シャンパン__2_

小説『オスカルな女たち』40

第 10 章 『 暴 露 』・・・4


     《 内緒話と捨て台詞 》


開店おめでとう!
11月8日、今日はつかさの経営するトリミングサロン『#selfish dog』の開店日だ。
カチン…と、開店前でまだだれもいない店内のカフェスペースにて、織瀬(おりせ)、つかさ、玲(あきら)の3人は陽気にシャンパングラスを合わせた。
「ありがとう!」
こんな時間から…と舌を出しながらも、スパークリングワインを口にするつかさは終始笑顔が絶えず、とても活き活きとしていた。
「お祝いですもの」
言いながら足を組む玲は、満足そうにワインを口に運ぶ。
カウンター正面のガラス戸の仕切りの延長線上に、店内の待合とは別に待機所を兼ねたカフェスペースが設けられてある。
イエロークリームの明るい壁紙に、グレーのグラデーションタイルの床で落ち着いた雰囲気の空間をつかさはなにより気に入っていた。壁に沿ってコーヒーサーバーとティーサーバーが設置され、立ち飲み用の丸テーブルが2台とその奥に、正方形のローテーブルに大きな赤いロビーソファが置かれていた。
「このコーヒーサーバーはレンタル?」
新品ではなさそうなマシンを見ながら織瀬が問う。
「あぁそれね、継(つぐ)がキッチンカーで使ってた業務用のマシン。まだ使えるのに、いくつか処分するっていうから譲ってもらったの」
「なるほど、賢いね…」
「でしょ? 予算はなるべく抑えたいから」
ちゃっかりしてるでしょ…と舌を出すつかさ。
「ぅぅん、しっかりしてる…! お金は? とらないの?」
「うん。利用するお客さんとか、高額な商品には無料チケットをつけるようにして、お代わりとか、カフェ目的の人からは少しいただこうかなと思ってる。まだどのくらい利用されるかも読めないし…」
そう言ってつかさは少し考える仕草をしてみせる。
「そうね。カフェ目的で入ってくる人はいないとは思うけれど、この辺本当になにもないから、なんとも言えないわね」
と、玲も同意する。
「でもね、住んでみて解ったんだけど…この辺、わりと犬の散歩してる人が多いのよ。河原とかに出るとね『なにができるのかしら?』って、結構聞かれて。ご近所様には充分な宣伝ができた気がする」
「散歩しながら宣伝してたんだ」
抜け目ないね…と、織瀬はいたずらっぽく笑って見せた。
「ま、ね。だから、お散歩グッズを豊富に取り揃えてみました」
そう言ってつかさは河川の方を見ては拝み、ふふ…っと微笑んだ。
「商売上手ね…」
これまで自分の店を持つことに関しまったく興味を示さなかったつかさに、サロン経営はどんなものか…と心配していた玲だったが、店舗改装の話を重ねるうち意外にも積極的な姿勢が窺え都度感心していた。
「いよいよね…」
すっかりと整頓され、お客様を迎えるだけとなった店内を眺め、つかさは満足げにソファの背もたれに体を預けた。
3人は入口付近のカウンターを真正面に眺める形でソファに並んで腰掛けている。目の前のローテーブルの上には、いつかつかさの引っ越しの際に玲が持ち込んだピンクのスパークリングワインのボトルが載っていた。
「これ、引っ越しの時も持ってきてくれたよね? 玲。おいしいんだけど、お高いんじゃないの?」
左隣の玲の顔を窺い、すっかりと空になったグラスをテーブルに置くついでしげしげとボトルを眺めるつかさ。
「あら、気に入った? よければ何本か進呈するわよ」
そう微笑んでボトルを持ち上げる玲に、
「あぁいいの、そんなつもりで言ったんじゃないから」
と、慌てて両手を小刻みに振ってとりなす。
「あら、かまわないのに…。それに、うちのワイナリーでできたものだからまだ日本にはないわよ?」
織瀬は一杯だけね…と目配せし、つかさのグラス、自分のグラスと注いでいく。
「うん…ありがと」
織瀬はテーブルの上に置かれたコルクを手に取り「…ホントだ〈MIKADO〉って書いてある」と言って、つかさに手渡す。
「えっ? ワイナリーまであるの? えぇ…ぁ、ホントだ」
コルクを確認し、改めて玲のお嬢様ぶりを再認識する。だが確かに、海外にいくつものホテルを経営していることを思えば、自社製ワインがあってもおかしくはない話なのだ。
「えぇ。今までは契約農家だったらしいんだけれど、環(たまき)お兄様の趣味が高じてね…去年買い取ったらしわ」
「へぇ…じゃ、海外では飲めるんだ」
「趣味で葡萄畑が買えるって…さすがだね」
目を丸くする織瀬に、
「それって自分で葡萄を育てるって趣味?」
壮大な趣味だな…とつかさが続けば、
「まさか。環お兄様は汚れることがこの世の中で一番苦手な方よ。今まで働いていた従業員や農家さんごと、御門ブランドに置き換えた…ってことね。環お兄様は昔から、気に入ったものはなんでも自分のものにしないと気が済まないタイプだったから」
「それもそれですごいけどね」
「もちろん、採算が取れるからでしょうけれど…一応決定権はまだ父なのだろうし。あぁでも、御門のホテルや施設でなら出しているのかも。ほら、7月の御門の会食の時にお披露目されて『試飲用に』ってお土産に箱を配っていたから…」
「はこ!?」
「えぇ。だからたいした量ではないけれど…」
「いやいやいやいや、充分でしょ~。…ぇ、じゃぁ、譲ってもらっちゃおうかなぁ…ワイン」
もちろんそれは遠慮がちではあったが、ワイン党のつかさが〈スパークリングワイン〉を好むのは珍しいことで、
「そんなに気に入ったのなら、お兄様に言って届けさせるわ」
自分が褒められたようで気をよくした玲は、そう言ってスマートフォンを手に素早くメールを打った。
「…なんだか催促したようで悪いね」
テーブルにコルクを置き、再びグラスを手にするつかさ。
「遠慮はいらなくてよ。お兄様も喜ぶわ…」
「貢献いたしま~す」
調子よくグラスを掲げて見せるつかさ。
「誉めてもらえただけで充分よ」
そう微笑んで、ちらと窓の外に目を向ける。
「意外と防音、効いているわね」
玲の夫の会社で手掛けたマンションとはいえ、実際に商業店舗を使用するのは初めてで、いろいろと気になるところではあった。店内とは裏腹に生花店のトラックで賑やかな曇りガラスの窓の外を眺め、満足そうにふたりを振り返る玲。
「なんか申し訳ないみたいだね…」
外からは中の様子が解りにくいとはいえ、作業中の真横で乾杯するのは心苦しい…といって織瀬は肩をすくめた。
まだ音楽も流れていない開店2時間前の店内は、つかさの愛犬たちがそわそわとサークルの中で行き来する音が聞こえてくるだけでひっそりとしたものだ。だが、ガラス一枚隔てた向こう側では生花店のトラックの荷台から、いそいそとお祝いの花飾りが荷下ろしされているところだった。
「店内で音楽が流れてないと、夜なんか怖いくらい。マンションの前に電光掲示板つけてもらって助かっちゃった。旦那様にもよろしく伝えてね…」
3人の座る席からは死角になるが、ちょうどカウンター脇の店外に大きな花かごが設置されていくところだった。その延長線上である店先の駐車場入り口の角に洒落た形の街灯と、それを邪魔しない造りの電光掲示板が光っている。
「あら、そんなの。もともとお店が入ったらなにかしらするつもりでいたのだから、気にするところじゃないわ」
そう言って玲はグラスを空けた。
「玲~。開店祝いもいただいたのに、花かごまで…なにからなにまでホントにありがとうね! おりちゃんも、こっちが退院祝いを届けなきゃいけない立場なのに…!」
真ん中に座るつかさは両隣のふたりを交互に見、眉が下がりっぱなしだ。
「いいのいいの、あたしは。返って恐縮しちゃう」
小刻みに首を振って微笑む織瀬。
たった今外に設置されている大きな花かごは玲、というより〈水本不動産〉からの開店祝いで、店内入り口付近に対で並べられた格好のいい観葉植物〈ベンジャミン〉は織瀬と真実(まこと)からのプレゼントだった。その他にも以前のトリミングサロンの関係者や取引業者からの花かごやお祝いが届いている。つかさのこれまでの功績や人望が垣間見える光景だ。
「ホントにありがとう。こんな日が来るなんて、夢みたいだよ」
つかさは胸に手を当て「感無量」といった面持ちで心からの感謝を述べた。
「でもすごいね、つかさ。お店の中もすっごく素敵」
この日引っ越し依頼初めて訪れた織瀬が、ついて早々店内で歓喜したことを思い返す。
「おりちゃんも。あらためて、退院おめでとう」
つかさは小さく織瀬のグラスに自分のグラスを重ねた。
「ありがとう。その節はいろいろとご面倒かけました」
織瀬は恭しく頭を下げた。
「本当よ! マコから『アパート用意しろ』って電話を受けた時は、夜逃げかと思って驚いたんだから…」
「あはは…。そうだよね、玲にも心配かけたね」
「そんなことはいいけれど…。織瀬もマコに感化されて無茶しないで…」
「うん。ふたりとも、ホントいろいろ煩わせちゃって…」
そう、苦笑いする織瀬に、
「おりちゃん。そんなことはお茶の子さいさいなんだよ。おりちゃんこそ、そうやっていつも気を遣わないで。もっとあたしたちを頼って」
少し怒ったように告げるつかさ。
「…うん。ありがと。これからは遠慮しないね」
「お茶の子さいさい…ね。でも、本当にあっという間の退院だったわね。痛みとかは、ないの?」
手術の内容が深刻なだけに、遠慮がちに問う玲。
「ん、時々シクシクするけど、思いのほか元気よ」
そう笑顔で応える織瀬だったが、未だ解決していない問題があるためか、いつもの無償の笑顔というわけにはいかなかった。
「逆にマコが大騒ぎだったけどねぇ」
玲は、手術当日の落ち着かない様子の真実を思い出し口元を押さえた。
「そうだった、そうだった」
つられて笑い出すつかさ。
「やれ『待ち時間が長い』やれ『麻酔が切れるのが遅い』って、ホンっとマコって織瀬のこととなると過保護なんだから…」
「え~。真実、病室じゃ全然冷静だったけど?」
「織瀬の前じゃカッコつけるわよ、そりゃ」
「まこちゃん、まだおりちゃんのマンションから通ってるの?」
退院から約一週間、結局織瀬は「戻れない」と言っていた自分のマンションにひとりで暮らしている。
「もう戻ってもらったよ、大丈夫だからって。だって、ちょきが、真実にヤキモチ妬いてるみたいで…噛むのよ」
「噛む? ちょきが? ありゃ~意外なライバルがいたか」
「やだ、マコ。ワンちゃんに負けたの? 旦那さまより手強いじゃない」
「ホントだよね」
ふふふ…と静かに笑う織瀬。
入院中、夫〈幸(ゆき)〉との間でどんな話がなされたのか、まだ詳しくは聞かされていない。が、幸がマンションに戻っていないことを加味すれば「離婚話」が進行しているのではないかと想像できた。
「退院祝いしないとね」
それでもとにかく「気晴らしは必要」だと、つかさは外に出ることを奨め、織瀬の体調に合わせて開店日を決めた。
「もうすぐ真実の誕生日だしね。…これから、来るんでしょ?」
気を遣いすぎる織瀬には、こうして声を掛けてもらえることがありがたいことだった。
「お昼には継もキッチンカーで来てくれるっていうから、ランチも任せて」
「わぁホント!? あたしつーくんの〈ローストビーフバーガー〉好きなんだよね」
胸の前で手を合わせる織瀬。
「至れり尽くせりね」
「あぁだって、自分のカフェの宣伝も兼ねてるでしょうから、一石二鳥なのよ。まこちゃん、間に合うかな?」
「午後になるって言っていたわ」
それにしても…と再び窓の外に目を流す玲。
「さすがというべきか…」
並べられた背の高い花かごに次々と名前が掲げられていく。
あぁ…と、つかさはため息をつき、
「そうね、自分を誇示したいのね」
と、お祝いの花かごのひとつに〈高鷲吾郎〉の名を目に留め「素直にお祝いと受け取りましょう」と笑って見せた。
その隣には、皮肉にも〈藤枝圭慈〉の名が連ねていた。
「彼のもちゃんとあるね」
つん…とつかさの肘をつく織瀬。
「くるんでしょ?」
「楽しみだわ」
意外にも玲がいちばん心待ちにしているように思えた。
「や~だ。あんまり期待しないでよ」
つかさがそう言ったところで、入り口のドア前でキョロキョロと中を覗いている人影を確認した。
「新しいスタッフ?」
そう言って立ち上がる織瀬。
「早いわね。やる気は充分のようだわ」
ボトルをつかんで玲が続いた。
「さぁ。そろそろ開店準備に取り掛かりましょうか」
最後につかさが立ち上がり、3人は店の入り口に向かった。

ブーケ2

その週の土曜日・・・・   
玲はいつものように少し手前でタクシーを降り、10分程度の距離を愛おしむようヒールの音を響かせて歩いていた。
〈…おじさん、友達いないの?〉
〈え? なんで?〉
〈お休みのたびにいろいろ連れ出してくれるのはありがたいんだけれど…〉
ふと、夫〈泰英〉と出会ったばかりの頃の無垢な自分を思い出し、懐かしい記憶をたどりながら〈赤い部屋〉のあるマンションを目指した。
〈あきらちゃん、気を遣ってくれてるの? 優しいね〉
自分以上に無邪気な笑顔をくれる泰英の言動に、そういうことじゃなくて…と、玲はいつも呆れながら諭していた。
〈この店、気に入らないの?〉
〈そんなことを言っているんじゃないわ〉
そう言ってため息をつき、こんな小娘の言葉にいちいち喜んだり落ち込んだりする大の男を目の前に、歯に衣着せぬ玲は、
〈だって、キャバクラに行くのも仕事をするのもいつもひとりだし、私のような生意気な子連れ女と、こんな風に殺風景なカフェで食事しているし…〉
泰英との食事は、どこの店でもたいていSP付きのVIPルームだった。たとえそれがファストフード店であろうが、ほぼ女子高生しかいないようなかわいらしいカフェであろうが、カード払いでなければ支払えないような高級レストランでも、いつも同じ待遇だったのだ。
〈あきらちゃんといると楽しいよ〉
〈あたりまえじゃない。私は若さと知性にあふれているもの〉
〈はは…そうだね。でもそれだけじゃないよ〉
〈じゃ、なによ〉
今思えばそれは、それなりの身分である玲に「余計な噂」や「妙な連中」に生活を邪魔させないための配慮だったのだと解る。最初から、しっかりと守られていたのだ。
〈あきらちゃんはお嬢様だから…小さい頃からおいしいものや本物をたくさん知ってる。それに、頭も良くてちゃんと礼儀をわきまえてる。ぼくには『こんなものかな』ってことでも、あきらちゃんは絶対妥協しないし『ちょっと変だな』って感じることに、ずばり的確な言葉が出てくる。いろいろ刺激を受けてるし、実際助かっているんだよ〉
泰英とて、玲ほどではなくともそれなりの教育を受けて来ている、曲がりなりにも不動産王の「ぼんぼん」だ。ひとを見る目は確かなのだろう。
〈少しはお役に立てているということかしら?〉
〈そうだね。少しどころじゃないね。…まぁ、確かに。ひとり焼き肉や、ひとりふぐ刺しなんてよりは若い女の子連れてる方が格好もつくし、楽しいけどね〉
〈ほら、やっぱり。本音はそちらでしょう…?〉
〈あはは…そうだね、そうかもね〉
今も変わらない子どものような笑顔を思い浮かべ、玲はかすかに口角をあげた。

バラ

マンションに近づいてくると、今までとは違った景色が目に飛び込んでくる。
玲がひそやかな楽しみにしていた〈赤い部屋〉のあるマンション。だがここには今、友人であるつかさが住んでいて、これまで使われていなかった1階の商業用スペースは、つかさの経営する〈トリマーサロン〉になった。店がひとつ立ち上がるだけでその土地の空気や雰囲気は、良くも悪くも大げさに変わるということを玲は知っている。
(ちょっと、惜しい気もするけど…)
もうここでの秘密は自分だけの楽しみではなくなる…そう思いながら玲は、まっすぐとつかさの店に向かって歩いた。
正面から見ると、商業スペースの壁は縦に大きく3つに区分されており、左からトリミングスペース、カウンターのあるメインスペース、カフェスペースとなっている。トリミングスペースの白い壁の上にはA1サイズ程度の木製の看板が設置され、店の反対側のマンション入り口といいバランスをとっている。曇りガラスのカフェスペースは上部3分の1が透明に抜かれ、いいアクセントになっており、メインスペースは逆に上部が曇りガラスになっていて店内が見えるようになってた。
ちょうどカウンター付近にいるつかさを見つけた玲は、店内には入らずに「コンコン…」とつかさにだけ聞こえるよう窓ガラスをノックした。
「あれ? どうした?」
すぐさまつかさが入り口のドアを開けて顔を出す。
「少し、抜けられるかしら?」
いつもとは違う神妙な面持ちで答える玲に「うん。いいけど」と、つかさもどこか緊張を覚えた。
「明日はまこちゃんの誕生日だね。くるでしょ?『kyss(シュス)』…」
「えぇ、そのつもりだけれど…」
なんとなく歯切れの悪い玲に、つかさはそれ以上話を続けることはせず、黙ってあとをついて行った。
つかさがマンションのエレベーターを使うのは初めてかもしれなかった。つかさの部屋は駐車場の真上の左端で、エレベーターを使わずともすぐ脇の非常階段を利用する方が効率がいいからだ。逆にエレベーターはマンションの右端にあり、わずかだが遠回りになるため引っ越しの際もすべて非常階段から荷物を運び込んだ。
初めてのエレベーターで4階まで上がり、玲は部屋の方へは進まずにつかさの使っている非常階段とは逆側の非常階段扉に手をかける。
「え? 階段下りるの?」
「いいえ。もう1階上に行くのよ」
非常階段奥の扉に鍵を差し、玲は「閉所恐怖症だったかしら?」とつかさに訪ねた。
「ぅうん。そんなことないよ…」
尋ねられたことに眉をしかめ、だがなぜ聞かれたのか鍵の開いたその先の空間を見て納得するつかさ。
そこは四方の壁が真っ黒の、ちょっとした公衆トイレ程度の広さしかないエレベーターだったからだ。
「こんなところにもエレベーター…」
妙な不安を抱えたまま、玲に続くつかさ。
「このマンションは6階建てなのよ」
そう言ってひとつしかないボタンを押して扉が閉じた。
「上にも部屋があるってこと…?」
「えぇ。私の…プライベートスペースだったところよ」
「だった? へぇ…」
そんな会話も終了しないうちに、再びエレベーターは開き玄関アプローチが目の前に広がる。
「え、マンションの中に…家?」
どうなってるの?…どんな造り?…と、目をしばたたかせキョロキョロと辺りを見回すつかさ。
「これが、プライベートスペース…」
「えぇ」
「プライベートスペースが、家?…ってこと。ぁ、これって、いつか言ってた『結婚記念日にもらった』…っていう?」
「えぇ、そう」
玲は口数少なく鍵を出しながら玄関に向かった。
「ちょっと待って。なんでそんな、えっと、プライベートスペースよね? あまり人に見られたくないんじゃ…」
つかさの言葉に玲は、ゆっくりと振り返り、
「えぇ、そう。本来なら、そうね。でも…詰め腹を切る、ってところかしら」
「詰め腹…」
いつもと違う玲の様子に、つかさは身構える。
「ここはもう、私は使うつもりはないの。折を見て改装工事を施そうと思っているのよ。この家は2階建てでね、下の階は防音設備の整ったワンフロアでなにもない部屋なの。だからキッチンを増設してパーティ会場にでも作り替えようかと考えているのよ」
そう言って玲は鍵を差し、重厚な扉に手をかけた。
「へぇ…」
なんとなく気が引けるつかさだったが、とぼとぼと玲のもとへ歩み寄る。
「つかさ。この部屋を見て、あなたがどういう判断をするかはあなたに委ねるわ。これから私が話すことに、おそらくあなたは『なぜ』『どうして』と疑問を抱くと思うのよ。その疑問に答えるにはここを見せた方が早いと思ったの」
言い終えると玲は、重そうな玄関ドアを引いた。
「それって、どういう…」
つかさにはなにがなにやら…といった感じではあったが、玲の様子から自分になにか「深刻な話」があるのだろうことだけは理解した。
「わ…」
玄関を入ると、天井に埋め込まれた電気がぽっとついた。対人センサー付きの照明なのだろう。プライベートスペースというだけあってあまり使われていないのか、生活臭のない、住宅展示場のような不思議な空気がふたりを包んだ。
「あなたの…お店の開店の日ね。私、あなたの彼とすれ違いだったでしょう?」
ヒールを脱ぎ「ごめんなさい、スリッパ置いてないの…」と言って玲は、つかさをL字の廊下の先に案内する。
「あぁ、そうだったねぇ。探したんだけど…向こうもすぐ帰っちゃったし」
一番楽しみにしていたはずの玲は結局、圭慈と会わず仕舞だったのだ。
つかさは玲がもっと残念がるものと思っていただけに、そのあと意外なほどあっさりと受け流されたことが気になっていた。
「それはね。つまり顔を合わせられなかったからなのよ」
いつもなら重低音が足元から響いてくる廊下を、静かに進んで行く玲。
「え? どういう…」
扉の前で立ち止まり、一見なんの変哲もなさそうなそのドアノブを引くと、室内ではなく、暗幕のようなものが邪魔をした。
「え? なにこれ…」
言いながらもつかさは、どん帳のようなビロードの布を引き上げて入っていく玲に続いた。そして次に目に飛び込んできたものは…
「え…」
これって…と、まず目についたのは中央にのさばる楕円形のベッドだろうか。だがシーツはかかってはいない。次にその左手にあるX字架、手錠が外されているので一見耐震用に張り付けられているようにも見える。更に左手前には螺旋階段が上の階へと伸びていた。
「玲…?」
自分の右手にいる玲の顔を覗き込むと、その先には床から天井に突き抜けるようなポールがまっすぐと立っている。
「わかる?」
玲は探るような目でつかさを見た。
「明るい部屋だね」
「そうね。でもいつもは、そこのカーテンは閉められているの」
そう言ってベッドとポールの間を明るく照らしている大きな窓を差した。
「そう、なんだ…」
端からSMプレイを想像していないつかさには、目の前の部屋を見ただけではピンとこないようだった。
「安眠の為の…部屋?」
でも壁の「X」にはどんな意味が…と、まるで脱出ゲームにでもハマったような挙動のつかさ。
「改装工事をするって言ったでしょ? だから、部屋の中で移動できるものは撤去してあるの。解りにくかったかしら」
そう確かにここには今ないものがある。
ポールダンスの台座、メリーゴーラウンドのユニコーン、そして分娩台だ。
「私は玄関で衣装を着替え、鞭を持ち、ピンヒールを履いてこの部屋に入るのよ」
言いながら玲は歩を進めると、右手でポールをつかみ、
「…そしてこのポールでダンスをする」
「ポールダンスの趣味があったの…?」
未だ疑うことのないつかさをよそに、玲はベッドの前を素通りし「X」の壁の前に立つ。
「本来ならここには、手錠がついていて…」
言いながら手をあげて貼り付けられたようなポーズをとる。
「…繋がれてる人間を鞭打つのよ」
「鞭…? さっきもムチ、って…」
ここでやっとつかさは異変に気付いたようだった。
「Xは、耐震用…じゃない…」
「えぇ。そしてここには、小さな分娩台があった…」
「分娩台…?」
「そう、分娩台よ。想像がついたかしら」
そうして玲は複雑な表情を見せた。
「ここは、私の…」
「ちょ、ちょっと待って。それって…詰め腹って言った? それって…ぇっと…」
言葉に詰まるつかさに、
「私の趣味の部屋。SM専用の部屋よ」
「ぇ…ぁ…?」
言葉が出ない。
「驚いたわよね」
「うん。ぁ、えと、趣味? SM?…って、玲が? 玲、SMが趣味なの?
「えぇ」
それでも、なぜ自分をここに誘導しそんな話をするのか、つかさには全く想像がつかない様子だった。
えぇ!?
「そう、それが普通の反応よね」
玲は腕組みをしながら冷静にそう返した。
「え…っとぉ? それって、もしかしてだけど。あたしに…進めてる? S…ムリムリムリムリ…」
そう言ってつかさは顔の前で激しく両手を振って見せた。
「まさか」
「…ぁ、だよねぇ」
あぁよかった…とほっとするもつかの間、
「じゃぁなんで? なんであたしをここに連れて来たの? 本来なら、知られたくない趣味だよね?」
趣味を言及するより、なぜわざわざ自分の秘密を打ち明けるのかが気になった。
「そうね。…でも、別に知られたからと言って、これまでの私が私でなくなるわけではないわ」
「それはそうだけど…ぇっと、玲の趣味をどうこう言うわけじゃないよ。それはその、人それぞれいろいろあると思うし…」
だが、全く想像もしていなかった現実に冷静でいられるわけではなかった。
「そう。それはありがたいことだわ」
玲自身、相手がつかさでなければここまですることもなかった。つかさなら「ひとはひと」と受け入れてくれるものと確信していたからこその行動だったのだ。
「あたしにすすめるわけじゃない、とすると…?」
やはりピンと来ない。
「あなたの彼…」
「え?」
「ケイジは…」
「ケイジ? 玲、圭ちゃんと顔見知り? え…圭ちゃんも?」
キョロキョロと辺りを見回すつかさ。
「いいえ…」
「そう…だよねぇ。だってそんな素振り…」
しかし「素振り」で趣味が解るわけではない。
「そうじゃないの、つかさ」
「そうじゃない?」
ますます訳が分からない。
だがここまでくると、いよいよつかさの中にも不安が湧いてくる。
「私も彼と直接面識があるわけじゃないの。だからピンとこなかったのだけれど。でも〈ケイジ〉という名前には聞き覚えがあったのよ。もっと早く気づくべきだったわ…」
「どういうこと?」
「…あなた言ってたわね。彼が、会社の帰りに『不似合いな荷物を持っていた』って」
「ぇ、うん。紙おむつ…」
「そう、紙おむつ。紙おむつが意味するのは…」
つかさを見据える玲。
「意味するのは? なにかに使う…ってこと、なの…?」
かぶる…とか?
つかさは無意識に引きつったり強張ったりを繰り返す自分の顔を両手で抑え込んだ。
「私も…人の性癖をどうこう言うつもりはないわ。自分のこともあるしね」
「う…ん」
「あなたに話すべきか、迷ったのだけれど。話すからには私も覚悟をするべきと思ったのよ。だからここに連れてきた」
「あ。詰め腹…?」
「…ケイジは、私の記憶が正しければ『赤ちゃんプレイ』の趣味があるんじゃないかしら?」
「赤ちゃん、ぷれい…?」
放心状態のつかさに、今さら隠してもしょうがない…と、
「えぇ、おそらくね…」
そうきっぱりと告げ、
「ごめんなさいね。告げ口するようでどうかと思ったのだけれど『会社帰りの荷物』や、いつまでも『ベッドに誘われない』ことを考えると、彼はあなたにその事実を告げてはいないようね。この先付き合いが続くとして、知っておいた方がいいと思ったのよ。まぁ本来なら、自分の口から言いたいものでしょうけれど…内容が内容だしね」
「それでなんで玲が知ってるの?」
「私というより、主人を知っているんだと思うわ」
「旦那様…?」
当然つかさは、玲の夫に同じ〈赤ちゃんプレイ〉の趣味があるのか…と勘ぐる。ついで、開店日当日、圭慈は着いて早々に花かごを目にし「水本不動産なのか」とつぶやき、顔色を変えたことを思い出した。
「私が出会った頃の主人はね〈SM専用ラブホテル〉や、他人には公にできない性癖の〈プレイ施設〉や〈会員制クラブ〉なんかを熱心に取り扱っていたものだから…そういった場所に出入りしている人間なら『水本不動産』の名前に反応してもおかしくないのよ」
「あ…」
だから…と、つかさは小さくつぶやいた。
開店日に浮かれていたつかさは「水本不動産なのか」という圭慈の問いに、なんの疑いもなく「奥さんが同級生で…」と答えた記憶がよみがえる。
そのあと、近くにいた織瀬や真実に紹介しようとふたりを呼び止めたが、圭慈は挨拶も中途半端に、店内に入ろうともせず「仕事があるから」とさっさとその場を後にしたのだった。
『つまり顔を合わせられなかったからなのよ』
すれ違いだった…という、先ほどの玲の言葉が脳裏にこだまする。そして。
思い当たる節は他にもある。いつかの夜、駅の地下道でキスをしたあとのこと…
『つかさなら大丈夫だと思う』
と言ったあの言葉は、圭慈は、つまりはそういうことだったのか…と結びついた。
それ以後つかさは、玲を質問攻めにすることはなかった。
そして、キスをした晩の最期の言葉の意味を模索していた。






まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します