人間考察

趣味は人間観察、と言う人がいる。私の場合は単なる観察には飽き足らず、様々な人と出会う中で、その人がどうしてそのような言動をとるのか?そのような言動に至る背景にはなにがあるのか?そのような言動をする人間はこれまでどんな人生を歩んできたのか?これからどんな人生を歩むのか?といったことに思いを巡らすことにある種の喜びを感じる。それはいわば、人間観察ならぬ「人間考察」である。

人間考察はお世辞にもいい趣味とは言い難いが、私の人間好きは今に始まったことではない。小さい頃はむしろ人間の自然科学的構造に関心があり、「人体のふしぎ」といったような図鑑やまんがを毎日のように眺めていた。人間が人間を作るメカニズムに興味があったし、エイリアンハンド症候群や幻肢痛などの疾病が小学生の自分に印象深かったことは今でも覚えている。骨や臓器などの人間の仕組みに始まり、病気や障害や死についても、子供にありがちな恐怖の対象としてではなく、単なる好奇心からいろいろと読み漁っていた。それと同時に、物心つく以前から絵を描いてもいたが、その絵というのも風景や動物や植物ではなく、ひたすらに人間ばかり描いていた(今もそうであるが)。電車やぬいぐるみや架空のキャラクターといったものには特に思い入れはなかったようである。今思えば、人間が作ったものではなく、人間そのものに興味があったということなのかもしれない。とにかく、私はそういう筋金入りの人間好きの子供だった。

もう少し大きくなると、次第に心理学的な人間像に関心を持ちだす。心理学のいろいろな法則などに興味を抱いていた。ジャネーの法則だの、ジェームズ・ランゲ説だの、ブーメラン効果だの、なかにはデタラメなものもあったろうが、少しずつ人間の内面に目を向けていく。他にはいろいろな思考実験やパラドックスなどもインターネットで調べるようになる。オープンキャンパスには心理学科を見学しに行った。しかし実際いよいよ大学を決めるとなった時、これは思い返すたびに不思議なのだが、自分の中ではすっかり「文学部哲学科に行く」と決め込んでいた(哲学書どころか、ろくに本も読んでこなかったくせにである!)。おかげで特に進路に迷うということもなくすんなりと進学し、今では哲学専攻の大学院生である。といっても哲学書ばかり読み込んでいるわけではなく(なんなら本業はサボりつつ)、歴史、文学、悲劇、人類学など、いろいろな本を読んで過ごしている。それでもやはり私は哲学に居心地のよさを感じるのである。

不思議とは言ったものの、こうして自分の人生行路を改めて振り返れば、私が哲学に行きついたのもそう不思議なことではないのかもしれない。要するに、私は根っからの人間好きなのである。それが「人体」という観察可能なものから始まり、徐々に「哲学」という内面に入り込んでいっただけのことである。そういう意味ではきわめて一貫している。ある人がロボットや車が好きなように、ある人がアイドルやゲームが好きなように、私は人間が好きなのである。人間といっても、人間にまつわること、人間という形態が好きなのである。確かにその中には自分の実人生で出会う様々な人も含まれているし、自分自身だって例外ではない。人間が好きと言っても、個人的に好きな人もいれば嫌いな人ももちろんいる。そしてここで人間考察好きの血が騒ぐのだが、好きな人や仲の良い人よりもむしろ嫌いな人間や不愉快な人間と出会った時、「なぜこの人はこうも不快なのか」、「この支離滅裂な言動には一貫性があるのだろうか」など考えてしまうのである。これにはそれなりにメリットがあって、モヤモヤとした違和感や不快感を言語化することによって、ある程度の冷静さを取り戻すことができるのである。その人の性格の傾向を把握すれば、こういえばああ返ってくるなと心の準備もできるし、予想外のリアクションがあったときはそれはそれでさらなる考察がはかどり面白い。人間考察は、今流行りのアンガーマネジメントの一種ということになるのだろうか。

そう考えると、私は今のところ人生のほとんどを「人間考察」に捧げているといえるのかもしれない。少なくとも、一人の思想家だろうが、人類全体であろうが、人間を愛さないところに哲学はないと思うのである。


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