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「#ちむどんどん」を読み解く鍵=「社会的包摂」と「沖縄コミュニティ」

  2022年4月から放送を開始したNHKの連続テレビ小説「ちむどんどん」は、9月30日に最終回を迎えた。「ちむどんどん」に関しては、朝ドラの過去作品「ちゅらさん」「まれ」「半分、青い。」と比較した考察を以下のnote記事に書いた。本記事はその続編にあたる。

 「ちむどんどん」は、2022年が沖縄本土復帰から50年の節目であることから企画された朝ドラである。朝ドラでは伝統的に、戦争もしくは震災等の大災害のエピソードが含まれるケースが多いが、「ちむどんどん」の制作陣は、沖縄を舞台にするこのドラマで、どのような社会的課題や問題、沖縄の歴史を盛り込み、視聴者に問題提起すべきか、熟考されたに違いない。

 このnoteでは、「ちむどんどん」のストーリー全体を通して取り上げられていた社会的なテーマについて解説し、次にそのテーマが現れているシーンや人物関係の設定について考察していくことにしたい。

包摂する沖縄コミュニティの物語

 朝ドラの枠組みで取り上げられる社会的な課題や問題は、ストーリー全体を通じて問題提起されるものと、一部のエピソードで取り上げられるものに大別される。また、戦争や震災のように明示されるものもあれば、差別問題のように暗示させるものもある。
 「ちむどんどん」に関していうと、民俗学者・史彦と新聞記者・和彦の青柳親子、そして、賢三、優子の夫婦で、沖縄戦を含む沖縄の歴史問題を描こうとしたと考えられる。また暢子と和彦の対比は、比喩的には、沖縄と本土の対比である。暢子と和彦が母・重子に結婚の許しを得るシーンは、当時存在した、沖縄出身者への結婚差別を暗に臭わせているようだった。沖縄戦や差別問題は「一部のエピソードで取り上げられたもの」に分類されるだろう。

 それでは「ちむどんどん」で一貫して取り上げられていた社会的なテーマは何かというと、それは「社会的包摂」である。Wikipediaから、その定義を引用する。

社会的包摂(しゃかいてきほうせつ)あるいはソーシャル・インクルージョン(英: social inclusion)とは、社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、支え合う考え方のこと。社会的排除の反対の概念である。

Wikipedia「社会的包摂」

 「社会的包摂」は、1980年代から提唱されてきた考え方だが、日本では、2008年のリーマン・ショックによる「派遣切り」で、「雇用」から排除される人たちが大量発生したことを契機に、社会的包摂に基づく取り組みが開始され、広く知られるようになった。
 2011年に「一人ひとりを包摂する社会」特命チームが内閣府に設置され、今後の方針や提言がまとめられたが、同年に発生した東日本大震災の被災者への支援も考慮された。被災地の人たちが、連鎖的に生活上の困難を抱え、貧困化や孤立化するリスクが高まることが想定されたからである。
 2015年には、当時の安倍内閣が、少子高齢化に起因する、地方の過疎化や高齢者の孤立化のリスクを鑑み、アベノミクスで得た成果を活かす形で、「一億総活躍社会」というビジョンを掲げた。「社会的包摂」の意味を知る上では、このビジョンの定義がわかりやすいかもしれない。
 平成28年度の厚生労働白書によれば、「一億総活躍社会とは「全ての人が包摂される社会」とある。より詳しく言うと下記の通りである。

女性も男性も、お年寄りも若者も、一度失敗を経験した方も、障害や難病のある方も、家庭で、職場で、地域で、あらゆる場で、誰もが活躍できる、いわば全員参加型の社会

平成28年度厚生労働白書

 また、「一億総活躍社会」の実現のためには、「地域共生社会」のビジョンも重要であるとされており、「一億総活躍社会」のビジョンに包含されている。以下、厚生労働省のHPから引用する。

 かつて我が国では、地域の相互扶助や家族同士の助け合いなど、地域・家庭・職場といった人々の生活の様々な場面において、支え合いの機能が存在しました。
(中略)
しかし、我が国では、高齢化や人口減少が進み、地域・家庭・職場という人々の生活領域における支え合いの基盤が弱まってきています。暮らしにおける人と人とのつながりが弱まる中、これを再構築することで、人生における様々な困難に直面した場合でも、誰もが役割を持ち、お互いが配慮し存在を認め合い、そして時に支え合うことで、孤立せずにその人らしい生活を送ることができるような社会としていくことが求められています。

厚生労働省「地域共生社会」の実現に向けて より抜粋

 以上、「社会的包摂」の考え方と、関連するこれまでの日本政府の政策を説明してきた。
 こうした考え方を踏まえた上で、沖縄という地域を考えてみると、地域の相互扶助や、家族同士の助け合い等の「支え合い」の基盤が今なお残っている、今後の日本社会にとって、ある意味模範となるような地域である。
 おそらく、NHKの朝ドラ制作陣は、「ちむどんどん」でどのような社会的な問題や課題を扱うか検討した時に、沖縄の人たちがもつ「ゆいまーる」と呼ばれる相互扶助の精神や、福祉的機能として再評価された「共同売店」等にヒントを得て、「社会的包摂」を啓蒙する、地域の人たちがお互いに助け合う「包摂する沖縄コミュニティ」の物語を着想したのだと推察される。

 少々堅苦しい説明が続いたが、「社会的包摂」の観点から「ちむどんどん」が、どういうドラマか分かりやすく説明すると、次の通りである。

比嘉家のような貧困家庭、賢秀のような問題児、矢作のような失敗した人、歌子のような難病を抱える人、沖縄のおばぁ(高齢者)達が、孤立したり、疎外されたりすることなく、「ゆいまーる」と呼ばれる相互扶助の精神をもつ、沖縄県民のコミュニティに包摂されて、お互いに助け合いながら、やり直しや活躍の場を与えられているストーリー

 要するに、「ちむどんどん」は、今の日本社会が抱える様々な課題の解決のヒントが「包摂する沖縄コミュニティ」にあるのだと、複数のエピソードで繰り返し暗示していたのである。この観点で「ちむどんどん」を見ていけば、最初はよく分からないと思ったシーンでも、かなりの程度読み解くことができる。
 それでは、次章以降で、上記のことが現れているシーンや人物関係の事例について、解説することにしたい。

ちび暢子の上京とりやめ

 暢子幼少期の第8話から第10話で、母・優子が過労で倒れ、苦しい状況にあったところで、東京に暮らす、父・賢三のおば(後に房子と判明)から「四人のこどものうち、ひとり預かってもいい」という申し出の手紙を受け取るエピソードがある。暢子が立候補し、最後はバスに乗って出発までするが、賢秀が「ありえん!」と叫び、バスを追いかける。バスは止まり、きょうだい達は抱き合い、優子は大叔父に詫びて、暢子の上京を断る。

琉球南北バスの車掌さん、お待たせしてすみません。

 冷静に考えてみると、何だか不自然なエピソードではある。当時の沖縄にこうした「口減らしの丁稚奉公」みたいな話があったのかは分からない。 「えっ、でも暢子が沖縄に残ったままだと、比嘉家には借金もたくさん残っているし、貧乏な状態は全く改善しないけどどうするの?」というツッコミもよく理解できる。ではどうしてこのようなエピソードが挿入されたのか。

 他の家に出される暢子の設定は、貧困を理由とした「社会的排除」を象徴している。一方で、暢子の上京を止めて再び家族の元に置くという結末は、「弱者を包摂する沖縄のコミュニティ」を象徴するシーンである。
 「ちむどんどんのベースとなった朝ドラ」の「半分、青い。」の項でも述べたが、「ちむどんどん」の冒頭2週間は、ストーリー全体のプロットとなっている。その2週間の最後に、このエピソードを入れてきたということは、このドラマで「包摂する沖縄のコミュニティ」のエピソードを描くことを暗に宣言していると考えられる。

共同売店と母・優子とまもるちゃん

 第11話では、母・優子が共同売店で働きはじめたという設定がでてきた。今でもやんばるや奄美に残る組織だが、共同売店は「包摂する沖縄のコミュニティ」そのものである。その共同売店の定義について、共同売店ファンクラブの方のHPから引用する。

共同売店とは、明治末期の沖縄で誕生し、 共同購入を中心に様々な事業を行なってきた独特の相互扶助組織です。というとちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、もう少し分かりやすくいうと、「ムラのみんなで作って、みんなで運営しているお店」です。
(中略)
近年はコミュニティビジネスやソーシャルビジネス の原点としても再評価されており、特に、買い物弱者問題では、全国の高齢化や過疎に悩む地域から注目が集まっています。単なる買い物の場ではなく、地域住民が集まり、互いに見守り合い、絆を育む場となるなど、福祉的な機能の重要性が指摘されています。

「共同売店とは?ー共同売店ファンクラブ」

 母・優子は、夫の賢三に先立たれ、家の借金のために、体力のある成人男性が行うような肉体労働まで行うが、過労で倒れてしまう。しかし、共同売店での職を得た後は、地元のおばぁたち等、地域の皆んなに感謝される存在になる。つまり、経済的困難を抱えた弱者であった、優子および比嘉家が、共同売店という地域のコミュニティに包摂されて、また逆に、優子が共同売店で働き、地域の高齢者たちを支えているといえる。

 ところで、この共同売店の店員に「まもるちゃん」という、全く喋らないオーバーオール姿のおじさんがいた。公式HPの設定では「比嘉家を見守っている」とはあったが、それ以上は分からない不思議な存在だった。 
 最終回で、母・優子と一緒に沖縄の収容所にいて、同じ村にやってきたという経緯がやっと分かる。しかしそれ以上は語られない。「まもるちゃん」の設定については、多くの解釈が成り立つだろう。

 先の共同売店の説明には「地域住民が集まり、互いに見守り合い、絆を育む場」とある。「見守る」の「まもるちゃん」だとしたら、まもるちゃんは、沖縄のコミュニティの包摂性を象徴している存在なのかもしれない。

鶴見・沖縄県人会と智と歌子

 第27話から、横浜・鶴見に舞台が移り、沖縄県県人会が登場する。片岡鶴太郎が演じる、県人会会長・平良三郎は、アポもなく突然自宅にやってきた暢子を泊めて、暢子の下宿先や就職の世話をする。普通だったら追い返してもおかしくはないが、これもやはり、県人会という「沖縄コミュニティ」の包摂するエピソードである。

 そして第31話で、暢子の幼なじみである砂川智が、暢子を追っかけるようにして鶴見にやってくる。智もまた県人会会長の三郎を頼って、住み込みの仕事を紹介してもらい、智も県人会の一員となる。
 智に関しては、県人会仲間に色々と助けられるエピソードがある。第59話で、智は独立起業したが働きすぎで、たくさんの仕事を抱えたまま、過労で倒れてしまう。その時に、三郎を筆頭に県人会仲間が集まり、「こんな時のための県人会仲間じゃないか」「鶴見沖縄県人会のゆいまーる、底力をみせてやりましょう」と言って、智の食品卸の配達の仕事を手分けして肩代わりした。「ゆいまーる」という言葉が出てきた通り、沖縄コミュニティの相互扶助の精神が現れている、分かりやすいエピソードである。

 智は、恋愛に関して致命的な欠点があった。ろくに暢子の気持ちも確かめず「暢子の彼氏」気取りでいたことである。県人会の沖縄角力大会で優勝した智は暢子にプロポーズして見事に玉砕する。
 智ー暢子ー和彦ー愛の四角関係は、恋愛ストーリー観点で見ると、失礼ながら、そんなに「ちむどんどん」しない(笑)のだが、沖縄コミュニティという観点で見ると、なかなか面白い。暢子が智を振ったことで、智は鶴見の沖縄コミュニティに居づらくなる。それでも智が居残れば、今度は逆に暢子が居づらくなる。沖縄県人会・会長の三郎と房子の、悲恋が原因となって、房子が鶴見の沖縄コミュニティから疎遠になったエピソードが、智と暢子の関係の対比となって効いているのである。
 その後、暢子は和彦と結婚するが、第89話で、智は仮病の歌子に騙されて
暢子と和彦の結婚披露宴の会場である「アッラ・フォンターナ」まで連れていかれる。そして、県人会会長・三郎に「観念しろ!」と言われて、県人会のメンバーに拘束されて、当日、豚のお産で急遽欠席した、賢秀の代わりに結婚披露宴に出席させられる。

振られた女の結婚披露宴で祝辞をムチャブリされる、キツい罰ゲーム

 そして智は、友人代表として祝辞を無茶振りされる。しかし、ここで智は見事に2人への祝辞を述べて、暢子への未練を断ち切ることができた
 かなりの荒療治ではあったが、県人会も、祝辞を無茶振りした東洋新聞社の田良島デスクもグッジョブだったと思う。三郎としては、自分と同じ後悔を智にさせたくなかったのだろう。以後、智と暢子は二人共、鶴見の沖縄コミュニティを離れることなく、ビジネスパートナーとして健全な関係を築くことができている。

 最後に智と歌子の関係を分析することにしたい。歌子は、時々高熱が出る原因不明の病気があり、小学生の頃は運動の成績も悪く、また大人になっても、音楽の才能はあるが、本番ではプレッシャー等で弱くて活躍できない。そして、自分が好きな智は姉の暢子のことが好きであり、自分は姉のように活躍できない、幸せになれないと、引っ込み思案になっていた。
 しかし、そんな歌子を智はずっと包摂していた。第7話で、歌子は智に、運動会の競走で万年ビリから脱出するために、コーチをしてほしいと頼み込む。智は快諾して歌子の練習に付き合う。結果は、残念ながらビリだったのだが、「よく頑張った」という意味を込めて、智は歌子に手作りのメダルを授けるのである。

俺にとっては、歌子が一等賞!

 このエピソード以外にも、例えば、智は「居酒屋 珊瑚礁」に頼み込んで、歌子が三線の演奏をする場を作ったりしている。智と歌子のエピソードは、難病をもつ歌子を沖縄コミュニティに包摂する事例として出てきているが、これは先に紹介した「一億総活躍社会」の定義の中の「障害や難病のある方もあらゆる場で活躍できること」という要件に通じているのである。

房子と暢子と「俺たちの矢作」

 第28話で、暢子は県人会会長・三郎の紹介で、「アッラ・フォンターナ」に就職するが、そこで出会った先輩の一人が、矢作知洋である。
 矢作は新人の暢子に対して厳しく意地悪で、口の悪い先輩だった。料理人としての才能はあり、独立して店を持ちたいという野心はあったが、厨房の司令塔である「ストーブ前」を任された時には、うまく立ち回れず失敗するのだった。
 その後、矢作は料理人仲間と共に、「アッラ・フォンターナ」を突然辞めて独立、麻布の一等地に店を出したが失敗し、多額の借金を抱えてしまう。借金返済のため、矢作は未払いの退職金の交渉で「アッラ・フォンターナ」に再来する。その場は房子に会えず、矢作は店に空き巣に入り、売り上げ金と店の権利書を盗み、借金の取り立てにきたヤクザに渡して失踪。このことが原因で、「アッラ・フォンターナ」はヤクザに押しかけられて、営業妨害される。最終的には沖縄県人会・会長の三郎にトラブルを収めてもらうが、矢作のせいで、「アッラ・フォンターナ」は多大な迷惑を被るのだった。

半グレ・ダークサイドに堕ちた時の矢作さん

 「ちむどんどん」では、矢作は「失敗した人」として登場する。矢作が「アッラ・フォンターナ」に対してやったことは犯罪であり、普通であれば、警察に突き出して終わりである。しかしそうはしないのが、鶴見生まれの沖縄2世である「アッラ・フォンターナ」のオーナー房子と、沖縄出身の暢子なのである。
 第96話で、暢子が独立して、沖縄料理屋「ちむどんどん」を開店する準備中に、妊娠が判明する。房子は開店の条件として「出産で休む時に代わりになる信頼できる料理人を確保すること」を命じた。その後、暢子は、鶴見の「あまゆ」の近くで、食い逃げしていた矢作と遭遇する。矢作はかなり困窮し、妻とも別れ、ボロボロだった。ここで暢子は、自分の代わりとなる料理人として、矢作に白羽の矢を立てるのである。矢作は暢子のオファーを断るが、暢子はしぶとく交渉する。
 第100話で、矢作は暢子に連れられて、「アッラ・フォンターナ」を訪れれ、房子と矢作は再会する。「アッラ・フォンターナ」にあれだけ迷惑をかけた矢作に対し、房子は矢作に退職金を渡して、自分の失敗経験等から、「大切な人のためならいくらでもやり直せる」と矢作を諭す。そして元妻・佳代が現れて、矢作に自分と復縁することと、もう一度料理人になることを説得する。矢作は房子に謝罪し、佳代との復縁と「ちむどんどん」の料理人になることを受け入れる。

 「ちむどんどん」の暢子に拾われた立場の矢作だが、店長の暢子に対しては、「アッラ・フォンターナ」にいた時のように、厳しい口調で苦言を呈しながらも、暢子のことを支えていた。「おかえりモネ」の菅波先生の様に、ヒロインに対し、きつい口調で接するが、実は支えているツンデレぶりが、「俺たちの矢作」とネットで言われていた所以だと思われるが、矢作のこれまでの経緯を鑑みれば、矢作の方が暢子に大きく救われ、支えられていたのである。
 その後、「ちむどんどん」が営業不振で一時休業する時も、矢作は退職せずにメニューの改良に尽力した。また売上金を盗んだ疑惑が自分にかかった時、最後まで自分のことを信じてくれた暢子に感謝した。そして、最終的に暢子が故郷の沖縄に家族揃って移住する時に、「ちむどんどん」を引き継ぐ形で、矢作は自分の店をもつという夢を叶えたのである。

 矢作と房子・暢子のエピソードは、沖縄に縁のある二人が、失敗した矢作を見捨てずに包摂した事例であり、先に紹介した「一億総活躍社会」の定義の中にある「一度失敗を経験した方も、あらゆる場で活躍できること」という要件に通じている。
 矢作は料理の腕はあるとはいえ、口が悪く、職場の雰囲気を悪くしがちなのに加え、前科持ちの人間である。こうした人材を採用するのは、普通であれば、相当勇気がいることだろう。言い換えれば、矢作のエピソードを通じて、このような人を採用し、職場に包摂できるかどうかを、視聴者に問うているのである。

猪野養豚場とニーニーと我那覇

 ここまで「ちむどんどん」に登場する「包摂する沖縄コミュニティ」の様々な事例を紹介してきた。しかし「ちむどんどん」には、沖縄以外の包摂するコミュニティも出てきた。もちろん、猪野養豚場の寛大・清恵の父娘である。そして包摂されたのは「ちむどんどん」で一番物議を醸した問題児、ニーニーこと比嘉賢秀である。

 賢秀と猪野養豚場の出会いは、第35話、良子と博夫の結婚披露宴に賢秀が出席できないことを詫びる、良子への手紙を朗読するシーンからはじまる。賢秀が千葉の養豚場をブラリと訪れた時に、寛大が声をかけ、そこから賢秀は養豚場での仕事をはじめる。しかしその当時の賢秀は、家族を助けたいがため、養豚場の仕事よりも一攫千金を狙える「ビッグ・ビジネス」を夢見ており、ほどなく、養豚場からは給料を前借りしトンズラ。詐欺師・我那覇と再会し、「紅茶豆腐」販売という「グレイトなビジネス」をはじめる。しかし、我那覇は売上金を持ち逃げして失踪。賢秀はまたしても騙され、猪野養豚場に出戻る。
 以降、賢秀は何度も養豚場を辞めては、ギャンブルで金を擦り、怪しげなビジネスで失敗したりしては、養豚場に出戻るパターンを繰り返した。そのうち親父さんも慣れてきて、「また辞めるの?」「バカだねぇ」と呆れながらも、賢秀のことを受け入れていた。
 個人的には、「男はつらいよ」のパロディもかなり取り入れた、賢秀と養豚場親子は、「ちむどんどん」の中でも一番大好きな登場人物である。

 それにしても、なぜ親父さんは賢秀のことを受け入れていたのだろうか。男手が足りないとか、離婚した一人娘の清恵の婿にきてもらって、養豚場を継いでもらいたいという思惑もあっただろう。
 しかし、一番の大きな理由は、賢秀が養豚の仕事のスキルがあると認めていたからである。親父さんは、賢秀が昔から豚の世話をしているので養豚の知識があると見抜いたし、また豚のお産の場面で、清恵と共に、懸命に働く姿も見ていた。だから何度辞めても受け入れたのである。
 そして、賢秀と養豚場のエピソードは、矢作のエピソードと同様に、賢秀のような存在を職場に包摂できるかどうか、視聴者の度量を試していたとも考えられる。

 視聴者から見ると、賢秀は相当イライラさせる存在である。多くの視聴者が、「なぜ母親の優子はあんなに賢秀を甘やかすのか」「養豚場の親父さんはお人好しすぎる」等とよく言われていた。そのような気持ちになるのはよく分かる。
 それでは、仮に賢秀が比嘉家からも猪野養豚場からも包摂されずに、ずっと疎外されていたら、どうなっていたのだろうか。その「if」が、詐欺師・我那覇とのエピソードである。我那覇と賢秀のエピソードには、大きく二つの意味が込められていたと考える。

 一つは、相互扶助の精神のデメリット、脆弱性のようなものである。既に述べてきた通り、沖縄には「ゆいまーる」と呼ばれる相互扶助の精神があるが、その相互扶助の精神が悪用されると、賢秀のエピソードにもでてきた、ネットワークビジネス等の被害につながるのである。
 実際に、沖縄県では、ネットワークビジネスの被害が多い。制作側の意図としては、相互扶助の沖縄コミュニティが、良い面ばかりの理想的な社会というわけではなく、こうした負の側面もあるということを伝えたかったのだろう。

 もう一つは、反社会的ともいえるような組織には、どういう人たちがどういう経緯で属していくのかを描いていたようにも思う。
 「ちむどんどん」には、暴力団やネットワークビジネスのような反社会的と思われる組織が出てきたが、こうした組織に「ぜひ就職させて下さい」と言って入っていくような人はいない。では、どういう人たちがどういう経緯で、こうした組織に入るのだろうか。
 「ちむどんどん」では、幼少期の比嘉家は、貧乏を理由にひどいイジメを受けていた。賢秀は、母親と姉妹を守りたいがために、喧嘩やボクシングのスキルを上げたのだろう。しかし、喧嘩にあけくれて高校は中退。ろくな教育を受けていないので、お金をくすねる時は毎回、「部(「倍」の誤り)にして返す」という置き手紙を残していくように、基礎的な学力や社会常識が足りない。貧乏ゆえに一攫千金を夢見ているが、学力不足や常識不足で普通の会社にはどこにも相手にされず、流れ着いた先が、詐欺師・我那覇が所属するような怪しげな組織なのである。
 要は、こうした組織に属する人たちは、本人としては懸命に生きてきたにも関わらず、「貧困→教育不足→就職できず」という負の連鎖が続き、最終的に反社会的な組織に包摂されたということである。「ちむどんどん」は、賢秀と我那覇のエピソードを通じ、社会的排除の結果として、反社会的組織に属する人たちが発生することを暗示し、そして、社会的排除の連鎖で生じる結果を、視聴者にも考えてほしいと意図していたのではないかと考えられる。

 ところで、個人的には「反社会的組織にしか包摂されない人たち」を描く、沖縄ヤクザを絡めたストーリーもやってくれないかなとも思っていた。というのも、ライターの鈴木智彦氏の「沖縄ヤクザのちむどんどん」の記事を面白く読んでいたからだ。

 しかし、さすがに朝ドラの枠で、そこまで攻めることはできなかったのだろう。仮にやったら、「NHKは反社組織を肯定する朝ドラを作るのか!」といったクレームが殺到しそうな気もする。ということで、「ちむどんどん」スピンオフは、夜ドラあたりの放送枠で「賢秀&我那覇の反社組織にしか包摂されなかった人たちのストーリー」をお願いしたい。
 
 賢秀については、ネットワークビジネスで200万を失った後には改心し、養豚場の仕事にも真面目に取り組むようになる。詐欺とはいえ、営業トークのスキルが上がったのだろう。親父さんに養豚場の営業担当も任されるようになる。
 そして、養豚場親子に包摂され続けてきた賢秀が、今度は逆に、元夫とのトラブルで養豚場を飛び出した清恵を包摂する側に回る。
 第113話での、竜星涼が演じる賢秀と佐津川愛美が演じるリリーこと清恵の会話シーンは、二人の迫真の演技力に圧倒されたし、個人的には「ちむどんどん」で一番感動的なシーンだった。

グッドバイを歌うわけ?

 賢秀については、母・優子をはじめとする比嘉家の家族や、猪野養豚場の親子に包摂され続けた結果、最終的には反社会的な組織に居続けることなく、養豚場の仕事で成功し、最終回までに借金を「倍返し」することができた。「ちむどんどん」で、暢子以上にインパクトを残した存在である賢秀はもう一人の主役であったと思う。

おわりに

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 以上「ちむどんどん」のテーマと考えられる「包摂する沖縄のコミュニティ」について、そのことが現れているシーンを例にとって解説した。
 
ここまでで挙げた例以外にも、包摂する沖縄コミュニティの事例はあるだろう。最終週の暢子の「やんばるちむどんどん」開店のエピソードも、沖縄のおばぁ達に、沖縄料理の知識を教えてもらうシーンや、製麺のトラブルの手伝いを頼んだシーン等で、高齢者に役割を与えて互いに支え合う、包摂する沖縄のコミュニティの事例がみてとれた。
 今まで、「ちむどんどん」にモヤモヤとしていた人たちが、「ちむどんどん」に底流する「社会的包摂」というテーマを理解し、少しでもスッキリとしたならば幸いである。

 「ちむどんどん」は、脚本家・羽原大介の筆力なくしては、成り立たなかった朝ドラだろう。「マッサン」の時にも感じたが、羽原大介が描く物語の登場人物には、「かっこ悪いけど熱くて魅力的な男たち」が多い。
 
そして、比嘉賢秀役の竜星涼、砂川智役の前田公輝、矢作役の井之脇海が優れた演技力で、こうした男たちの魅力を体現してくれたと思う。

 黒島結菜に関しては「作品に恵まれなかった、かわいそう」といった感想も見かけた。はっきり言って、的外れで失礼な言い草である。
 「ちむどんどん」は、紛れもなく、黒島結菜の代表作であり、そして黒島結菜以外に「ちむどんどん」のヒロイン・暢子は考えられなかった。それは沖縄出身だけが理由ではない。
 黒島「結菜」の名前を構成するのは、
「結」→ 沖縄コミュニティ=ゆいまーるの原点である「結(ゆい)」
「菜」→ 料理人に必須の、食材としての野「菜」

である。
 まさに「ちむどんどん」のテーマにふさわしい名前である。脚本家の羽原大介も、かなり「当て書き」して、黒島結菜という女優の魅力を引き出したと思う。

 正直にいうと、わたしも「ちむどんどん」は、最初はどういうテーマを扱っているのか分からず、モヤモヤしながら見ていた。Twitterでのアンチタグの書き込みを見ると、エコーチェンバー効果で闇落ちするので、それらはミュートし、テーマが分かるまで、「黒島結菜かわいい」「まさかやー!」「あいやー!」とひたすらヒロインを愛でていた
 そうやって見ているうちに「ゆいまーる」や「社会的包摂」という、このドラマのテーマに関連することがドカッと頭の中に入ってきた。それからは結構面白く見れるようになってきたので、「テーマが分かってくるまでは、ひたすらヒロインを愛でる」というのは、朝ドラ視聴ハックとして推奨しておきたい。
 ちなみに、2023年放送予定の「らんまん」のヒロインは浜辺美波なので、このハックは次のAK朝ドラでも十分通用するはずだ。テーマが分かってくるまでは、「浜辺美波かわいい」「君の膵臓をたべたい」とヒロインを愛でながら視聴することをおすすめしたい。

 最後に「#ちむどんどん反省会」等のアンチタグを取り上げるネットメディアに一言物申したい。
 これからも、Twitter等で朝ドラのアンチタグが作られてしまうのはやむを得ない。逆に棲み分けにもなるので、むしろ朝ドラのアンチタグは今後も作られてほしい。こちらとしてはミュートするだけだ。
 しかし、ネットメディアがこぞって朝ドラアンチタグの投稿を書き写し、PV稼ぎの低レベルなコタツ記事を書きまくるのは、いかがなものだろうか。 
 ここで、「おかえりモネ」のテレビガイドに掲載されていた、チーフ演出の一木正恵氏の言葉を引用したい。

 今、『わからないこと』は罪であるかのごとく、シンプルなものが求められる。しかし分からないことを受け止め、想像力を広げる力を物語の受け手は持っています。私は、この物語でもう一度強く、受け手の皆様の知性や想像力を信じて創るつもりです。

「連続テレビ小説 おかえりモネ Part1 NHKドラマ・ガイド」

 「ちむどんどん」は、この記事で考察してきた通り、一貫したテーマがあり、「包摂する沖縄コミュニティ」のエピソードが繰り返し描かれてきた。しかし、そうしたテーマが「わかりにくい」ドラマだったのだろう。ネットの記事では、「沖縄っぽいものを放り込んだだけの、ドタバタ劇ホームドラマ」といった的外れな論評があったが、朝ドラ評論をして金をもらっているライターですら、「ちむどんどん」に対しては、テーマの理解が不足していて、ほぼ壊滅状態だった。
 そのため「わかりにくい」=「作品が悪い」と不当に断罪され、ネットのメディアも、知性も想像力も発揮できないアンチの罵詈雑言を記事にするしかなかったのではないかと思われる。はっきり言って、そんな便所の落書きレベルの記事しか書けないならば、筆を折ったほうが良い。

 単純な「わかりやすい」ドラマなんて、面白くもなんともない。逆に、「わからない」シーンやエピソードがあるからこそ、何だったのかと色々と考えを巡らせることができるし、それこそがドラマを見る楽しみである。
 朝ドラ評論しているライターには、視聴者の知性や想像力を発揮させることを助けるような記事を書いて頂きたい。もちろん、厳しく批判する記事を書いても構わないが、その際にも、ドラマ制作陣に対するリスペクトを忘れてはいけないと思う。

 「ちむどんどん」については、ネットメディアの記事よりも、ツイッターの #ちむどんどんする タグに投稿される、多くの人たちの深い考察の方が、それこそ「ゆいまーる」「相互扶助」の精神のように、ドラマへの理解の助けになっていたように思う。 #ちむどんどんする  タグ住民の皆様には本当に感謝したい。

 最後に、「AK制作陣はダメ、BK制作陣は素晴らしい」という論調も実に下らないと思う。その逆も同じである。そんなバカみたいな対抗意識を東阪NHKのドラマ制作陣が持っているはずもない。
 ちなみに、ここ10年位の朝ドラの中で、私が一番好きな朝ドラは、2021年放送、BK制作の「カムカムエヴリバディ」である。「カムカム」に関しては、2013年放送の「あまちゃん」と比較した、下記の考察記事(約24000字)を書いた。ぜひお読みいただければ幸いである。

 また、「ちむどんどん」の次の朝ドラである「舞いあがれ!」について、2018年放送の「半分、青い。」と比較した考察記事(前・後編合わせて約35000文字)も書いた。こちらもぜひお読みいただければと思う。長いけれど、読み応えはあると自負している。


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