スタニスワフ・レム『天の声』と郵便的脱構築

スタニスワフ・レムの『天の声』(サンリオSF文庫)は、宇宙からメッセージが届き、この信号にはある種の規則性が認められたため、それを解読する「天の声計画」が立てられるという物語である。メッセージの一部を解読した結果、コロイド状の「蛙の卵」と「蝿の王」がつくれる情報が含まれていることがわかるが、最先端の数学・情報科学・物理学等を駆使しても、メッセージの全容は判らないというものである。
ところで、東浩紀氏の『存在論的、郵便的~ジャック・デリダについて』(新潮社)は、ポスト構造主義を二つに分類し、「存在論的脱構築」と「郵便的脱構築」に分け、前者を否定神学的と批判している。「存在論的脱構築」とは、後期ハイデッガー(『存在と時間』を書いた後、かれは「時間と存在」を書こうとして、そのために言語哲学に向う。ヘルダーリンの詩が重視され、<住む>ということが重視される。)によって成し遂げられた脱構築であり、「郵便的脱構築」は『絵はがき』で成し遂げられたジャック・デリダによる脱構築である。この分類からすると、ドゥルーズについても『差異と反復』(河出書房新社)や『意味の論理学』(法政大学出版局)は、「存在論的脱構築」となり、ガタリとの共同作業による『ミル・プラトー』で「郵便的脱構築」となったとされる。
ところで「郵便的脱構築」とはなにか。それはさまざまなメッセージが発信されるが、それがすべて正しく相手側に受け取られるとは看做さないということである。誤配の可能性もあれば、受取拒否の可能性もあり、さらには誤読の可能性もある。ここでは、認識論上の普遍主義は拒否されている。
ところで、『天の声』もまた、認識論上の普遍主義を批判する小説であることに注目しよう。宇宙からのメッセージから、物語の登場人物たちは「蛙の卵」や「蝿の王」をつくりだす方法を読み取るが、それすら誤読の可能性すらあるのだ。ましてや、メッセージの全容が知れるという保証はないし、メッセージが地球に誤配された可能性すら捨てきれないのだ。(送信者が、人
類より進化した存在、もしくは超越者であるかもしれないという問題もある。)
こうしてレムの想像力は、現代思想の最先端と交錯を始める。もしも、メッセージが常に正しく伝えられるならば、サルトルが『文学とはなにか』で示したようなアンガージュマンのための文学(これはスターリン主義的な言語論を前提にしている。文学を伝達の手段と看做す考え方である。無論、サルトル自身は「飢えた子供の前」での文学の無効性を自覚しながらも、書くことを止めることなどできはしなかったのだが。)は可能になる。だが、メッセージが常に正しく伝えられるという保証がないならば、創造的誤読によるテクストの多様な読み取りの可能性に言及したロラン・バルトの『テクストの快楽』(みすず書房)が勝利することになる。

(初出 薔薇十字制作室BBS 投稿日: 8月22日(金)09時11分12秒)

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