高坂正澄
はじめての車中泊の旅は、紀伊半島を縦断し、南紀の海を見に行きました。本州最南端の串本・潮岬など。
大衆食堂のランチ紹介が多いです。食べることは生きること。
日常の記録とエッセイ。
飛鳥地方を除く大和紀行。
黒田杏子最終句集『八月』を鑑賞します。そのほか数多の黒田杏子句集から一句を鑑賞します。 また黒田杏子に纏わるいろいろ。
前回「サラメシカツ」投稿からおよそ一ヶ月が経ってしまった。年度末年度初めはバタバタで、あれこれしているうちに日にちが過ぎた。 短時間の外食(ランチ)が多くなり、同じような食べ物に偏ってもいる。 なのでこれは食レポというより、自分用の記録。この一ヶ月のランチ、こんなんだったかなと。 1 カレースパゲッティ トッピングはコロッケ。野菜サラダつけて650円に感謝。 2 カレーライス 連日のカレーですが、今日はライスだから別(笑) トッピングはチーズ。辛さは、いつもの「3」
ワタシの故郷は、瀬戸内海にほど近い内陸部(本州)です。しかし、もうそこには、両親もきょうだいも、そして実家もありません。 こんなシトシト雨の降る昼下がり、家人が買物に出かけてしまい、ネコも飼っていないから、静かすぎるわが家に一人いますと、ふいにふるさのことが懐かしく思い浮かぶのでした。 (写真は撮りたての明日香村) 2024.4.27
黒田杏子先生の句碑があるというので、高野山無量光院を訪ねてまいりました。 黒田先生の句碑が、高野山に建立されていることは、これまでの認識として、知っていたような…知らなかったような… というのは、私は黒田俳句会(「藍生(あおい)」を仕事の多忙を理由に脱会して久しく、爾来注意深く情報をとっていなかったからです。 本来なら、報恩の気持ちと高野山近在に住することをもって(その時は会員ではありませんでしたが)、高野山句碑建立に際し、なにがしか尽力すべき身だったかもしれません。
奥辺路(おくへち)の護摩壇山(ごまだんざん)は、和歌山県で2番目に高い山。山頂の標高は1372mです。 (注:見出し写真にある「1369m」は頂上から若干ズレている) 和歌山県で1番は1382mの龍神岳で、護摩壇山より10m高い。この龍神岳と護摩壇山は700mほど離れて隣り合っており、尾根道で往き来できるようだ。 そもそも、護摩壇山という山名は、平家の武将・平維盛(たいらのこれもり)が龍神村に落ち延びしとき、この山で護摩(井桁の形に木を積んだもの)を焚き、平家の運命を占っ
平家落人伝説は、全国各地にあるようです。 屈曲の多い長い海岸線の入江や岬、離れ島、けわしい山地の谷あいなどに、平家の落人が開発したという言い伝えをもつ集落は、平家にゆかりの深い九州や四国はもちろん、近畿、中部、関東から東北にまでおよんでいて、全国で100をこえると推定されている。(人物探訪日本の歴史3「平家と源氏」暁教育図書より) ここ、奈良県野迫川村も、そんな平家落人伝説をもつ集落の一つです。 野迫川村は、高野山から熊野本宮に至る熊野参詣道小辺路(こへち)沿いの、けわ
2024.4.20
麗らに晴れた日の午前。 チューリップフェアに行きました。 チューリップのエリアを抜け、里山エリアを散策していましたら、、、 おっ、野鳥がいました。 ツグミでしょうか。 こちらは、シロハラでしょうか? スマートなんで、まだ若いのかな? 里山の高木てっぺんに鳴くのは、ホオジロ? あーあ、半日が過ぎてゆく。有為転変世の習ひ、、、 ほんとうは、今日中に片付けたい案件があって、お尻がフェスタ(笑) 2024.4.13
「いい仕事してますねえ」(鑑定団風に笑) コンクリートをあらためて見ました。川砂利が露出しています。あばたもエクボではありませんが、それは堅実なコンクリートの証拠なんだと思います。また、やっぱり地球の重力に従順な方が良いと思いました。津風呂ダムはおんとし63歳のようですが(1961完成)まだまだ大丈夫そうでした。 津風呂ダム 奈良県吉野町 直線重力式コンクリートダム 堤高 54.3m 堤長 240.0m 総貯水量 25,650,000m3 有効貯水量 2
ほとんど散ってしまった。どこもかしこも。もう葉桜だ。 …と思っていたら、湖の対岸の一角に、今が盛りのようなしだれ桜がいっぽん。 誘われるように近づいて桜の下に佇んだ。 明るいしだれに包まれると、この世とは思えない。 幻覚? ぶるっと震えて、とっとと帰らにゃ。 2024.4.11
前回記事では、西行終焉之地であり、西行墳墓のある弘川寺を再び訪ね、その裏山(桜山)にも登り、散り始めの桜を愛でました。 今回記事は、弘川寺「境内編」として、石と花と木と水とお堂…などをご紹介します。写真おおめです。 なぜ弘川寺? なぜ西行? なぜ黒田杏子先生? これらのつながりは? 平成の初め頃のエピソードです。当時、私は東京生活をしておりました。 桜花巡礼を続けておられた黒田先生の俳句会で、西鶴研究者として本邦第一人者であり、また俳人でもあった暉峻康隆氏の講演会があ
弘川寺(ひろかわでら)は、西行終焉之地です。 願はくば花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ 去年も来ました。3月30日です。 今年は4月7日です。 そして今年また、弘川寺の裏山・桜山まで登ってきました。 一年前のnoteは、今も未完です。 2024.4.7 (投稿2024.4.9)
ここ「すさみ南インター」から紀勢道路(高速道路)に乗り、帰ります。大阪までは阪和自動車道も使って、一本道3時間ぐらいです。 私が乗っている車は、スーパーハイトワゴンの軽四ですが、運転支援装置(プロパイロット)が装備されているので、高速道路走行は楽ちんです。これがあるとないとではまったく疲れ方が違います。 今回の車中泊実験の旅も、あとは安全運転で帰るだけ、という段階に来たのですが、しかし連日のインスタントラーメンとお菓子ばかりに飽き飽きしており、ここはひとつ、何か普通の地の
樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、太平洋を望む紀伊大島(和歌山県串本町)の東端にある。 江戸時代の紀伊大島は、江戸-大阪航路の風待ち港・避難港として多くの菱垣回船・樽廻船が寄港したという。(「和歌山県の歴史三歩」山川出版) 樫野埼灯台 日本最初の様式石造り灯台で、対岸の古座川周辺にある「宇津木石(うつきいし)」が用いられている。 宇津木石は、マグマからできた石の中では比較的やわらかい石で加工しやすく、この地方では古くから建築用石材として広く利用されてきた。灯台旧官舎や周
カルガモちゃんが木の枝に… ワレ関せずの図。
「果無(はてなし)」とは、まことロマン溢れる、そして寂寥感漂わせる地名だと思うのです。 ワタクシの「果無」への憧憬は、宇江敏勝氏の著書によって増幅されたと思うのです。 宇江敏勝氏のプロフィール 「1937年、三重県尾鷲市に生まれる。和歌山県立熊野高校を卒業後、紀伊半島の山中で林業に従事するかたわら、文学を学ぶ。現在、エッセイスト・林業」(宇江敏勝著「山びとの動物誌 紀州・果無山脈の春秋」新宿書房 奥付より) 同人誌に参加されていて、そこに近しみを感じたこともあり、かつて
海金剛(うみこんごう)は、紀伊大島の東端・樫野埼灯台に真向こう絶景の荒々しい海岸です。 串本側から紀伊大島へは、平成11年(25年前)に立派なアーチ・ループ橋が完成して、車で往き来できるようになりました。大島にある樫野埼灯台や海金剛などへも、船に乗らずに容易に足を運ぶことができます。 かねてよりジオパーク(「大地の公園」)に関心を持ってきました。46地域ある日本ジオパークのうち、もっとも身近なジオパークは、南紀熊野ジオパークです。それで南紀熊野をフィールドに地質を遊んでや