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中国の人々は、やはり現実的?④

再び、中国の人々の考え方について。

中国の人々は、現実をその思想に中心に置き、神とか天国といった形而上学的な考え方はあまり発展してこなかったと書きました。

しかし「老子」が説いた「道(タオ)」というものは、中国ではあまり見られない形而上学的なものですが、老子はその道がどういうものであるかを深く追求することなく、現世においてその道に沿って生きるためには人間はどうすべきかといったことを中心に説いています。

その意味において、 老子も人間の実際を前提に思想を展開していると言うことができます。

以前も書きましたが、中国人のこの現実重視の考え方は、インドからもたらされた仏教においても見ることができます。

インドから伝来いた仏教のひとつの大きな柱は、この世を「空」と見るところにあります。

「諸行無常、商法無我」に表されるように、この世、外界は仮の姿であり、その自体は虚妄の「空」であるというのが仏教の立場です。

私たちのこの住む現世は、一時的な仮の住処であり、本当の生命は過去から現在、そして来世へと続いて、何度も生まれ変わり輪廻を繰り返すと言う思想です。

よって今のこの現実世界は、真実の世界ではなく、囚われてはならない仮のものであるとする考えです。

しかし中国の人々は、この現実世界をまず認めて思想のベースにしているため、現実を実体のない空虚なものであるとする仏教の考え方をなかなか理解することができなかったのではないでしょうか。

そこで中国では、「空」について独自の解釈をするようになりました。

それは僧肇(そうじょう)ていうお坊さんが解いた「不真空」と言うものです。

この不真空とは、『万物を有、つまり存在すると言ってしまうと、その存在は因縁による仮のものであるから、真実の存在とは言い難い。しかしでは全て無、つまり全く存在していないと言ってしまうと、現実に今具体的な形があり私たちはそれを見ていると言う事実があるのだから、それも否定することはできない。
つまり全くの無でもなければ、真実の有でもない。これこそが不真空である。』というものです。

全ては無であるという仏教の教えのあることを認めつつも、だからといって実際に感覚で捉えている現実の世界を全く否定することもできないというところに中国の人々の現実重視の思想がそこには色濃く表れています。

またそれは、インドの仏教で言うところの最高の境地においてもいえます。

インドの仏教では、現実世界を超絶したところに静寂で満たされた無の世界があり、それを最高の境地「彼岸」と言うそうです。

しかし中国ではその最高の境地は、現実の世界を超越したところにあるのではなく、この現実世界に即した中にこそあると言うのです。

「真と俗とは二つでは無い」とするこの中国の考え方は、その後中国仏教の主流となっていきます。

中国や日本でかつてあった「即身成仏」もこの思想をベースにしており、現世において肉体を持つ人間が即身成仏によって悟りを開く、あるいは仏となるというものです。

本来の仏教では、何度も転生輪廻を繰り返し、その中で修行を繰り返すことによって悟りに至っていくという考え方が、中国においては生身を持った人間が即身成仏と言う方法によって一気に悟りを開くとしています。

そこには現世を離れてあの世に渡り、再び転生輪廻を繰り返すといった形而上学的な考え方をあまり受け入れることができなかった現実的な中国の人たちの姿が垣間見れるのではないでしょうか。

続く。



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