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源氏物語随想 1

光源氏・源融・松浦氏 

                             西丸妙子

<1>光源氏・源融

光源氏は源氏物語の中で3つの建物を建造した。六条院と呼ばれている本邸と嵯峨の御堂と宇治の別邸である。その3つの建物は源融が実際に造った建物とそれぞれ重要な点で一致する。それについて検証してみたい。

 光源氏の本邸である六条院は光源氏が須磨明石から晴れて帰還して太政大臣(『源氏物語』少女)に任ぜられて、権勢を得た後、建造された。六条御息所から後見を依頼されていた娘の秋好中宮が伝領していた場所を取り込んで、四町(約252m四方総面積約6万3500㎡)を占めた広大な屋敷を作った。その屋敷は四季に分けられ、南東の春の町は紫の上を女主人とし、南西の秋の町は秋好中宮、東北は花散里、北西は明石の君を据えた。それぞれに似つかわしい庭の構成にするという新しい発想によるものであった。何よりも豪勢なのは池であった。龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべ、女房たちが乗って遊ぶさまを邸内から見て人々が楽しんだというのだからその池の大きさが想像できる。

河原院跡①碑 京都市下京区木屋町通五条下る東側
碑につく説明

かたや源融の邸宅も四町をしめる大きさであったとも伝えられている。池に海水を入れていたことで有名であった。池の水すべてが海水であったとは思われないが、大阪湾あたりの海水を汲み、淀川の支流につながった鴨川へと運んだのである。川から海水を入れるのに都合がいいほどに、鴨川に近いところに源融の河原院はあったのであろう。庭の有様はわからないが、塩竃があったなども伝わる。河原院は六条辺りであったかとの説もあるが、それは源氏の六条院の場所と重なる。源氏物語では光源氏が夕顔を連れて行った大きな屋敷は夕顔の家からあまり遠くない六条御息所の屋敷に近いところであった。その連れて行った屋敷は河原院をモデルにしているであろう。この二つの邸宅のメインは池であろう。源氏の最高に素晴らしい庭園、源融の奇抜な趣向の海を模した庭園、そしてその二つの庭園の場所の一致をどう考えたらいいのか。多分読者が源氏物語を読む時に夕顔の巻、少女の巻で河原院を思い浮かべることを予想して構想したのではないか。というのも当時は史実が重んじられた時代であったので、現実に存在したものを読者にイメージさせる手がかりとして河原院をつかったのではなかろうか。

河原院跡②本覚寺 京都市下京区富小路通五条下る本塩竃町
本覚寺の説明

光源氏の2つめの建造物は嵯峨の御堂である。寺と記されているが、それは光源氏が世の無常を感じて、建造を志した。場所は「大覚寺の南」(『源氏物語』松風)と記されている。その御堂の詳細は書かれていないが、その場所には源融の栖霞観(せいかかん)があった。栖霞観は源融の山荘を息子湛・昇が寛平8年(896)融一周忌の時に寺とされているので、源氏物語が書かれる頃には寺であった。その場所は現在も立派な寺、清凉寺となっている。栖霞観については源順が記した「初冬於栖霞寺同賦霜葉満林紅応李部大王教」(『本朝文粋』巻第十)が残されている。これによれば、豪華で風流で趣深い建造である。その文章は漢文らしく虚飾もあろうが、贅を尽くした別邸であったのであろう。光源氏が造ったその御堂は具体的には記されてないが、「造らせたまふ御堂は大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり」(『源氏物語』松風)とあるように、豪華で風流な建物であったのであろう。

光源氏の3つめの建造物は宇治上神社をのぞむ対岸の地である。その源氏の別荘も源融の宇治の別荘と重なる。源融が宇治に建てた屋敷の当初の広さは明確ではないが、その屋敷は源融から陽成天皇、宇多天皇、朱雀天皇、源重信(宇多天皇の孫)に伝領され、続いて藤原道長が買い取り、その息子頼通が永承7年(1052)に平等院という鳳凰をかたどった趣深い大きな寺とした。おそらく源融の別荘の広さは現在の平等院の広さと同じであったのではなかろうか。この平等院のある場所は宇治川に面して対岸の景観も好条件であったと思われるが、この一致も不思議である。

このように光源氏と源融の3つの建造物はそれぞれにほぼ場所が同じであることが最も重要であるが、それはみな屋敷のメインとなるもの、六条院の「池」の存在、嵯峨野の「寺」、宇治の「別荘」といった点でも重なる。当時の権力の頂点にいた藤原氏たちは多くの屋敷や別荘を持っていたが、それらは光源氏の建造物のモデルとしては使われていない。源融の建造物のみがモデルとなっている。それはなぜだろうか。考えてみるに、源融の建造物のこの3つは光源氏の建造物のモデルに相応しいように、建造物は恐らく贅を尽し、莫大な財力をかけて造られており、美意識も高かったのであろう。それゆえに巨万の富を持っているような光源氏の建造物のモデルに相応しいと紫式部は考えたというより、紫式部は読者が光源氏の建造物をイメージするときに、源融の現実の屋敷を思い浮かべるようにと思ったのではないか。源氏物語構成の一つのきっかけともいえよう。

では源融はどのようにしてこの贅を尽した豪勢な建物を3つも造ることができる経済力を手にすることができたのであろうか。

<2>源融・松浦氏

平戸松浦氏の屋敷に展示してある様々なものの中に、松浦氏の立派な家系図の巻物がある。その家系図の筆頭に「源融」が記されている。それは何を意味するのか。よくあるように一族に箔をつけるために身分の貴い人の名を勝手にくっつけたものか。しかし考えてみる余地がありそうである。源融は豪奢な邸宅を3つも造った。それには相当な財産が必要であろう。源融はその財産はどのようにして手に入れたものか。嵯峨天皇は『本朝皇胤紹運録』によれば52人の子どもがいる。父天皇としてそれぞれの子どもに分け与える経済力はなかっただろう。融は嵯峨天皇の第十八皇子で、左大臣にもなっているが、兄2人も左大臣で、その役職からの報酬だけではそれほど豊かに暮らせるとは思えない。陸奥出羽の按察使(貞観6~11、864~869)にもなっている。これは東北地方の金を手に入れるのに都合がよかったはずではあるが、それにも限度があるだろう。

そこで松浦氏、肥前松浦氏はもともと摂津(大阪)の渡辺氏の出であるらしい。渡辺氏は摂津でかなりの勢力を持ち、瀬戸内の海の仕事のようなこともやっていたらしい。瀬戸内だけでなく、九州北部、さらにはもっと遠くまで勢力を伸ばしていたかもしれない。すなわち海を仕事の場として、交易運搬、時には海賊のようなことをすることもあったかもしれない。それらの船は日本の沿岸だけでなく、中国や朝鮮半島までも海を渡って往来していたらしい。渡辺氏の一族は大阪湾を拠点にして、勢力を伸ばしていき、その一族の中から関門海峡を渡って、北部九州を拠点にする人がでてきて、今福(現在の松浦市・平戸より東側)に住み着いていたらしい。今福には「ぎぎが浜」というところがあって、そこには延久元年(1069)源融から5代ほどあと源久がこの浜に上陸した時に船から降り、輿に乗った時に「ギイ」という音がしたので「ぎぎが浜」(現地では「ぎいが浜」)とよばれるようになったという伝説がある。それ以前にも、嵯峨天皇の係累の者や息のかかった家臣などが都からやってきて松浦氏との交流を図っていたのかもしれない。 

源融の父の嵯峨天皇は前後に類を見ない中国贔屓、中国に心酔した天皇であった。中国に文化・学問・経済・政治を見習い、模倣し、受け入れた。例えば、日本人の二文字の姓を中国風に一文字にする「藤原」を「藤」(トウ)という奇抜なこともしたが、3つの漢詩集(『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』)も立派にでき上らせた。しかし、在位中に遣唐使は出していない。それは出すための財力や貢物を集めることができなかったからか。しかし嵯峨天皇は喉から手が出るほど中国のあらゆる物を欲していたのではないか。では学問や文化や書籍、唐物とよばれた品々をどのように手に入れたのか。嵯峨天皇は当時頻繁に東シナ海を渡って往来していた大陸の商船に何らかのつながりを作っていたのではないか。気象条件がよければ、4日で渡れたそうである。当然日本の船も海を渡って私的貿易をしていたはずである。その最も有力な一族は北部九州では、松浦の今福に拠点を置いていた松浦一族ではなかったか、現在でも今福では岬がのびて、大きくない入江がある。そこは密貿易をするには船が出入りするには恰好の場所であったと思われる。追跡をかわしたり、荷物の積み下ろすのには恰好の入江の場所ではないか。嵯峨天皇の一族の者や家臣は表には出ず、手を組んでいた松浦氏が私的貿易をしていたのではないか。私的貿易は一応禁止令も出たこともあるというが、見逃してやる、大目に見てやるとか手に入れた唐物や物品を召し上ようとはせず、品々を分けたりしたのかもしれない。つまり威圧や恩恵でもってつながった。今福から少し西にある王嶋神社(松浦市志佐町庄野免1034)には嵯峨天皇を祀っている。現在も残っているが、嵯峨天皇とのかかわりがあったことを示しているのではないか。当然他の貴族たちもそのような手段で大陸とのつながりを作っていたであろう。

ところで嵯峨天皇薨去の時、源融は20歳、嵯峨天皇がなくなっても大陸との私的交易ルートが途絶えたとは考えられない。融は年齢的には少し若いかもしれないが、私的交易ルートにかかわっていたのかもしれない。融は陸奥出羽の按察使になって、東北の金で私腹をこやし、私的交易の資源とすることができたかもしれない。その当時、中国に大量に輸出された金にもかかわっていたかもしれない。その後、貞観14年(872)に左大臣となったころには、松浦氏と密接な関係を持つことになったかもしれない。その証として、松浦氏の筆頭に名を与えたのではなかろうか。

松浦氏の貿易は密貿易である。中国から買い込んだものを松浦から都に運ぶことはなるべく人目につかないようにしたほうがよかった。だから、船で瀬戸内海を運んだのではないか。源融の屋敷の池に海水を海から汲んで入れたという奇抜な思いつきは、実は中国からの品物や唐物を屋敷まで運んでくるためのカモフラージュではなかったか。屋敷の池に入れる海水は、尼崎辺りから汲んだとも伝えられている。人目が少ない尼崎辺りで、松浦から運んできた唐物を降ろし、桶のいくつかには海水を入れ、いくつかには唐物を入れて、京都の屋敷まで運んだ。庭の池は海水だとの話だが、実は海水は少ししかなかったかもしれない。嵯峨天皇の息子の中でも源融は最も蓄財にたけていたのであろうということは、松浦氏と最もいい関係になっていたかもしれない。自分の名を松浦氏に与えるほどだ。

12世紀に東シナ海で主として海賊として名を馳せた松浦党は松浦氏一族とどの程度関係があったのかはわからない。しかし、表裏で松浦氏が手を結んでいたことは想像できる。その松浦党の活躍は次第にふくらんでいったのであろうから、ずいぶん早い時期から中国や日本の商船、海賊もやる大小の船は東シナ海を往来していたと思われる。その一時期に源融がうまく立ちまわって、財力を手に入れたのではなかろうか。

<3>紫式部・光源氏・源融

 紫式部は源氏物語の主人公光源氏の邸宅のモデルとして、読者にイメージしやすいように、まさにぴったりの源融の三つの屋敷を用いた。その建造物の一致や類似はそれのみならず、源融の富豪なことも光源氏のイメージとしてぴったりであったのだろう。天皇の皇子であり、源氏姓に臣籍降下したことも一致している。紫式部の父が越前の国司であり、紫式部もしばらく越前に行っていたので、日本海での大陸の船や日本の船の往来も知っていたはずであるとすれば、源融の蓄財がどのようにしてできたのかを知っていたのだろうか。彼女のみならず、世間の人も察していたであろうか。そのようなことで、人格や人柄を云々する時代ではなかったのだろう。だから建造物のモデルとして用いたのではないだろうか。あるいは源氏物語が書かれた11世紀初頭頃には、すでに摂関政治時代となっていた。天皇一族は大臣級の官職にもつけず、貧しい人たちが多くなっていた。紫式部は衰えゆく天皇一族への哀悼をこめて、源融をモデルに用いたとも考えられなくもない。


付記

源融ゆかりの寺~太融寺~

西丸佳子

大阪市北区太融寺(たいゆうじ)町にある寺である。太融寺町は平安時代に摂津国の国府とされた大阪市東区石町(こくまち)、「渡辺」と称された大川(旧淀川)から約1キロの場所である。

太融寺

弘仁12年(821)年創建、空海(弘法大師)がこの地の森の香りを放つ霊木から地蔵菩薩と毘沙門天を刻んで、草庵を結んだことから始まる。嵯峨天皇がこの話を聞き行幸、嵯峨天皇が仏師春日作の千手観音菩薩を下賜して、本尊とする。嵯峨太上天皇崩御後の承和10~12年(843~845)ごろ源融が願主となる。その後、八町四面、七堂伽藍を建立する。霊木により創建された故事から山号を佳木山(かぼくさん)、源融の諱をとって太融寺と名づけられたとされている。年号、建物の建立についての詳細はいろいろな説がある。

嵯峨天皇崩御後、源融が太融寺の願主となったことはこの2人のつながりの深さがわかる。承和12年(845)、融(23歳、近江守)より年長の嵯峨天皇の臣籍降下した皇子の年齢と官職を記す。信(35歳、中納言)、弘(33歳、参議)、常(33歳、左大臣)、寛(32歳、神祇伯)、明(31歳、播磨守、左京大夫)、定(30歳、参議)、生(24歳、備後守)である。嵯峨天皇の子どもたちは多く、父ゆかりの寺の願主には誰がなってもよさそうなものである。寺のある場所が、源融にとって重要な場所、瀬戸内海交通の要所だったから、願主となり寺を大切にしたとも考えられる。

800年代ごろの大阪の様子としては、承和7年(840)ごろ新羅貿易商人張宝高と関係があった従五位上筑前守文屋宮田麻呂は「難波宅」を持っていたとされる。平安京から貴族が大陸の貿易商人と個人的に結びつき、貿易するために、大阪に拠点を持つことが手段であるならば、源融にとっての大阪の拠点の1つが太融寺なのではないかと考える。

図:太融寺と渡辺(津)の位置
注)琴浦神社(兵庫県尼崎市琴浦町)は源融(祭神)が海水を汲んだと伝わる



 

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