殺意の行方

 男は腹立ち紛れに荒々しく車を運転していた。
 妻との結婚がうまくいったのは、当初の数ヶ月だけ。今となってはなぜあんな女を愛しいと思ったのかまるで分からない。
 かわいげがあると思っていたところは単なるわがままで、愛らしいと思っていた唇は世にも腹立たしい罵詈雑言を容赦なく男に浴びせかける心理兵器だった。
 相手も同じくらいに自分を憎んでいることは男は知っていた。なぜ離婚しないのか、それは単なる世間体の問題に過ぎず、そしてその世間体とやらもそろそろどうでも良くなってきていた。
 もっとも、離婚するよりも前に何かの弾みで伴侶が天に召されて、いや、行き先は地獄で合って欲しいが、とにかく、そういうことにならないか。
 なぜ、休日の過ごし方についてあれこれ文句をつけられないといけないのか。たまには家の掃除を手伝ったら? 馬鹿を言え、俺は仕事で疲れているんだよ。それを言うなら私だって働いているのよ、あなたより稼いでいるし、と勝ち誇った女の笑みを思い出すと再び腸が煮えくり返ってくる。
 稼ぎが悪いというが、今の調子でいけば彼は出世し、給料の額は逆転するはずなのだ。
 ほんの数年先の未来も見えず、今この瞬間だけで男を無価値のうすのろであるかのようにののしる女を男は心底憎んでいたのだった。
 その憎しみは、殺意までほんのわずか数ミリのところまで達していた。

 またかと女は伴侶の幼稚な振る舞いにうんざりを通り越して、憎悪を覚えていた。昔は、その幼稚な部分に母性本能とやらがくすぐられていたのか、自分が支えてあげなければと思っていたが、どうやらそれは大間違いだったようだ。あれは支えていたら、甘えてだめになる男だ。
 ゴミ出し程度で家事をしてやっていると大きな顔をして同僚に自慢するようなロクデナシ。
 なんで、あんなのと結婚したのだろう。
 目の前から消えてなればいいのに、と女は腹の奥で毒づいた。
 稼ぎのことで図星をさされると、腹を立てて車に乗ってどこへやらへと飛び出して行ってしまった。
 まったく、いつもそうだ。嫌なことがあると逃げ出して問題をうやむやにしてしまう。そんな態度が一番女にとって我慢出来なかった。
 男は帰ってくるのだろうか。いっそのこと帰ってこなければいいのにと、真剣に女は考えていた。
 帰ってくるな。

 まったくブレーキをかけた痕跡は無かった。信じられないほどの猛スピードで、この急カーブを曲がろうとせずにガードレールを突き破り、海へと転落したのだ。
 なぜこんな危険な運転をしたのか、警察は明らかに困惑していた。カーブと言っても見晴らしは良く、事前に危険は察知出来たはずなのだ。
 本当に馬鹿な男、と女は事故現場で涙も流さず、強い風の吹く中でただ立ちすくんでいた。
 どこかで見た覚えのある景色だった。
 結婚前に彼とデートしたコースだろうか。確かにそうだが、それよりもっと最近に見たような気がしてならなかった。
 そう、思い出した。夢で見たのだ。
 あの日、男が飛び出していってしばらく力任せに風呂掃除を済ませ、ごろりと昼寝をした時の夢。
 女は海の見える崖っぷちの道路に立っていた。向こう側から走ってくる車はよく知っている。そして、車を運転している男の顔も。
 その男の顔は、初めは驚いていたが、一瞬の後に、凄まじい殺意を隠そうともしない鬼の形相へ変貌した。
 スピードを緩めるどころか、アクセルを踏み込んでこちらに突進してくる。彼女はガードレールまで追いつめられた。すぐ下は海だ。逃げられない。
 このまま車が突っ込んでくる、海を背にした私を目がけて、と思った瞬間に、女は夢から覚めたのだった。体中に冷や汗をかいていた。イヤにリアリティのある妙な夢。
 夢?

「よっぽど殺したかったのね」
 女のつぶやきは、男に対して向けられたものなのか、それとも自分に対してのものなのか。それは彼女自身にも分からなかった。