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ベイトソン『精神の生態学へ』覚書き part 1

いよいよグレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学へ』を読み始める。モリス・バーマンの『デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化 -』を読み終えたばかりで、ベイトソンの大まかなイメージはつかんでいたつもりではあったが、やはり原本に当たると生々しい手触りがある。

様々な分野において多岐にわたる議論が繰り広げられるのだが、そこに一貫するのは物ごとの関係性に注目し、その基底に敷かれたある一定のパターンを見い出そうという姿勢だと思う。そのパターンは、特定の分野でのみ有効というわけではない。だからこそ、たとえば人間の社会システムの生成過程と動物の分節化のメカニズムが結びつく。

わたしは、行動のデータと科学的・哲学的”基底観念”との間に橋を渡すことに関わってきた。(中略)本書が関わるのは、生命と行動についての具体的な事実と、パターンと秩序の本性について今日知られていることとの間に架橋する作業である。

「序章 精神と秩序の科学」より

現在、岩波文庫版上巻の後半まで読み終えた。ここまで読んだ中で特に重要だと思われる「分裂生成」という概念についてのメモ。二つの集団があり、それぞれが相手に対してあるパターンに基づいた行動を行うとする。このとき、それぞれの集団は相手の集団の行動に刺激を受け、さらに自分の行動を強化させていくだろう。例えば、相手が自分に対して自慢の要素を含んだ行動をするので、自分も相手に対してさらに自慢に満ちた態度をとるというように。終わりのない自慢合戦が繰り広げられ、何らかの歯止めがかからない限り、「対称型」と呼ばれるこのサイクルはやがてシステムの崩壊をもたらすまでエスカレートする。

一方で、たとえば片方の集団が支配的であり、もう片方の集団が服従的であるというような関係性もあるだろう。この場合も、相手の服従的な態度に刺激されて支配的な集団はさらに支配的になり、とパターンを強化する「相補的」ループは回り続け、やはりシステムは崩壊へと向かう。

第二次世界大戦下、文化接触に関する議論のなかで提起された分裂生成の概念を用いて、ベイトソンは当時のドイツ、イギリス、アメリカの国民性を分析し、国民性の違いを乗り越えていかにして戦争終結は可能になるのかについて思案を巡らす。この思考の幅というのが、ベイトソンの魅力なのかとも思う。

それから、「民族の観察データから私は何を考えたのか」で紹介された下記の思考方法は、大変示唆に富んでいるのでそのまま紹介します。

科学的な思考の前進は、ゆるめられた思考と引き締められた思考の合体によってもたらされるものであり、両者のコンビネーションこそが、科学研究においてもっとも大切な道具であると思うのです。
この二重構造を持った思考習慣を身につける上で、私なりの神秘主義は役に立ちました。「勘」を十分にはたらかせておいて、そこに掛かった獲物に今度はきっちりと形式だった思考をあてる。思考のゆるやかさを保証しておいて、そこから生まれてきたものを、ただちに具象のレベルに引き戻して厳密にチェックする。

「民族の観察データから私は何を考えたのか」より

なお、対象(オブジェクト)同士の関係性に注目し、そこにパターンを見い出そうとする傾向性は、いま勉強してるオブジェクト指向のプログラミング言語とも親和性が高いように思う。Pythonと生成AIとベイトソンによって世界を記述しなおすこともできるのではないか。

また、落合陽一が最近よく言及している寺田寅彦の思考の射程も、ベイトソンに近接するものがあるように思う。ベイトソン、まだまだ続きます。

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