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10年越しの約束

今日は本の紹介とかではなく、自分とある患者さんの話です。
回想録として記したいと思います。

2010年6月。当時26歳で悪性リンパ腫と診断された彼女は、初回の化学療法が奏功し外来で治療を継続していた。

予定されたコースの治療が終わった後のある日、大腿に発疹が出来て救急外来を受診し、その休日当番をしていた自分が診察した。当時化粧品販売員をしていた彼女は、いつものごとくバッチリメイクで受診し、発疹以外は元気であった。一目で帯状疱疹だとわかったが、どこか嫌な予感がしていた。帯状疱疹は免疫力が低下した際に出現しやすいからだ。
その嫌な予感は的中し、その後の定期外来の血液検査で異常値が見つかり、精査の結果悪性リンパ腫の再燃がわかった。

癌患者さんにとって”再発”の言葉ほど辛いものはない。若い彼女にとって再び抗がん剤治療を受けなければならないという事実は受け入れがたいものであっただろう。それでも治療の必要性を理解し再び化学療法目的に入し治療に臨んだ。残念ながらその後の治療でも寛解をに至る事が出来ず、より多くの抗癌剤を使い根治を目指す自家末梢血幹細胞移植を行う事となった。
再発の診断から半年以上も化学療法を続けた上での治療であった。

自家末梢血幹細胞移植は自分の骨髄細胞が破壊される量の抗癌剤を用いるため、当然ながら副作用も強く入院期間も長いものとなった。
若さがあり人生の楽しい時間を闘病生活につぎ込まないといけなくなってしまった彼女は精神的に落ち込むことも多かったが、それは人間として当然のことであるだろう。
そんな辛い治療にも耐え、PET-CTで寛解を確認しようやく退院となった。

しかしその約1年後に下肢の痛みが出現し、PET-CTで再発が見つかってしまった。自家末梢血幹細胞移植後の早期再発となると、一般的には化学療法での根治は困難であり、救援療法と呼ばれる化学療法を続けても長期予後は厳しい。そうなると同種造血幹細胞移植によるGVL効果8-3. 移植片対白血病・リンパ腫効果|一般社団法人日本造血・免疫細胞療法学会 (jstct.or.jp)に期待するしかなかった

しかし、同種造血幹細胞移植は治療関連の合併症も多く、そうした合併症で命を落とす患者さんも一定数いるのが現状である。そして、命までは落とさずとも、GVHDに長く苦しむ患者さんも多い。
彼女自身も長い闘病の生活の中で知り合った患者さんが同種造血幹細胞移植を受けて帰らぬ人となったのを目の当たりにしていた。

入院し再度化学療法を行う中で、残された治療は同種造血幹細胞移植(骨髄移植)しかないという話を上級医とご家族と共にした。
その時の本人とお父さんの表情は未だに目に焼き付いている。

その後の回診で病室を訪れた際の第一声は「移植はしたくない」であった。長い闘病生活の中で、彼女は強い化学療法や骨髄移植の恐怖からとてもそんな選択はできなかった。入退院を繰り返す中で、自宅で友達や家族と過ごす時間の大切さをのありがたみを強く認識するようになり、以前よりも前向きな生活を送れていたことも大きかった。

「もう長い入院や辛い治療はしたくない。化学療法を継続しながら定期入院して、可能な限り家で友達や家族と過ごす時間を大事にしたい」そう語った。

前回の入院の際も、ずっと耐えながら退院の日を本当に心待ちにしていたのを見ていたからこそ、痛いほどにその気持ちがわかった。

26歳からの闘病生活で入退院を繰り返しながらの29歳。その先に提示された治療は辛い上にしかも命を落とす可能性もある治療であり、実際に一緒の病棟の患者さんが帰らぬ人となったのを知っている。

治療に賭けてそのまま人生が終わってしまうかもしれないという恐怖は計り知れないものであっただろう。本人は当時を振り返って「メンタルが日々本当にヤバかった」と教えてくれた。

年齢が年齢であれば、化学療法を継続しながら自宅での時間を長くすることもまた妥当な判断である。しかし当時の彼女は29歳。10年後に生きているためには骨髄移植しか手がなかった。化学療法を継続していくという選択肢であれば、その道には寛解は存在しない可能性が極めて高く、もって数年がいいところであっただろう。

入院を避け、今の日々の生活を重視した数年の命か。
リスクを承知で長期予後を目指した治療に賭けるか

ある意味では究極の選択であった。

身体に負担のかかる化学療法を続ければ続けるほど、移植の際の合併症のリスクが高くなる。そして骨髄移植には長い準備期間も必要であり、本人の強い意思なくして移植を進めて行く事は出来ない。
だからこそ早めに「骨髄移植を希望する」という決断をする必要があった。

「長く生きてほしい。治療から解き放たれた人生を生きてほしい。」

その思いで当時の主治医チームの一員であった自分は何度も説得した。
頑なに移植を拒む彼女に時にはベッドサイドで長く話し込む事もあった。

本人は乗り気ではなかったが、少しでも判断の一助になればと思い、国立がんセンターにセカンドオピニオンにも行ってもらった。
その時の紹介状を書いていた時の気持ちは未だに覚えている。
国立がんセンターの先生も同様の見解で、やはり骨髄移植を勧められた。

そんな彼女に一ヶ月近く説得を続け、最終的に彼女は骨髄移植をすることを決断した。

当時を振り返ってみて、なぜそう決断できたのか10年越しに聞いた。

「毎日泣きながら悩んで、ある日紙に選択肢を書き出したの。そしたら自分にはどうしても骨髄移植の道しかない事に気づけて、今は信頼できる先生と看護師さんがいるから逆にチャンスなんじゃないかと思えるようになったの。」そう教えてくれた。

その後移植の準備を進め、残念ながら家族内に適合者はいなかったが、骨髄バンクに適合者がいることがわかった。ヒックマンカテーテル挿入、前処置と言われる化学療法、頻回の骨髄穿刺など、痛く辛いこうした治療にも耐え、2013年の2月19日に同種造血幹細胞移植を行った。
今からちょうど10年前のことである。

その後無事に生着し、幸いにも大きな合併症なく退院することができ、この10年間は悪性リンパ腫が再発することなく暮らせている。
とは言ってもしばらくは免疫抑制剤を飲んだり、この10年間で他疾患で手術を受けたりなど、決して楽な道ではかっただろう。

それでも毎年2月19日には、
「元気に生きています。生きている事そのものに日々感謝しています」と決まって便りをよこしてくれた。

辛い経験がそうさせたのだろうが、闘病前の彼女とは別人に思えるくらい謙虚で献身的な性格となった。そしていつもたくさんの友達に囲まれて元気にフラダンスをしている写真を見せてくれた。

そんな便りの最後はいつも決まっていた。

「移植して10年後に元気にしてたら記念写真を撮るの約束ね。」

移植後1年、2年、3年、、いつも決まってそう言ってくれた。

そして10年目の2月18日。
やっとその約束を果す事が出来た。

7年前にフラダンスの発表を見に行った以来の再会だったが、当時の治療の面影もなく元気な姿だった。

もし万が一移植途中の合併症で命を落としていたら、私は後悔の念に押しつぶされて医者人生も違ったものになっていたかもしれない。
私が彼女をずっと説得した理由は、単に医者としてのエゴではなく当時の彼女は生きたいと願っているのがわかっていたからである。

「移植はしたくない。でも生きたい」そんな心の声を感じていた。
「生きたい」という気持ちを痛いほどに感じていた。

キューブラー・ロスの悲しみの5段階モデルで言えば、受容(死を避けられない運命として受け入れ、心に安らぎを得る)の心理状態ではなく、取引(死の恐怖から逃れようとして、何かにすがろうとする)の状態であった。

だからこそずっと話を聞き、説得を続けた。

本当に良かった。今思う事はただそれだけ。
10年目の節目にそう伝えた。

私がしたことは心のケアがメインであり、彼女を救ったのは血液内科指導医の先生方の英知と、何よりも骨髄バンクドナーさんの細胞に他ならない。
直接会って謝意を伝えられないドナーさんの細胞が今も彼女の中で生き続けている。ドナーさんの善意なくしてつなげられない命であった。

そしてこの骨髄バンクという体制を構築した偉大な先人達のおかげであることは言うまでもない。以前に「プロジェクトX 挑戦者たち (決断 命の一滴 ~白血病・日本初の骨髄バンク)」を見て本当に頭が上がらない気持ちになったのを覚えている。

短い医者人生の中でこのような貴重な何事にも代えがたい経験をさせて頂いた彼女と、当時の血液内科スタッフ、骨髄バンクの方々、骨髄を提供をしてくれたドナーさんは本当に感謝しかない。

移植をたくさん経験している先生方や小児科の先生方は、このようなケースレポートにならない人生ストーリーの経験がたくさんあるのだろう。
その一方で、背負うものが大きいが故に辛い経験はもちろん多くの苦労があるのは間違いないだろう。そんな臨床医の先生方を本当に尊敬するし、自分自身もそうなれるよう尽力していきたい。

現在の職場でも、命のリレーに自分自身が貢献できたと思えるケースがある。在宅呼吸器でほぼ寝たきりだった人が、現在は酸素なしで普通に暮らしている。移植後のBOには辛い思いを経験した事が多いが、肺移植の偉大さを改めて実感した。
長期人工呼吸器・体外式膜型人工肺(ECMO)管理後に脳死肺移植により救命しえた同種移植後重症閉塞性細気管支炎 (jst.go.jp)

「血液疾患の若い患者さんで重症化してしまった人を何とか集中治療で救命できないものか」
その思いで踏み込んだ集中治療の世界。

集中治療医となった自分自身が何が出来るのかも未だ模索しているが、愚直にこれからも誰かのために働き続けたい。そして未来の医療に貢献していきたい、改めてそう思った。



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