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『デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化 -』覚書き part 1

買ったばかりのグレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学へ』を読み始めようと思うも、文庫本を鞄に入れてくるのを忘れたので仕方なくキンドル版の『デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化』(モリス・バーマン著)を購入。間もなく読み終えるので、その覚書きです。

落合陽一が大きな影響を受けたこの本。柴田元幸のリズム感のある翻訳のおかげもあり、すらすらと読み進めることができる。先日読み終えた村上陽一郎先生の『科学史・科学哲学入門』も重ねていくと、科学というものをより相対的にとらえられる。つまり、近代以降発展してきた科学が絶対的な真実ではないのだ。

モリス・バーマンによると、主体と客体、あるいは観察者と観察対象を分離するデカルト以降の近代科学は限界に達している。観察者である「私」が観察対象である自然を支配可能なものとして認識していく、あるいは支配下に置こうとする態度には無理がある。主体と客体は分離不可能なものであり、そもそも分離するという概念自体が間違っている。「私」と環境は一つの大きなシステム(それをベイトソン流に「精神」と呼んでも良い)の一部であり、その生態系(エコシステム)を維持することこそが重要となる。

ベイトソンの思想に関する詳細は、この後に読む予定のベイトソンの『精神の生態学へ』の覚書きに譲ることとして、ここではいくつかのメモを残しておきます。

主体と客体、あるいは観察者と観察対象の分離を否定的にとらえるという流れは、現代においてはかなり一般的なったのではないか。これをビジネスの分野で展開したのが、ピーター・センゲを中心とする一派だろう。ピーター・センゲの『学習する組織』のおいては、チームリーダーである私がチームを支配する観察者の地位に安住することは許されない。私の在り様がチームメンバーの在り様に影響を与え、またチームメンバーの在り様によって私も影響を受けるという循環のなかで、全体的なシステムをどう調整するかこそが重要である。

例えばこの漫画では、チームメンバーの積極性のなさに悩むリーダーがふと鏡を見て、そこに映る自分の険しい表情に愕然とするシーンがある。チームを委縮させていた原因は、こんな表情を常に浮かべていた他ならぬ「私」にあった。チームとは個々のメンバーの単なる和ではない。メンバー同士の関係性こそがチーム全体としてのパフォーマンスを決定づける。

ベイトソンの世界観は、当然ながら環境問題、あるいは近年のSDGsとも高い親和性を持つ。自然を支配するものとしての人間ではなく、自然とともに一つの生態系を作るものとしての人間。そこで展開される宇宙像は、近代科学を中心とした西洋思想に対置するものとしての東洋的な色合いを帯びているだろう。

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