花のカメラマン 土屋 忠紀

私はイザベラ・バード女史のたどった道を一つずつ現在残っている資料で解明したいと思って …

花のカメラマン 土屋 忠紀

私はイザベラ・バード女史のたどった道を一つずつ現在残っている資料で解明したいと思って います。 有珠会所駅逓の図面等、礼文華峠の電信線路図面、また人力車の資料等があれば連絡下さい。 昭和18年生まれ北海道室蘭市在住、娘が投稿の代行をしています。

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図書館には北海道大学付属図書館や北海道立文書館などいろんな図書館があり、私は現場労働者出の歴史にはズブの素人だから怖いもの知らずで、司書さん学芸員さんらに聞いて回った。 「伊達の風土」という冊子に出会い有珠の近所の人で「有珠は何も歴史が残っていない」となげいているのを知り、札幌にいるあいだできるだけ資料を集めようと思った。 熊のことを書いた本、アイヌ人の人々からの聞取り本など手当たり次第に見た。 昔近所にいた人、知っていそうな人に電話や訪ねて聞いた。 「オマエ来るのが 1

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      昭和 24 年、私は 6 才だった。私の住んでいた善光寺の東門の道ぞいに 13 軒の家があり私の家の右隣は母の妹の海軍兵学校夫妻で隣は口を染めたアイヌ人の婆さんがいた。 左隣は室蘭の栗林の船長さんで、そして斜め前には、いつも犬の毛皮のそでなしを着たデップリと肥えたアイヌ人がいた。外出は馬にまたがり、時には古い村田銃を背にすることもあった。 だれもがサンケオドと呼んでいた。もう一人同じ体形の「耳タロウ」がいた。子供に会うと「耳食うぞ」と本当に耳に食いついた。 どの子も「耳タ

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