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文学理論で、朝ドラを読み解く。(1)

 日本で最も視聴されているテレビドラマは、NHKの「朝ドラ」、正式名称「連続テレビ小説」である。2023年12月現在は、NHK大阪(以下、BK)制作の「ブギウギ」が放送されている。
 筆者はここ数年、朝ドラに関するnote記事を書いてきた。その動機の一つは、「私が読みたい朝ドラ評を書いている人がいない。じゃあ、自分が書くしかない」(©田中泰延著「読みたいことを、書けばいい。」[1])と思ったからだ。

 私が読みたい朝ドラ評とは、多くの視聴者が、各々の視点で読み解いた、さまざまな朝ドラの解釈や批評である。朝ドラとは、そのような多様で奥深い解釈や批評が可能なドラマであると私は確信している。そして、自分でも朝ドラの解釈や批評はするが、他の多くの人たちの素晴らしい解釈や批評も読みたいというのが、私が理想とするところである。

 しかし、現状はそうした理想には程遠い。特に、ネットメディアの朝ドラバッシング記事は非常に多い。例えば、一部の描写を切り出して難癖をつけたり、SNS上のアンチの反応を取り上げて作品をディスったりする。
 何故こんな酷いことをするかというと、物話の筋が理解できない視聴者を煽ると、PVをたくさん稼げるからだ。その記事に集まる反応も、記事の内容とは関係のない、自分が言いたいことだけを勝手に語るものばかりである。
 作品を炎上させてPVを稼ぐ、焼畑農業的なこれらの記事は、正当な批評や批判とはいえない誹謗中傷の類であり、読む価値は無い。

 もっともこうした状況は、今にはじまったことではない。「キネマ旬報」でテレビドラマ評を連載していた、映画評論家の樋口尚文氏は、2012年に出版された自著「テレビ・トラベラー 昭和・平成テレビドラマ批評大全」[2]の中で、日本のテレビドラマの批評の現状について、次のように語っている。

わが国のテレビドラマの作り手たちは、いかに真摯な作品を生み出したとしても、批評らしい批評に恵まれてこなかった。
(中略)
こと作品評となると新聞や雑誌のコラムや座談会でお気楽な感想が展開されるばかりで、作り手の志に伍した批評というのはほぼ皆無であったように思う。そんな中で、一部の放送界ゆかりの古い論客による時評は真摯さこそあれ、テレビ界のムラ意識的な認識に縛られていたり、失礼ながら印象批評の反復に留まることが多かった。

樋口尚文「テレビ・トラベラー 昭和・平成テレビドラマ批評大全」

 残念ながら、この文章が書かれて10年以上経過した現在においても、事態は全く好転していない。とはいえ、そのような事態を嘆いているだけでは、どうしようもない。

 朝ドラの正式名称は、連続テレビ「小説」である。したがって「小説」を読むように楽しめばよい、というのが私の持論である。難易度的には、高校の現代文レベルの読解力があれば、朝ドラのストーリーは、十分に読み解くことができる。加えて、大学の文学部の学生が学ぶような、文学理論の入門的な知識があれば、多様かつ深い解釈が可能になると考えている。

 そこで、一つの試みとして、文学理論を適用した朝ドラ批評をやってみようと考えた。文学理論を適用して文学作品を批評した本といえば、例えば、廣野由美子著「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」[3]や、小林真大著「新装版 文学のトリセツ」[4] 等の先例がある。先に述べた通り、朝ドラは「小説」なので、文学理論を適用した朝ドラ批評というのは可能だと考えている。

 この連載では、文学理論を適用した、朝ドラ批評の方法論を述べ、次に、ここ数年に放送された朝ドラを題材にして、その方法論を実践することにしたい。この連載が、多くの人の多様な朝ドラ解釈や批評にも出会うことにつながればと考えている。


朝ドラ批評への「文学理論」の適用

 この連載では、朝ドラを批評するために文学理論を用いるが、そもそも「文学理論」とは何だろうか。その定義を、人文科学系の学問の解説サイト「リベラルアーツガイド」[5]から引用する。

文学理論(literary theory)とは、文学作品を解釈するために用いるさまざまな思考の枠組みのことです。

【文学理論とは】学ぶ意義・歴史を必読書とともにわかりやすく解説

 次に「文学理論」と似ている言葉に「文学批評」や「文芸批評」がある。その定義についても「リベラルアーツガイド」[5]から引用する。

文芸批評とは作品の価値を見極め、その価値を相手に伝えるプロセスのこと

【文学理論とは】学ぶ意義・歴史を必読書とともにわかりやすく解説

 これらの用語の定義を踏まえると、「文学理論を用いて、朝ドラを批評する」こととは、「朝ドラという作品を解釈するために、既存の様々な思考の枠組みをあてはめて、作品の解釈や価値を引き出し、それらを伝える」ことになる。これがまさに、この連載で筆者が実践したいことである。

文学批評の6つのタイプ

 アメリカの批評家・ロバート・スコールズによれば、数多くある文学批評は6つのタイプに分類され、文学批評で用いられる文学理論は、その6つのいずれかを重視しているにすぎない。そこで本項では、高校生・大学生向けの文学理論の入門書である、小林真大著「「感想文」から「文学批評」へ:高校・大学から始める批評入門」[6] を参考にしながら、この文学批評の6つの分類を説明することにしたい。

 スコールズが文学批評を分類する上では、言語学者のロマーン・ヤーコブソンのコミュニケーション理論を応用している。ヤーコブソンは、あらゆる言語活動は、図1の6つの要素で成り立っていると主張する。

【図1】コミュニケーションの6要素

 まず、コミュニケーションには、言葉を発する「発信者」、その言葉を聞く「受信者」、発信者から受信者に伝えられる「メッセージ」がある。
 ヤーコブソンは、この3つの要素に加え、コミュニケーションが成立するためには、更に「接触」「コード」「コンテクスト」の3つの要素が不可欠であると指摘した。
 「接触」とは、発信者から受信者へメッセージを伝えるために媒介するものである。「コード」とは、メッセージに意味を与えるルールや規則、文法等である。「コンテクスト」とは、メッセージの意味を理解する上で必要となる背景や文脈である。以上が、コミュニケーションが成立するために必要な6つの要素である。

 そしてスコールズは、文学作品の読解もコミュニケーションの一種であると捉え、ヤーコブソンのコミュニケーション理論を、文学批評に応用した。
 図1の6要素を、文学批評にあてはめたものが図2である。

【図2】文学批評の6つの分類

 スコールズは、図1の発信者、受信者、メッセージの要素の関係を応用して、文学批評とは「作者が作品(テクスト)を読者へ送信する、コミュニケーション行為」と捉えた。また「接触」にあたるのは、作者から読者へ作品を流通させる「メディア」である。そして「コード」にあたるのは、作品を叙述するルールや規則であり、「コンテクスト」にあたるのは、作品の背景にある社会的状況や社会思想、時代性等である。
 そして、全ての文学理論は、図2の6つの要素のうちのどれかを重視しているかに過ぎない。主な文学理論は、図3の通り、6つに分類される。

【図3】文学理論の分類

① 作家論(作者重視)
② ニュークリティシズム(テクスト重視)
③ 読者論(読者重視)
④ 構造主義(コード重視)
⑤ イデオロギー批評(コンテクスト重視)
⑥ メディア・スタディーズ(メディア重視)

小林真大「「感想文」から「文学批評」へ」p.18

 それでは、これらの文学理論を、朝ドラ批評に適用した場合はどうなるのかを次項にて説明する。

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朝ドラ批評への適用

 ここからは筆者の私論となる朝ドラ批評への文学理論の適用である。前項の文学理論を、テレビドラマ、特にNHKの朝ドラ批評に適用した場合にどうなるか、前項の図2、図3をもとに、図4の通り、再整理した。

【図4】朝ドラ批評への適用

① 制作者論(作者重視)
② ドラマのシーン分析(テクスト重視)

③ 物語の構造・フォーマット(コード重視)
④ 視聴者論(読者重視)
⑤ イデオロギー・時代背景等(コンテクスト重視)
⑥ ドラマを取り巻く環境・メディア論(メディア重視)

 ①の「制作者論」は、制作者の意図を知ることに意味があるとする、作者重視の批評である。ドラマの「作者」というと、脚本家と思われがちだが、ドラマ制作に関与しているのは、プロデューサー、演出、俳優等、多くの関係者がいる。そこで、ドラマ制作に関わる全ての関係者を「制作者」と総称し、「制作者論」とした。

 ②の「ドラマのシーン分析」は、ドラマの各々のシーンを構成する要素を精緻に分析する、テクスト重視の批評である。物語をミクロな視点で分析するともいえる。
 台詞、語り、映像、演技、表情、劇伴、効果音等、シーンを構成する要素はたくさんあり、それらがどのような意味をもっているのかを考える。そして、シーンの意味の集積として、作品の意味を見出していく手法である。

 ③の「物語の構造・フォーマット」は、作品の意味は、物語の中にある法則や構造等が生み出しているという考え方であり、そうした法則や構造を、作品の中に見出して分析するコード重視の批評である。物語をマクロな視点で分析するともいえる。
 朝ドラに特化すると、朝ドラの「フォーマット」と呼ばれる物語の構造があったり、過去の作品の物語構造を流用して制作されるケースも多い。

 ④の視聴者論は、作品の受容者を重視した批評である。読者論や受容理論では、「作品の意味は、読者が作品に反応することで生まれる」という考え方だが、この考え方をそのまま映画やドラマに適用した。テレビドラマの受容者は「視聴者」のため、「視聴者論」とした。

 ⑤のイデオロギー・時代背景等」は、コンテクスト重視の批評である。
作品とはその作品を生み出した社会の産物であり、作品の意味は作品の背景や文脈にあたる、社会的背景や時代性、地域性にあるとする考え方である。
 作品を批評するにあたり、作品が書かれた時代、作品が舞台とする時代や地域の人々が共有している価値観や思想、すなわち「イデオロギー」を重視する。そのために、マルクス主義やフェミニズム、ポストコロニアリズム等の社会思想・政治思想を参照して批評する方法である。

 ⑥のドラマを取り巻く環境・メディア論」は、作品を流通させるメディアを重視した批評である。作品の読解というよりは、作品を取り巻く環境の分析である。現代のテレビドラマに適用した場合は、ドラマの関連番組や、ネットの朝ドラ記事、また、ネット経由の動画配信やスマートフォン、SNS等が、ドラマの制作や視聴者の受容に、どのような影響を与えているのかを分析するものである。

 ところで、文学批評で用いられる文学理論は、既存の文学理論を批判的に検証し発展してきた歴史的な経緯がある。一番有名なのは、作者重視の作家論を否定した、ロラン・バルトの「作者の死」という言葉だろう。
 しかし、筆者としては、作品の意味を知るために何を重視するかの違い、いわば流派・立場の違いであり、作家論、構造主義、読者論等、色々な文学理論を使って作品を批評しても構わないし、逆にその方が多様な解釈ができると考えている。

 なお、筆者は、
② ドラマのシーン分析を行い、
③物語の構造・フォーマットをあてはめて更に分析し、
⑤イデオロギー・時代背景等の観点を加えて考察し、
①制作者の意図を抽出するというやり方をとる。そして
④視聴者の立場で、期待値を超えた点、作品の新しい点を評価して、
SNS等の⑥メディアで、他の人の朝ドラ評を参考にする。
 この連載では、複数の朝ドラを題材にして、さまざまな文学理論を応用した、朝ドラ批評の手法を実践してみたいと思う。

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批評は作品とのコミュニケーション

 朝ドラ批評の各論に入る前に、文学批評の6つのタイプに立ち戻り、確認しておきたいことがある。それは、批評や批判と、難癖や悪口、誹謗中傷との違いである。

 既に述べた通り、文学批評の6つのタイプのベースには、コミュニケーション理論がある。したがって、作品を批評するということは、作品とコミュニケーションすることである。作品とのコミュニケーションがきちんと成立すれば、正当な批評や批判となり得るし、コミュニケーションが成立しなければ、難癖や悪口、誹謗中傷の類となる。それでは、正当な批評や批判をするためには、換言すると、作品とのコミュニケーションを成立させるためには、どうすればよいのだろうか。

 その答えは簡単である。普段の人間同士のコミュニケーションと同じことを心がければよい。また、コミュニケーションは、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションに大別されるが、言語面と非言語面それぞれで次の通り心がけるべきことがある。
(言語面・論理的)   情報を正確に伝え、正確に受け取る。
(非言語面・感情的)相手の感情を汲み取り、信頼関係を築く。
 それでは、作品を批評する際に心がけるべきことは、具体的にどういうことか、次項以降で説明することにしたい。

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物語を自分なりに要約する

 前項で示した通り、コミュニケーションを成立させるためには、「情報を正確に伝え、正確に受け取る」ことを心がける必要がある。その心がけを、作品とのコミュニケーションで実践する場合はどうなるのだろうか。
 それは、作品に対する自分の理解を提示すること、すなわち、作品を要約することである。多くの文学理論の入門書においても、作品を読む際には、その作品の要約、あらすじを書くことが推奨されている。一例として、渡辺祐真/スケザネ著「物語のカギ」[7]の一節を引用する。

自分なりに物語を要約するのです。「あらすじをつくる」と言ってもいいでしょう。ここで重要なのが、「自分なりに」という点です。とかく我々は、要約やあらすじと言えば、絶対的な正解があって、そこに創造的な要素を認めることはないでしょう。しかし、あらすじというのは、その物語をきちんと読んだ人でないと産出することができないのです。
(中略)
その人がどのように読んだかがあらすじの精度や内容を決定づける、そういう意味であらすじはその人の読みの証明になるというわけです。

渡辺祐真/スケザネ「物語のカギ」

 要約することの重要性は、小説やドラマを読む場合に限った話ではない。 
 例えば、大学入試の小論文試験は、長文の評論文等を読み、その論文に対する自分の意見を述べる出題形式だが、まず論文を要約させる設問があり、その上で自分の意見を述べさせるパターンが非常に多い。
 そして、採点者は受験者が書いた要約から、受験者の出題意図の理解度を測っている。正しく要約ができていなければ、意見が判断される前に採点者によって不合格にされる。

 テレビドラマの批評も、全く同じである。ドラマの批評は、そのドラマを理解していることが大前提であり、そのエビデンスが要約、つまりドラマのあらすじである。例えば、筆者は「ちむどんどん」(2022)に関して、以下のように要約した。

比嘉家のような貧困家庭、賢秀のような問題児、矢作のような失敗した人、歌子のような難病を抱える人、沖縄のおばぁ(高齢者)達が、孤立したり、疎外されたりすることなく、「ゆいまーる」と呼ばれる相互扶助の精神をもつ、沖縄県民のコミュニティに包摂されて、お互いに助け合いながら、やり直しや活躍の場を与えられているストーリー

「#ちむどんどん」を読み解く鍵=「社会的包摂」と「沖縄コミュニティ」

 原則として、テレビドラマの批評はあらすじが含まれるべきである。まだ作品を見ていない人に配慮して、「ネタバレ」を避けるケースであっても、核心となるところはぼかす等の工夫をして、あらすじを入れるべきだ。
 そして、きちんと作品を見ていた人ならば、核心をぼかして書いたとしても、そのあらすじが妥当かどうか、また、あらすじを書いた人が物語を理解しているかどうかは容易に判断がつくものだ。 
 ネット上のドラマの批評記事は玉石混交で、執筆者が肩書や権威のある人であっても、デタラメなものは結構多い。「自分なりの物語の要約=読みのエビデンスがあるか、またその要約が妥当かどうか」を判断すべきである。

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作り手をリスペクトする

 人間同士のコミュニケーションでは、先に述べた通り、「相手の感情を汲み取り、信頼関係を築く」ことが大切である。それでは、作品とのコミュニケーションで、その心がけを実践する場合は、どのようになるのだろうか。それは、作品の作り手をリスペクトすること(敬意を表すこと)である。

 ネットメディアやSNSには、映画やドラマに対して、難癖をつける人たちが大勢いる。さしたる根拠もなく、評論家気取りで「駄作!」と断じたり、中には「酷い作品だから、叩かれて当たり前!」という勘違いも甚だしい、歪んだ正義感から誹謗中傷をする人もいる。そういった人たちは、作品の向こう側に、作り手という「人」がいることを全く忘れてしまうのだろう。

 例えば、子供を叱る必要がある時、口汚い言葉で罵ったら、虐待である。職場において部下を指導する必要がある時、根拠もなくダメ出しするのは、パワハラである。客の立場を笠に着て、店員に執拗なクレームをするのは、カスタマーハラスメントである。また聞きの噂で他人を貶めたり、悪口を言うのは、イジメである。サッカーの試合で、選手に差別的で侮辱的な野次を飛ばしたら、出禁である。
 そして、人間同士のコミュニケーションで、これらの振る舞いは避けるべきだが、作品を批評する時も全く同じである。

 否定的な論評をする時であっても、作り手への敬意を欠いてはいけない。
そして、作品を理解して、悪い点だけでなく良い点も踏まえ、冷静かつ納得感のある形で伝える必要があるだろう。
 けして「作品を否定的に論評するな」と言っている訳ではない。しかし、子供を叱る時や部下への指導等と同様に、作品を否定的に論評することは、かなり難しいことなのである。

 一方で、ネット上には、作り手へのリスペクトを持ち、的確で素晴らしいドラマ批評をする市井の人たちも大勢いる。そのような人たちの特徴を見ると、つまらないと思って見なくなった作品や、分からない作品に対しては、黙して語らない姿勢を貫く点で共通している。単に見なくなったから論評できないということもあるが、作品を否定的に論評することの難しさを知っているからでもあるだろう。

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(要約)朝ドラへの「文学理論」の適用

文学理論は、コミュニケーション理論を応用する形で、6つのタイプに分類でき、朝ドラ批評に適用した場合には次の通り整理できる。
① 制作者論(作者重視)
② ドラマのシーン分析(メッセージ重視)

③ 物語の構造・朝ドラのフォーマット(コード重視)
④ 視聴者論(読者重視)
⑤ イデオロギー・時代背景等(コンテクスト重視)
⑥ ドラマを取り巻く環境・メディア論(メディア重視)

また、批評とは作品とのコミュニケーションである。作品を批評する際には次の2つが重要である。
① 物語を自分なりに要約すること
② 作品の作り手をリスペクトすること

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朝ドラの「制作者論」

 作者を重視する「作家論」は、近代においてはじめて体系的に確立された文学批評のスタイルであり、作者を重視し、作品の意味は作者の意図にあると考える。本章では、「作家論」を応用する形で、朝ドラの「制作者論」を考えていく。

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朝ドラの「制作者」とは

 「作家論」を朝ドラ批評に適用する前に、まずは、朝ドラの「作者」とは誰なのか、改めて確認しておきたい。
 小説や詩歌等の作品における「作者」は、作品を書いた「作家」である。
だが、映画やドラマ等の映像作品の場合は、多くの人たちが制作に関わる。
映画やドラマの「作者」とは誰なのだろうか。
 内田樹著「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」[8]には、「映画の作り手」に関する、次のような記述がある。

 私たちは「黒澤明の時代劇映画」とか「ロジャー・コーマンのB級映画」とか「レオナルド・ディカプリオの青春映画」とかいろいろな言い方で、映画に「・・・・の」という所有格を付します。まるで映画というのは「・・・・の映画」というふうに単一の作り手に帰せられるものであるかのように。しかし、映画は「誰のもの」なのでしょう。監督?プロデューサー?主演俳優?シナリオライター?カメラマン?
 たぶんこのような問いには意味がありません。
 というのも、映画を専一的に作り出し、所有し、支配している個人はどこにも存在しないからです。映画には「作者」はいない。考えればすぐに分かることです。

内田樹著「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」

 内田氏は、「映画には「作者」はいない」と主張する。それは、映画を介したロラン・バルトの思想を紹介することが目的であり、この一節がある、章タイトルも「テクストとしての映画」だからだ。筆者としては、内田氏の立場は理解するものの、作者に関する考え方は異なる。映画やドラマには「制作者」という作者がいて、「制作者」の意図はあると考えている。
 より正確に言うと、「「作者」はいない」として「作者」の意図を否定するのではなく、「作者」の意図があるという読みも含めて、多様な読みを許容していくべきというのが、筆者の考え方である。

 一方、「映画は単一の作り手に帰せられるものではない」という主張は、筆者も同意見である。この本の中で、米国の俳優であるハリソン・フォードが、「自分はチームの一員である」という意味で、「フィルムメーカー」と称したという逸話が紹介されていた。この言葉は、映画製作に関わった全てのスタッフ、キャストの集合名詞であり、内田氏は次のように語る。

映画は集合体としての「フィルムメーカー」による集団的創造の産物です。

内田樹著「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」

 前章の「朝ドラ批評の適用」の項で、朝ドラの制作に関わる、俳優、脚本家、プロデューサー、演出等の制作陣も「作者」であり、朝ドラの制作に関わるすべての関係者を「制作者」と総称したが、この考え方は、映画の作り手を「フィルムメーカー」と称した考え方と全く同じである。

 朝ドラに限らず、映画やドラマには「フィルムメーカー」や「制作者」という作者がいて、作者の意図があると筆者は考える。映画やドラマは、大規模な「プロジェクト」が編成されて制作されるが、プロジェクトを進める際は、全てのメンバーに、ビジョンや方針等が共有されるからだ。
 このことは、映画やドラマに限った話ではない。プロジェクトという形態で進められる、イベント、建築物、ITシステム等、あらゆる「ものづくり」で共通している。プロジェクトメンバー間で、ビジョンや方針が共有されていなければ、整合性をもって「ものづくり」をすることは困難だ。

 したがって、映画やドラマ制作において、「制作者」の間では、ビジョンや方針が共有されている。そして、そのビジョンや方針には作品を通じて、受け手にどういうことを伝えたいか、つまり、作者の意図も含まれている
 朝ドラの「制作者」の意図を考える上で、作家論の手法は役に立つ。次項以降で、さまざまな作家論を、朝ドラへ適用していくことにしたい。

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伝記的批評

 代表的な作家論の一つに、伝記的批評がある。伝記的批評とは、作品を「作家の人生を映し出したもの」として読む形の批評である。
 伝記的批評は、作家の伝記的な史実や作風、価値観等を頼りに、作品の意味を見出していく「作者→作品」というアプローチであるが、朝ドラ批評にはあまり馴染まない。その理由としては二つある。

 一つ目の理由は、朝ドラの作者である、NHKの制作陣や脚本家は、原則的に毎回交代するからだ。もちろん、複数の朝ドラの脚本を担当したことのある脚本家はいる。朝ドラ以外の脚本家のドラマもあわせて批評するというやり方もある。しかし、こうした手法が有効な朝ドラはそれ程多くはない。
 例えば、「半分、青い。」(2018)は、北川悦吏子という脚本家の価値観や、障害に関する人生経験がかなり反映されていた朝ドラである。北川脚本の他の作品を視聴したり、メディアのインタビューやSNS上での発信を読んだりすることは、「半分、青い。」という作品の理解の一助となるだろう。

 もう一つの理由は、伝記的批評は、既に亡くなった作家、全集という形で作品集が出ている作家に馴染む手法であるからだ。作家の価値観や人生経験が変わることはないため、作家→作品というアプローチは有効である。
 しかし、朝ドラの脚本家やNHKの制作者は、現役のクリエイターである。必ずしも朝ドラが最後の作品というわけではない。今後も長く活躍することが想定される場合、作家の価値観や人生経験を確定させることは難しく、「作家の人生を映し出したもの」として作品を捉えるのは、中途半端なことになる。

 ところで、「伝記的批評」は、主人公のモデルがいる朝ドラに適用できるのだろうか。例えば、作曲家の古関裕而がモデルの「エール」(2020)や、植物学者の牧野富太郎がモデルの「らんまん」(2023)、歌手の笠置シヅ子がモデルの「ブギウギ」(2023)等に対してである。
 しかし、これらの作品は「モデルとなった人物」の人生を映し出したものであり、「作家」、つまりNHKの制作陣や脚本家の人生を映し出したものではない。したがって、主人公のモデルがいる朝ドラに、伝記的批評の手法を適用することは馴染まない。

 また、主人公のモデルがある朝ドラが、モデルとなる人物の人生をそのまま反映して作られているわけではないということは留意しておきたい。
 NHKの番組紹介でも、「◯◯の人生をモデルにしつつ、大胆にアレンジしたオリジナル作品」といったディスクレーマーが必ず入る。むしろ、アレンジされた箇所に、NHKの制作者や脚本家等の「制作者の意図」があると考えたほうがよい。

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作品論的批評

 作品論的批評は、「作品の分析を通して作家の意図を解読する」形の批評である。作品論的批評は作家論の後に生まれたが、その経緯について、石原千秋著「読者はどこにいるのか 読者論入門」[9]から引用する。

作家論のスタイルで研究するためには全集を買って、少なくとも建前上は、全集を隅から隅まで読まなければならない。しかし、そういう情熱を持った学生は多くはなかっただろうし、実際問題として、全国に大量に生み出された文学部の学生がみんな全集を手に入れることは不可能だったろう。そこで「文庫本一冊で論じられるお手軽な方法」と皮肉られながらも、作品論の時代に移行せざるを得なかった。これが作品論の時代が到来した物質的基礎である。

石原千秋「読者はどこにいるのか 読者論入門」

 伝記的批評も、作品論的批評も、「作家の意図を解読する」という目的は共通である。伝記的批評は、「作者→作品」というアプローチの批評だが、作家の人生を隅々まで知っておく必要があり、限界がある。
 一方、作品論的批評は、作品を一つだけ研究し、そこから見える作家のイメージを捉える。伝記的批評とは逆の、「作品→作者」というアプローチであり、簡潔で明快である。そして、朝ドラの「制作者」は、作品ごとに変わるため、朝ドラの批評は、作品から「制作者」の意図を解読する、作品論的批評のアプローチの方がより馴染むだろう。

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「作者の死」後の作家論

 文学理論の主流だった作家論は、ロラン・バルトの「作者の死」という、作家論批判により、影響力を衰退させていく。しかしながら、作家論をもう一度見直す動きも登場する。アメリカの批評家、エリック・ドナルド・ハーシュによる解釈学である。

 まず、ハーシュは、「批評」という言葉が曖昧に使われていることを問題にし、「解釈」と「批評」について以下の通り定義した。

「解釈」→ 作家が想定した「作品の意味」、作品を書いた作家の意図
「批評」→ 今日の我々にとっての「作品の意味」、作品の意義

 そして、批評家の使命は、「作品の意味」を明らかにすること=「解釈」することだとハーシュは主張する。「批評」を行う前に、まず「解釈」をして、作品の意味を知っておく必要があるという考え方である。朝ドラを批評するにあたって、この「解釈」と「批評」の定義は有用である。

 このハーシュの考え方は、筆者が先に述べた「物語を自分なりに要約する」での、「要約」の考え方とほぼ同様である。
 つまり、作品のテーマという形で「作品の意味」を提示することも、あらすじという形で「作品の要約」を提示することも、作品の理解が必要である。言い換えると、「解釈」のアウトプットのバリエーションとして、作品のテーマとあらすじがある。

 ハーシュは、作家論への批判にも見解を示している。作家論への批判の一つに、「読者は作者ではないので、読者が作者の意図を知ることは不可能である」という批判がある。ハーシュは、読者が作者の意図を知ることは不可能であることを認めつつも、作者の意図を探求すること、つまり「解釈」することは、無意味ではないと反論する。そして、誰かの「解釈」が多くの批評家に妥当な「解釈」であると認められれば、大きな進歩であるとする。
 このハーシュの考え方も、先に述べた「要約」の考え方とほぼ同様である。作品の解釈というのは、人によって観点が異なるため、「自分なりに」しか要約することができない。しかし、多くの人に妥当な要約と認められればよい。要約に絶対的な正解はないのである。

 そして、ハーシュの「批評」の考え方も、朝ドラ批評には有用である。
 朝ドラで描かれる時代は、平成や令和の時代もあれば、戦前、戦後、中には明治時代から描く作品もある。しかし、朝ドラ作品では、作品を放送する時点での、日本社会が抱える、様々な社会的な課題や問題が提起される。
 また、再放送された時点でも、リアルタイムで放送されていた時とは異なる、新たな作品の意義を見いだせることもある。
 したがって、今日の我々にとっての「作品の意味」=作品の意義を探求する「批評」は、朝ドラ批評にとって有用である。

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現代社会の課題・問題の提起

 昨今の朝ドラには、現代社会の課題や問題に対する、制作者の問題提起が含まれていることが多い。この問題提起こそが、朝ドラの「制作者」の意図の一つでもある。戦争や、震災等の自然災害、経済危機、労働に絡む様々な問題、女性差別、多様性、障がい者、SDGs等、朝ドラで扱われる現代社会の課題や問題は多岐に渡る。それ故、朝ドラ批評においては、どのような社会的な課題や問題が扱われているかを抽出し、自分の考えを述べることが重要なのである。

 一例として、筆者は「ちむどんどん」(2022)について、「社会的包摂」の観点から読み解いた以下の記事を書いた。

 この記事の中で、「ちむどんどん」のテーマは「社会的包摂」と、包摂を実践する「沖縄コミュニティ」であると読み解いた。そして、「ちむどんどん」という作品の意義は、今の日本社会が抱える、少子高齢化問題や、地方の過疎化に起因する社会的排除や孤立化の問題を解決するために、沖縄県民のコミュニティがもつ「社会的包摂」という考え方が参考になると提示したことにあると評した。

 もちろん、筆者の「ちむどんどん」の解釈と批評は、あくまで一つの見方でしかない。「社会的包摂」以外の観点で、「ちむどんどん」を解釈して、批評することも、当然可能である。
 朝ドラの制作者は、作品に様々なメッセージを込めている。多くの視聴者の多様な観点から、作品の中にある、可能な限り多くの制作者のメッセージを読み解くことで、朝ドラ批評が健全かつ豊かなものになっていくだろう。

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(要約)朝ドラの「制作者論」とは

朝ドラをはじめとする、映画やドラマ等の映像作品の制作は、プロジェクトが組成され、多くの人たちが制作に関わる。全員が「作者」であり、総称して「制作者」とした。そして、映像作品制作のプロジェクトでは、ビジョンや方針、作品の意味、つまり「制作者の意図」が共有される。
制作者の意図を解読するためには、文学理論の作家論が有用である。伝記的批評は、朝ドラ批評に適用することは馴染まない。朝ドラは作品ごとに制作者が変わるので、作品論的批評の方が馴染む。
ハーシュの「解釈」と「批評」の定義は、朝ドラの批評に大変有用である。朝ドラには、現代社会が抱える課題や問題について、制作者からの問題提起が含まれている。制作者の意図を「解釈」し、現代社会にとっての作品の意義を「批評」することが、朝ドラ批評にとって重要である。

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おわりに

 「文学理論で、朝ドラを読み解く。」の連載の第1回である本記事では、朝ドラ批評への文学理論の適用と、朝ドラの「制作者」について論じた。
 本記事を執筆する上で最も参考にしたのが、小林真大著「「感想文」から「文学批評」へ:高校・大学から始める批評入門」[6] である。

 この本は、文学批評の入門書として大変分かりやすく、タイトルの通り、高校生や大学生に推奨できる本である。ネット上の朝ドラ記事には、コラムニスト、ライター、大学教授、朝ドラ評論家といった肩書きの人たちが書いた、お気楽な朝ドラ「感想文」が非常に多いが、この本を読む人が増えて、「感想文」レベルではない、「文学批評」レベルの朝ドラ記事が増えてほしいと願っている。
 更に言うと、この記事の冒頭で紹介した、映画評論家の樋口尚文氏が言うところの「作り手の志に伍した批評」が増えてほしい。本記事の、朝ドラの「制作者論」は、そのような思いで執筆した次第である。

 「文学理論で、朝ドラを読み解く。」の第2回では、朝ドラのシーンの分析、物語構造の把握を、文学理論を適用しつつ、どのように行うかを論じることにしたい。引き続き、お読みいただけると幸いである。

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参考文献

[1] 田中泰延(2019).「読みたいことを、書けばいい。」.ダイヤモンド社
[2] 樋口尚文(2012).「テレビ・トラベラー 昭和・平成テレビドラマ批評大全」.国書刊行会
[3]廣野由美子(2005).「「批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義」.中公新書
[4]小林真大(2022).「新装版 文学のトリセツ 」.五月書房新社
[5]リベラルアーツガイド(2020).「【文学理論とは】学ぶ意義・歴史を必読書とともにわかりやすく解説」.https://liberal-arts-guide.com/literary-theory/
[6] 小林真大(2021).「「感想文」から「文学批評」へ:高校・大学から始める批評入門」.小鳥遊書房
[7] 渡辺祐真とスケザネ(2022).「物語のカギ」.笠間書院
[8] 内田樹(2003).「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」.晶文社
[9]石原千秋(2021).「読者はどこにいるのか 読者論入門」.河出書房新社

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