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ぼくが、好きなことを仕事にして暮らすようになったきっかけとは?その3

こんにちは。
とくちゃんです。

「ぼくが、好きなことを仕事にして暮らすようになったきっかけとは?その2」
の続きです。

その1、その2は、こちら。

で、
昨日も書いたように、
瞑想をするようになって、
「認められない」
という強い思いを、一時的にせよ、手放すことができるようになり、
そこから自然と、
変化を感じるようになってきました。

たとえば、
ある現場に入ったときのこと。

そこの現場で、先輩として入られていた方がいて、
その方のサポートを受けつつ、
ぼくが主体で進めるように指示を受け、
プロジェクトに参画しました。

そこで、
進め方について、
「こうしませんか?」
と、提案したところ、
なにか気に入らないことでもあったのか、
それ以来、
その先輩の方が、
ぼくを全く無視して、
勝手に自分一人でプロジェクトを進め始めてしまいました。

意見を言われたことが気に入らなかったのかな?
と思い、
その後もコミュニケーションを取ろうとしますが、
なぜかヘソを曲げられてしまい、
全く口を聞いてくれません。

かと言って、
仕事をしないわけにはいかないので、
「じゃあ、あれをしましょうか、これをしましょうか?」
と、下手に出て、提案しても、
なしのつぶて。

頑固に自分一人で仕事を進めるばかり。

こりゃ、困ったなあ、
と、依頼主の企業の方に相談してみましたが、
「上手くやってくれ」
と言われるばかり。

さすがに、
これはどうしたものか?
と、悩み始めました。

ぼくのなにが悪かったのだろう?
と、悩んだわけです。

でも、
そのときも、ふと、
「そうだ、瞑想してみよう」
と思い立ち、
瞑想してみることにしました。

すると、
悩んでいた状態から、離れて、
フラットな自分に戻ることが
出来ました。

そして、
客観的な目で、振り返ってみて、
ぼくのなにが気に入らなかったのか?
は、分からないけど、
先輩の方の立ち位置は、
もともと、ぼくをサポートする立場だったはず。

それを、なんど働きかけても、意図的に無視して、
勝手に仕事を進めようとするのは、
向こうの問題。

それに対して、
現場でも責任ある人に、きちんと伝えて相談したけれども、
なにも動こうとしない。
これも、相手の問題。

ぼく自身は、
自分の出来ること、強みを生かして、
もっと仕事で貢献したい。

だったら、ここにいくらいても、
無駄だな、
と感じ、
紹介してくれた方にすぐに連絡して、
契約期間まで働いて、
その後はやめさせてもらうことにしました。

それで、
そこで悩んでいたことは、
あっさり終わったのでした。

以前だったら、
「せっかく紹介してもらったのに」
とか、
「ぼくにもなにか落ち度があるのかも」
と、延々と悩んで、
苦しんでいたかもしれません。

でも、
瞑想するようになって、
自分が、フラットな状態になりやすくなり、
かつ、
嫌だな、と思ったら、
やめていいんだな、
と、自然と思えるようになったのですね。


こうして、
瞑想することで、
さまざまな効果も感じるようになり、
瞑想をやっていること自体も、
とても楽しく感じてきました。

なんというか、
考えから離れて、
すっきりする感じが、
とても好きなんですよね。

それで、
もっと本格的に、
瞑想を学んでみたいな、
と思うようになりました。

そのころ、
たまたま、心理系でとても有名な方で、
ITがとても苦手な方がいらっしゃって、
ボランティアでその方のIT面のご相談に乗るお手伝いをしていたことが、
ありました。

その方の奥さんも、
多少面識があったのですが、
最初にお会いしたときと比べて、
あるとき、急にすごく変わられたことを、
感じました。

なんというか、
力が抜けた、
というか。

それで、その奥さんが、
瞑想を学ばれている、
と伺ったのです。

ぜひ、その瞑想の先生を紹介してください!
とお願いし、
ご紹介していただきました。

なんでも、
けっこう有名なヨガの先生方も、
教えてもらっている瞑想の先生とのことでした。

最初、
お弟子さんに、
テスト?のような感じで、
瞑想の基本的なことが出来ているか、
を見てもらい、
問題なかったみたいで、
正式にその先生から、
瞑想を教わることになりました。


瞑想を学ぶ、
というと、
坐禅の修行のように厳しい修行をしたり、
怪しい宗教っぽいことをやったり(?)、
というイメージが、あるかもしれませんが、
ぼくが学んだ先生は、ぜんぜん厳しくはなかったです。

どちらかというと、
常に、
「自分」
をいかにしっかりと見るか、
を強調されていました。

インドのヨガの修行をされていたそうなので、
ヨガの用語を使ったり、
チャクラがどうこう、
みたいな話が出てきたり、
と、まあ、知らない人からすると、
やや怪しい感じの話もありましたが、
まあ、ITの仕事を学ぶにも、専門用語は出てきますし、
フットサルを学ぶのも、専門用語は出てきます。

ヨガや瞑想を学ぶのも、
それなりに専門用語も知っておく必要はあるんだな、
くらいの感じで、学んでいました。

それよりも、
瞑想は、やればやるほど面白くて、
どんどん内面の面白さにハマっていく感じでした。

当時、
ぼくは鎌倉に住んでいたのですが、
鎌倉は大好きなのですが、
まだ知り合いもおらず、
ちょっと人との接点が欲しかったのと、
鎌倉でも瞑想を一緒に楽しむ人が、
ほしいな、
と思い、
自分でも、鎌倉で瞑想会をやることにしました。

「まあ、
誰も集まらなくても、
自分一人でも会場に座って、
瞑想していれば、いいや」
と、腹を括って、参加者を募集したら、
なんと数名申し込んでくれる方々が。

しかも、
参加者の方々も、
「瞑想に興味があった」
「一度やってみたかった」
と、けっこう、熱意のある方が、
多かったです。

それで、
ぼくもWEBシステム開発の仕事をやりながら、
月に一度、
鎌倉の周辺で、瞑想会を開くことにしました。

いつも、公民館の和室を借りて、
開催していましたが、
うかうかしていると、予約が一杯になり、
予約できないこともありました。

すると、
仕方がないので、
ほかにいい場所はないかなあ?
と、鎌倉の他の場所を探すことになります。

「ここは良さそう!」
と感じる、古民家を見つけて、
オーナーの方に、
「瞑想会をやらせてください」
と相談したら、
いきなり、
「宗教はダメだ」
と断られたり。

「瞑想会は、宗教とは違います!」
と、説明しても、
無視されました(汗)。

当時は、
瞑想会と言うと、
怪しいイメージを持つ人が、
まだまだいて、
抵抗を示されたり、
怪しまれたり、
ということが、
ほかにもありました。

でもまあ、
理解を示してくれる方もいて、
なんとか開催にこぎつけたり。

ほかにも、
会場がなかなか手配できないので、
いい知恵はないかなあ?
と思っていたら、
会場探しをしていた中で、
たまたま出会った、鎌倉に住むヨガの先生が、
「私は、海辺でヨガをやっているけど、
海辺でやるヨガも、すごくいいわよ。」
と教えてくれて、
「そうだ、瞑想会も海辺でやってみよう!」
と思い立ったり。

当時、少なくとも鎌倉で、
海辺で瞑想会をやった人は、
誰もいなかったと思いますけど、
「浜辺の瞑想会」
と称して、
由比ヶ浜海岸で、瞑想会を開いたりしました。

もの珍しさも手伝ったのか、
けっこう人も集まってくださり、
みんなで浜辺に座って、
瞑想をしました。


そんなこんなで、
元々は、自分の内面を見る目的で始めた瞑想でしたが、
次第次第に瞑想そのものも面白くなり、
自分の世界も広がっていきました。

一方で、
瞑想ですごくスッキリすることが増えてくると、
違う面で、不満を感じるようになってきました。

瞑想すると、
「サマーディ」
と言いますが、
静けさのようなものを感じるときが、
あります。

それはそれで、
とてもすばらしいことなのですが、
一方で、
瞑想していない、ふだんの生活、
仕事であったり、
家庭生活であったりの中では、
相変わらず、
イライラしたり、
ぐちゃぐちゃした気持ちを感じている自分も、いる。

なんか、
そこにギャップを感じるようになってきたのです。

スッキリする、
客観的に物事を見られる。

それはそれでいいのだけども、
やはり、
ごちゃごちゃしている自分、
イライラする自分も、そこにいる。

これは、消そうとしてもなくならないし、
どう付き合っていけばいいんだろう?
と思いました。

もともと、
「認められない」
という思いをなんとかしたくて、
瞑想を始めたのですが、
瞑想をしている間は、
その思いから離れられたのですが、
そこの感情自体は無くなっていないので、
どう扱ってよいか、
分からなくなったのでした。

この、
「感情を扱う」
というところにアプローチする手段が、
必要だな、
と感じるようになってきました。

とまあ、
今回はいろいろと書いてきましたけど、
まとめるとすると、
「嫌なことでも、やりたいことでも、素直に感じる」
ことが、変化につながります。

嫌だな、と感じれば、やめればいい。
やりたいな、と感じれば、やればいい。

その前に、
やりたい、嫌だ、
という、自分の感情を、ちゃんと感じること。

そのことが、やりたいことをやることに
繋がっていくように、感じます。

次回に続きます。





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