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弘川寺再び「境内編」

前回記事では、西行終焉之地であり、西行墳墓のある弘川寺を再び訪ね、その裏山(桜山)にも登り、散り始めの桜を愛でました。

今回記事は、弘川寺「境内編」として、石と花と木と水とお堂…などをご紹介します。写真おおめです。

弘川寺境内
清水が勢いよく流れていました。
葛城山の西麓にある弘川寺。山から出る水量が、そこそこあるようです。またそういう場所にお寺や神社がありますね。
弘川の里。


なぜ弘川寺?
なぜ西行?
なぜ黒田杏子先生?
これらのつながりは?

平成の初め頃のエピソードです。当時、私は東京生活をしておりました。

桜花巡礼を続けておられた黒田先生の俳句会で、西鶴研究者として本邦第一人者であり、また俳人でもあった暉峻康隆氏の講演会がありました。内容は西行の歌集『山家集(さんかしゅう)』を中心としたお話でした。

後日、俳句誌に載せるため、講演の録音テープ起こし役のご指名がありました。怖い物知らずの若さから、お受けしましたものの、実際作業に入りますと、なんの文学素養もない自分(私は土木技術者です)を思い知り、ほんとうに苦労しました。

結果、間違いだらけ(空白)の原稿になってしまいました。それをまた査読修正加筆していただいたのが、黒田先生を師系として去年発足した俳句結社「青麗」の高田正子主宰でした。(私は『青麗』発足と同時に入会した。)

西行と黒田先生は、歌と句の違いがありますが、同じ詩心で愛でる「桜」で繋がっているのは言わずもがなです。さらに、私の中では、西行『山家集』テープ起こしという艱難辛苦の実体験を通じてもつながり深いのです。

畏れ多いことですが、暉峻康隆氏の発することばを文字化しているうちに、氏の存在が身近に思えてきたりした記憶も、うっすらと残っていたりします。

以上、私が毎年、桜咲く弘川寺を訪ねたいと思う事情です。


おしまい

2024.4.7
(投句 2024.4.10)