された回のあらすじとネットの感想・反応を拾っただけのコタツ記事がよく掲載される。新聞社の新人の練習なのかAIが書いているのか、全く内容が無いゴミ記事なのだが、扇情的な見出しをつけて、PVを稼ぐというやり口である。
 そして、この応用パターンが、#○○反省会タグ等のアンチタグ紹介記事である。ほとんどが「反省会」タグのツイートを拾っただけのコタツ記事であり、朝ドラに否定的な煽り見出しをつけて、PVを稼ぐというやり口である。

 「反省会」タグは、役者や脚本家、制作陣への誹謗中傷が多く、かつては心を痛めてSNSをやめる役者もいた。「反省会」タグに集う人や「反省会」の記事を載せるメディアには、「テラスハウス」の木村花さんの件を、どう考えているのか聞いてみたいものだが、そうした想像力もなく、蛸壷化するアンチタグの中で、「正当なドラマの批判・評論をしているのだ」と思い上がっているようだ。

 エコーチェンバー効果で、ドラマに対する見方が歪みまくった視聴者による、難癖と誹謗中傷がメインの「反省会」等のアンチタグを、ドラマ評論家や大学教授等が、「楽しみ方の一つ」等と嘯き、ネットのメディアの記事で取り上げるべきではない。ましてや、「新語・流行語大賞」に「#ちむどんどん反省会」等というヘイトワードをノミネートすべきではないのである。

2.評論もどきの駄文

 次は、出版社や新聞社のマスコミのネットのメディア記事に散見される、朝ドラ評論もどきの駄文についてである。
 まず、扇情的な見出しをつけて、PVを稼ぐというやり口は、前述した中身ゼロのコタツ記事と変わらない。加えて、ライターよりも編集者・編集部の意向が非常に強い。別のエンタメ系メディアでは、素晴らしい評論・考察やドラマ制作者への興味深いインタビューを書くライターが、何故かマスコミのネットメディアの記事になると、評論とは言い難い、評論もどきの駄文を書いてしまうのは、編集部の問題が大きい。
 また、一応、作品を見ていることは伺えるのだが、考えを深めずに煽り目的第一で書いている記事なので、当該作品以外にもあてはまってしまう雑な記事も非常に多い。いくつかパターンがあるので、それらを見ていきたい。

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「キャラクターに共感できない」「感情移入できない」
 「多様性」「包摂」等をテーマとする現代の朝ドラで、登場人物に共感できないからダメ、ヒロインに感情移入できないからダメという批判は、見方が古すぎる。今の朝ドラは、感情移入が難しい登場人物が出てきて当たり前であり、彼らを理解し、そういう人物を登場させた、物語上の意図を読む方が重要である。

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「ストーリーがご都合主義」
 ドラマは多かれ少なかれ「ご都合主義」。偶然出会う、就職がトントン拍子で決まる、最後に何故か田舎に帰る等は、ある意味「朝ドラにおける物語の展開手法」であり、複数の朝ドラで共通している。「ご都合主義」批判は物語の展開上、たいして重要ではないことをわざわざ問題視している場合が多い。

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「低視聴率だからダメな作品」
 視聴率が下がっている大きな要因は、テレビを見る人が減っているから。ここ数年の朝ドラに関しては、NHKプラス、NHKオンデマンドの数字が重視されている。ドラマの内容を理解していなくても、視聴率のデータに、素性不明な「自称・朝ドラ評論家」のダメだしコメントを加えて、コタツ記事の一丁上がり。安直すぎる。

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「分かりやすいストーリーを作るべきだ」
 今の朝ドラは「現代の課題や社会問題を扱い、視聴者に考えてもらいたい」
のである。ニュースは分かりやすく作るべきだが、ドラマを分かりやすく作ったら、視聴者に考えてもらえない。この手の批判をする人は、ドラマを視聴する上で、考えることを放棄している人、自分が理解できなかったことを作品のせいにしている人が多い。

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「○○が描けていないからダメ」「それっぽいものを放り込んだだけ」
 まずドラマが描いているものをきちんと理解することが先だろう。描けていないことを真面目に問題にする場合でも、なぜ描けなかったのかを冷静に分析すべき。この手の人が拗らせると「ぼくのかんがえた、おもしろい、あさどらシナリオ」みたいな勘違いも甚だしい二次創作を作り出して、良識ある朝ドラファンの顰蹙を買うこともしばしばである。

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「ツッコミを楽しむしかない」
 ツッコミやダメ出しをするためには、そのドラマがどういうストーリーなのか把握していることが大前提であり、話を理解していないのに、ツッコミやダメ出しをするのは、誤読や見当違いで、逆に恥を晒す結果となる。自称「ツッコミ」スタンスの二次創作漫画等、本人的には突っ込んでいるつもりだろうが、スベりまくっていて、痛々しいことこの上ない。

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他の朝ドラ作品を評価基準に持ち出してダメだし
 「おしん」「あまちゃん」「おかえりモネ」「芋たこなんきん」等の過去の名作の素晴らしさをダラダラ書いて、「だから今の朝ドラはダメなのだ」と強引に結論づける
やり口。評論対象の朝ドラを全く理解できず、きちんと向き合えなかったが故の、ドラマ制作陣へのリスペクトを欠いた駄文であると切り捨ててよい。なお、こういう文章は、引用された過去の作品のファンからも嫌われる

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「王道の朝ドラ」「異色の朝ドラ」
 「王道の朝ドラ」「異色の朝ドラ」といった評価は、あまり意味がない。
大体「王道」だから良い、「異色」だから良くないという訳ではない。
 むしろ、長年の朝ドラ制作で培われた、朝ドラの物語の型である「朝ドラのフォーマット」を提示して、どこがフォーマット踏襲で、どこが新しい点なのかを語るべきである。新しい点こそが、そのドラマへの評価となる。

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「朝ドラ制作のスキルが落ちている」
 NHKのドラマ制作スタッフは優秀なプロフェッショナル。
自分が理解できなかった原因を作品のせいにするのと同じで、作者のせいにしているだけ。「他人のスキルを問題にする前に、自分の作品に対する読解力を先に疑え」と言いたい。

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「NHKはSNSでの炎上を狙って朝ドラを作っている」
 愚かな妄想。
「識者ヅラして朝ドラを語るな」と言いたい。

3.「社会派」朝ドラに通用しない印象批評

 「Real Sound」等のエンタメ系メディアに掲載される映画評、ドラマ評の記事は、シーンの解説や登場人物の心情への深い洞察等、大変素晴らしい記事が多い。朝ドラ評についても多数掲載されており、前述した「評論もどきの駄文」とは一線を画している。

 しかしながら「ちむどんどん」に関して言うと、どこか本質に迫れない、モヤモヤの残る、もどかしい評論記事が多かったように思われる。2018年の「半分、青い。」の時も、似たような思いを抱いた記憶がある。
 これらの朝ドラ評のほとんどが「印象批評」である。印象批評の定義は、「作品を論じるにあたり、客観的な価値基準や体系化された理論に拠らず、主観や印象を重視する批評スタイル」である。

 「印象批評」というスタイルが悪いわけではない。しかし「主観や印象を重視する」ので、評論の質は、評論をする者がもつ感性や教養、知識に依存する。印象批評の限界でもある。
 朝ドラ評の記事のライターには、大学は人文科学系の学部の出身で、かつてはマスコミ等に勤務経験のある人が多い。そして、多くの文学作品やドラマ、映画、演劇等に精通している人たちである。かつての朝ドラであれば、こうした人文科学系のバックグラウンドをもつ人たちの印象批評で通用しただろう。しかし今の「社会派」朝ドラを評論するには、それだけでは物足りない。

 ここで、映画の単科大学である、日本映画大学の初代映画学部長で、文芸評論家の高橋世織氏が、2012年に大学受験予備校の東日本大震災特集のサイトに寄稿していた、受験生向けの「映画学」に関する文章(「文明の転換点に立って~3/11以降の世界の新たな構築」)を紹介する。

 私は、日本映画大学という日本で初めての映画大学で、新しい学問を始めようとしています。
 映画は、過去も未来都市も、アンドロイドもお化けや怪獣、森羅万象あらゆるものを描くことが可能なフレームです。ということは、あらゆる学問と通じ合う通路です。夢や希望や勇気、元気を与えてくれるのも映画です。パニック映画の災害映像(津波、竜巻、洪水)なども「自然災害学」を学んでおく必要があります。また貧困や差別の社会矛盾のテーマは、経済学や社会学、法学などの社会科学の下地と教養も要るでしょう。人間洞察には文学、哲学、芸術の素養やセンスが欠かせません。映画作りや映画学は、あらゆる学問を必要とします。その意味では、諸学が分断気味で蛸壺化が進んだ昨今、統合する磁場として《映画学》は一つの有力な新しい学問・教育のモデルとなりえます。

文明の転換点に立って~3/11以降の世界の新たな構築

 要約すると「今の映画の制作や研究には、自然科学、社会科学、人文科学、全ての学問が必要とされる」ということである。そして、この文章は、朝ドラにもそのままあてはめて考えることができる。
 「「社会派」AK朝ドラの歴史」の章で見てきた通り、今のNHKの朝ドラ制作陣は「現代の日本における課題、社会問題」をテーマに据えて、あらゆる学問の知識を総動員して、朝ドラを制作しているといえるだろう。

 一方で、朝ドラ評論は、自然科学や社会科学の知見でもって論じることができる人が未だに少ない。特に「半分、青い。」「ちむどんどん」のようなテーマが暗示された「社会派」朝ドラでは、他の作品では素晴らしい朝ドラ評を書くライターであっても、当該作品では、テーマをとらえた評論をすることが難しかったように思われる。
 これからは、エンタメ系のメディアで素晴らしい記事を書くライターたちが、もっと自然科学、社会科学の知識を身に着けた上で、ドラマのテーマを捉え、自然科学や社会科学の観点からも論じていってほしい
 そうなっていけば、今の「社会派」朝ドラが、より多くの人に理解されていくだろうし、また中身の無いコタツ記事や、評論もどきの駄文も減っていくと思われる。

おわりに

 前章までで、「社会派」朝ドラとして制作されている最近の朝ドラが、各々どのような社会的なテーマを扱い、また、どのように「社会派」の朝ドラを論じていけばよいのかを述べた。だいぶ長い文章となったので、最後に簡単にまとめることにしたい。

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 最近のNHK東京制作の朝ドラは、「社会派」ドラマの要素が含まれている。これは朝ドラで「現代に横たわる大きな課題」や「日本の社会問題」をテーマとし、視聴者に考えてもらいたいという制作陣の思いがある。そして
「社会派」ラブコメディとして大ヒットした「逃げるは恥だが役に立つ」が朝ドラにかなり影響を与えたと推察される。
 ここ数年の朝ドラで扱われた、社会的テーマは以下の通りである。

2018年「半分、青い。」→「発達障害(ADHD)と多様性」
2019年「なつぞら」→「女性の社会進出と働き方の課題」
2020年「エール」→「音楽(エンタメ)と大衆扇動の危険性」
2021年「おかえりモネ」→「東日本大震災のその後と気象災害」 
2022年「ちむどんどん」→「社会的包摂と沖縄コミュニティ」

 そして、2023年の「らんまん」の社会的テーマは、SDGsであり、AK制作の朝ドラの「社会派」ドラマの傾向は継続していくだろう。
 こうした「社会派」朝ドラを論じるには、テーマである現代の課題、日本の社会問題を把握することが前提となる。テーマを把握した上で、自由に論じればよい。ただし「社会派」の朝ドラを論じるためには、人文科学の知識や教養だけでなく、自然科学や社会科学の知識や教養も必要である。

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 最後になるが、2023年のAK制作の朝ドラ「らんまん」の主人公は植物学者であり、テーマはSDGsである。このテーマの詳細を把握した上で、評論するためには、「自然科学」の知識や教養が必須だろう。
 「らんまん」放送時には、自然科学の観点から論じた朝ドラ評が増えることを期待しつつ、筆をおくことにしたい。


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