ミシェル・フーコー、敵か、味方か

ミシェル・フーコーの発想の原点は、自身が同性愛者であり、マイノリティーであることの自覚と、フリードリヒ・ニーチェの読解からの一解釈にあると思う。

『言葉と物』は、(1)ニーチェの「神は死んだ」に続く「人間の死」の予告をした挑発的な言説、反人間中心主義、(2)レヴィ=ストロース『親族の基本構造』『野生の思考』、ロラン・バルト『零度のエクリチュール』、ルイ・アルチュセール『甦るマルクス(原題 マルクスのために)』『資本論を読む』、ジャック・ラカン『エクリ』と相まって構造主義ブームを引き起こし、実存主義から構造主義へのバラダイム・シフトを引き起こした事、(3)通時態を重視する歴史主義であるマルクス主義に対して、歴史の流れは現在から過去に向けて考古学的に遡行することで出来上がるもので、実際は人間の考え方を規定しているエピステーメーが地層のように積み重なっており、共時態的結びつきの方が強く、通時的に見ると地層のように連続していないと観る反歴史主義で話題となった。これは、動脈硬化に陥ったマルクス主義を、主体主義・人間中心主義的な集団的実践作用(プラクシス)によって改善していこうとすするジャン・ポール・サルトルの十存主義的マルクス主義の理論書『弁証法的理性批判』への反措定でもあり、サルトルは構造主義の台頭を、ブルジョワジーが用意したマルクス主義への最後の砦であると批判することになった。これには、幾つかの誤解がある。(1)について言えば、歴史的に消えていくのは、人文諸科学に現れた概念としての人間であり、具体的な生きている人間が否定されているわけではないこと、後のジル・ドゥルーズ『フーコー』が解き明かしているように、「人間の死」の後に「超人」が来るというニーチェ的発想が背景にあること、(2)について言えば、フーコーはエピステーメーはあっても、構造概念を使っておらず、構造なき構造主義者と云われたこともあること、後の『監獄の誕生』以降、欲望をコントロールする構造より動的な装置という言葉が出て来て、これはドゥルーズ=ガタリの欲望する諸機械と対応していること、真正の構造主義と呼べるのは、レヴィ=ストロースだけで、精神分析学のラカンは、精神構造に関してかなり動的な捉え方をしているし、ロラン・バルトは『S/Z』のような構造主義的読解から、次第に『テクストの快楽』のような、ポスト構造主義的な自由なテクストの読解を基底に据えるようになったし、アルチュセールは構造論的な資本主義の理解をしたものの、マルクス主義の立場から、最初から構造主義を知の組み合わせイデオロギーとして批判していた、(3)について言えば、『言葉と物』と『知の考古学』を合わせて考えると、フーコーの反歴史主義は、『道徳の系譜学』『善悪の彼岸』のニーチェから導かれたもので、歴史を不連続とする立場から、人間による実践の効能に対して否定的だったが、『監獄の誕生』あたりから、フーコー自身、GIP(監獄情報グループ)の実践活動に関与するようになり、歴史への介入を模索するようになり、晩年のサルトルとも共闘するようになった。

初期のフーコーは、ビンスワンガー『夢と実存』の序論を書いたり、『精神疾患とパーソナリティ』『狂気の歴史』『精神疾患と心理学』『臨床医学の誕生』を書いたりして、現存在分析(ハイデッガーの現象学的存在論に依拠した心理分析)や心理学に近いところにして、次第に精神医学による狂気の囲い込みの研究に向かう。こうした傾向は、彼自身の同性愛傾向から来る精神的不安や、社会的に排除されたり、精神病院に拘禁されるのではないかという神経症的な怖れが背景にあり、次第に権力論に向かったと考えられる。ディディエ ・エリボン『ミシェル・フーコー伝』は、フーコーの同性愛傾向から来る精神的不安定と、時折、自殺の誘惑がかすめることが、学問のはじまりにあった事を解明している。現在、フーコーがチュニジアで児童買春を行ったという同性愛的ペドフィリアと児童虐待の問題が話題になっているし、晩年はSMと結びついたハードゲイ的傾向から、「生存の美学」に言及するようになったフーコーだが、エイズウイルスに罹患して命を落としており、この同性愛的傾向は、彼の学問の契機になると同時に、致命的問題行動の原因ともなっている。

フーコーの最後の局面は『性の歴史』である。最初の第一巻『知への意志』は、単純な欲望の鍋蓋理論、例えばヴィルヘルム・ライヒは性の抑圧を、全体主義体制の基盤と観る、を指定し、権力装置は欲望を整流化し、コントロールすることで、巧みに欲望をエクスプロイットしていると見做す見解を示している。この事は、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』の理論とも整合性があり、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、欲望の制御から成るフーコー的権力論を、家族の三角形に適用して、人間工場としての家族を通過して模範的資本主義人間になる(パパ、ママ、ぼくからなるオイディプス型三角形において、ぼくがママの愛を勝ち取るためにパパを追い抜こうとして勉強をして、やがて資本主義的競争社会のなかに入っていき、社会のリプロダクトが完成する)として、家族の機能を解明している。と同時に、ドゥルーズ=ガタリとはそぐわない点もある。それは、フーコーの新カント主義的傾向であり、『性の歴史』の後半『自己への配慮』、或いは『自己のテクノロジー』によって顕著となるであろう。そこでは、自己自身が自己を管理するというストア派的節制が重視され、リビドーの脱コード化を説くエピキュリアン的なドゥルーズ=ガタリや、『リビドー経済』のジャン=フランソワ・リオタールの路線とは異なると考えられる。この背景には、身体拘束に快楽を見出す晩年のフーコーの性的嗜好が関係しているという仮説を提示しておこう。

というわけで、フーコーに関して思う事は、複雑すぎて、Twitterの文字数制限下では表現できそうにない。ここでの記載もまた、まだ不十分である気がする。一見、敵のような気もするが、深い所では正鵠を得ている気がするし、単純な味方ともいえず、味方の理論の基礎になっている一方で、合わない部分もあり、合わない部分もまた、人間の持つ不可解さと繋がっている気がする。最初、タイトルを敵か味方か犯罪者かとしようとしたが、巧みに自国の法をかいくぐっているようだし、かといって被害を受けた児童の心の傷を想えば、断じて許せない人だろうし(注、真偽は確認した、後ほど → これらは悪意のあるデマ・中傷という説が有力になりつつある)、また晩年、エイズを人に感染させているというような声も聴く(真偽は確認していない → これも疑わしい。フーコーは敵が多かったようだ。)。問題行動だけを話題にして、その理論的成果を無視するのも、不誠実だし、フーコーの理論だけ話題にして、問題行動(→ そう報じた外国の新聞等は存在するようだが、物的証拠はなく、信憑性に欠けるようだ。)を無視するのも不誠実に思える。

注 https://www.thetimes.co.uk/article/french-philosopher-michel-foucault-abused-boys-in-tunisia-6t5sj7jvw

注の続き https://english.alaraby.co.uk/english/news/2021/3/28/french-philosopher-michel-foucault-sexually-abused-boys-in-tunisia

注の続き https://www.dailysabah.com/arts/guy-sorman-accuses-michel-foucault-of-abusing-boys-in-tunisia/news

注の続き https://twitter.com/MrAndyNgo/status/1376180594825162753

注の続き https://twitter.com/KyleWOrton/status/1376206122663739392

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