アー坊といっしょ

 どがっしゃん! 居間の方から派手な音が聞こえてきた。ツミキが崩れた音だ。続くのは「うええええええ」とアー坊の泣き声。
「自分で崩したんでしょ、泣かないのっ」
 母ちゃんがなだめても、正論なんて聞かねえよ。ほら、もっとやかましくなる。今度はツミキを投げつけ、アー坊が吼える。
「ネンネー!」
「ああ、ネンネ、ネンネ」
 よし、出番だ。待機している寝室のドアが開き、母ちゃんは血相を変え、カゴの中から俺を掴んでダッシュだ。
「ほら、ネンネだよ」
「うわーん」
 ひっくり返ったアー坊は俺をもぎ取ると、ずりずりと顔に押しつける。
 俺はアー坊の鼻水やら涙やら涎やら全部受け止めてやる。やり場の無い悲しみや怒りも。
「はあーネンネがいなかったら私育児ノイローゼになってたわ、絶対」
 大人しくなったアー坊の様子に、母ちゃんはため息をついている。
「それにしても、いつ洗濯しようかしら。汚いわぁ!」

『おかーさん、分かってない。ネンネ汚くないもん、良い匂い』
『そりゃさあ、お前のニオイだよ。アー坊の涎、鼻水、涙、どれだけ染みてると思う?』
『でもこの匂い、落ち着く。ごわごわなのもいい。ニオイがなくてフワフワしてるネンネなんてネンネじゃないよ』
 こんな調子で秘密の言葉で会話する。
 俺は一年前にアー坊の母ちゃんが買ってきたハンドタオルだ。
 アー坊に気に入られた俺は「ネンネ」と名前をもらい、いつも一緒だった。最近のアー坊にはお気に入りのおもちゃが増えて待機時間が長くなったが、あいつの爆発する思いを受け止めてやれるのは俺だけだ。
『ま、ツミキはちょっとしたことで崩れるもんだ、気にするな』
『でも、せっかくつんだのに、ちょっと押しただけでこわれちゃうリフジンだよ』
 いやいや、リフジンなのはお前だろ、と思いつつ、
『そうだな、アー坊はツミキのおうちを触りたかったんだもんな』
 と返事する。アー坊は俺の端っこをくわえて、笑う。
『そう、僕のことなんでも分かってくれるね。大好き』
『俺もだぜ』
 いつの間にかアー坊は寝息をたてていた。母ちゃんは、アー坊の指から俺をそっと外すと、洗濯機の中へと放り込んだ。

 アー坊は二歳になった。母ちゃん父ちゃんと一緒にケーキを食べて、プレゼントに電車のおもちゃをもらってご機嫌だ。
 これを壁にぶつけたらどんな音がするんだろう? アー坊は興味しんしんで、ぴかぴかの電車を壁に投げつける。派手は音に母ちゃんと父ちゃんの嘆きの声が続き、部屋を揺るがすほどの泣き声が被さる。
「だめでしょ、そうやって遊ぶんじゃないって何度言ったら分かるの!」
「これは壁にぶつけるんじゃなくて、スイッチを入れて走らせるんだ」
 アー坊はとてとて走って、居間の隅のカゴで待機していた俺を掴んで、鼻水を擦りつける。
『ぶつかる音を聞きたいだけなのに、なんで怒られるんだよお』
『そりゃ、電車のおもちゃはそういう使い方をするもんじゃないからだよ』
『誰が決めたのさ』
『大人さ』
『オトナってきらい』
 アー坊の母ちゃんと父ちゃんは、大人しくなったアー坊に対して困惑と安堵の入り交じった視線を向けていた。大丈夫、アー坊のことは俺に任せておいてくれよ。

 なんとかセンターとかいうところへ、母ちゃんはアー坊を連れて行った。俺はカバンの中で待機していたけれど、出番は無く無事に終わる。
 その日の夜、アー坊はいつものように俺を握って眠りについた。安らかな寝顔と規則正しい寝息。起きている時と違って大人しくて可愛いもんだ。
 居間の方から父ちゃんと母ちゃんの声がする。なにやら不穏な空気がこちらまで伝わってくる。

 朝、アー坊は夢の世界から目覚めて「ふえええ」と泣き、いつものように俺に顔を擦りつけた。
『ネンネ、おはよう』
 俺は答えない。
『ネンネ?』
 俺はぐっと無言を貫く。
 昨日の母ちゃんと父ちゃんのやり取りが蘇る。
「やっぱり少し遅いんだって」
「テレビとか見せすぎなんじゃないか? ちゃんと話しかけている?」
「話しているわよっ」


「おはよう、アーくん」
 添い寝していた母ちゃんが起きあがってアー坊を抱きしめる。ほら、お前も言えるだろ「おはよー」ってさ。お前はいろんな言葉を知っているんだ。
 言葉が遅い、だなんて言わせやしない。
『ネンネッ、おはようおはようっ!』
 二人だけでしか通用しない言葉とは、おさらばしよう。俺も声をかけてやりたい、男同士の会話をしたい。アー坊の涙と涎と鼻水で俺の身体はもうぐちゃぐちゃだ。
 でも受け止めてやるさ、全部。やり場のない感情も。ただこれからは、黙る。それだけだ。
 あきらめたように、アー坊は俺を布団の上に放り投げ、そして母ちゃんに抱きついて「おあよっ、おはーはん!」って、さ。

 俺の涙はアー坊の鼻水と混じって、ぐじゃぐじゅで、その後洗濯機で綺麗さっぱり流されちまった。