カルパッチョ

小説『オスカルな女たち』10

第 3 章 『 原 点 』・・・2


   《 思春期 》

人は、なにか自分ひとりでは処理できないような出来事が起きると「時間が解決してくれる」など気休めの言葉で誤魔化そうとするが、単純に「過ぎてしまえば忘れる」「もしくは忘れられる」ものだと思い込んでいるのだ。
それは年齢と経験が比例して理屈が加わっていくような単純なものではなく、人が生きていくうえで、必要な知恵と常識が反比例して世間体が加わるような複雑なことなのだと、年齢を重ねるごと納得させられてきたようにも見える。そこに確かな定義はなく、常に上書きされていて、携帯電話の買い替えのように「時代」と言いながらもいつもついていくのに必死だ。

画像1

店に入ったあたりから真実(まこと)は心ここにあらずだった。まるで新しい携帯を手にしたかのように忙しなく、画面を見てはため息をつき、テーブルの上に置いてはつかみあげ、ため息をついてバッグに入れる。そうかと思えばまた取り出し、とにかく落ち着きがなかった。
「気になる患者さんでもいるの?」
そんな様子を見兼ねた織瀬(おりせ)が気遣い、声を掛ける。
「え? あぁ、そういうわけじゃない」
強張った笑顔を返し、再度画面を開こうとつかんだスマートフォンをテーブルの上に置いた。
「ケーキも予約してあるから、それぞれ持って帰ってね」
「え~嬉しい!」
つかさの誕生日当日、いつものバー『kyss(シュス)』での待ち合わせに遅れて来た玲(あきら)が「お腹が空いた」と言ってバーを出た後に落ち着いた先は、最近オープンしたばかりのフレンチレストラン『Aimable(エマーブル)』だった。どうやら玲の夫が手掛けた物件らしく「挨拶がてら様子を見てきてほしい」と頼まれていたのをいいことに、つかさの誕生日に合わせ急遽予約をとったとのことだった。
「今の私たちの年代って、第2の思春期っていうらしいわ」
上目遣いでふたりの様子を窺っていた玲(あきら)は、慣れた手つきで〈真鯛のカルパッチョ〉にナイフを入れながら唐突にそんなことを持ち出した。
「第2の思春期? なにそれ『元カレと浮気』の次は思春期…?」
対する真実は手づかみで、目の前の〈カナッペ〉をひとくちに頬張りながら鼻先で嘲笑する。
「あらなに? 私がくるまでそんな話をしていたの?」
言われて苦笑いの織瀬とつかさ。それを擁護するよう真実が、
「玲が言い出しっぺらしいじゃん」
そう言って、スイッチが入ったかのようにあっという間に皿の模様を変えていく。ようやくいつものペースに戻った真実には場所やメニューは関係ないらしい。
「言い出しっぺ…って言い方は、ちょっと心外だわね。私もちょっと…聞きかじっただけだもの」
「聞きかじった~? しっかり聞いてきたんだろうよ、耳ダンボにして」
上目遣いで玲を見遣る真実は、自然に耳に入ってくるのよ…と口ごもる玲に「ほらみろ」と鬼の首を取ったようなしたり顔で返す。
「なによ。…今日のマコ、変じゃない?」
言いながら織瀬とつかさに目配せする。
いつも通りだよ…と不貞腐れて見せる真実に「そういうところがいつもと違う」と、そう言おうとして言葉を飲み込む玲。どうも店に来てからの真実の様子がおかしい…それは玲だけでなく皆が思うところだった。
「ま、いいわ。浮気相手に元カレが適任…つまり、この年になって家庭を壊してまで盛り上がる不倫なんて望めないし、リスクも高い。かと言ってわざわざ浮気のための恋人探しをする人なんていないでしょう? たまたま出会ってしまえるものでもないし『初めまして…』から始まる恋より手軽に目的だけを消化できる浮気ができるなら、…って心揺さぶられる主婦がいるってことなのよ、現実に」
「それで手っ取り早く元、カ、レ…」
呆れる…と目をしばたたかせる真実。
「元カレに断定するわけじゃないだろうけど、リスクは少ない方がいいってことじゃないかしら…?」
「なるほど…ねぇ」
それが先日話していた『元カレ』に関する真意かと納得するつかさ。
「そういうものなの?」
そういう世間話に疎い織瀬にとって、この話題は「他人の寝室を覗き込む」ような心躍るスリルがある。
「まぁ、新しい出会いってのもそう簡単に訪れるものでもないしね」
およそ〈職場結婚〉のようなつかさがそういうと、
「まぁ、あるところはあるだろうけど、入り口が狭いのは確かよね」
自称〈宝くじ結婚〉の織瀬が続く。
「…そうよ。ときめかないまでも、多少の刺激があれば、」
「ときめき? そういう思春期?」
目をしかめて見せる真実に、昂然とした視線を送り、
「そうよ。さっきのマコみたいな、落ち着かない姿を見て思い出したのよ」
「べつにあたしは…」
言い澱む真実をよそに、玲は構わずに続けた。
「危険な人生の転換期…とでもいうのかしら? 子育てに追われ、手が離れたと思ったら、かつての輝きの欠片も見えない旦那様との日常…」
そう言って一瞬はっとし、私が言ったわけじゃないわよ…玲はそう言い訳するように言葉を挟み、続けた。
「『自分の人生このままでいいのか?』…って悩む時期らしいわ。でも、だれにでも構ってもらえる10代の思春期と違って、30代40代の大人の思春期はひとに話せるわけでもない、労ってももらえない、周りから見たら奇行に見えるような行動…に捉えられることもあるらしいわ…」
鬼気迫る勢いの玲の言動。だが、そこからどんな話に繋げたいのか意図がつかめないでいる3人。
「奇行? それが元彼カレと浮気なわけ?」
「それは単なる一例で…。つっかかるわね」
「一例、ね。それは…夫婦生活の隠れた特記事項ってわけね?」
不動産仲介業を請け負う玲に、つかさはよくこの言葉を使う。なぜなら、以前弟たちのアパート探しを依頼した際に、なにかにつけ「特記事項の確認」と言っていたことが印象に残っていたからだった。
「そう…ね。円満な夫婦には必要のない項目ですものね。でも、どちらかと言ったら…本当に円満、って夫婦を探す方が実は難しいのかもしれないわよ? みんな口に出さないだけで…」
現につい先日、玲の自宅マンションで行われた出産祝いパーティーのその時まで、織瀬もつかさも「円満な夫婦」なのだと思っていた真実と玲。円満の定義がなにかは知らないが、ただの括りにしか過ぎないのだと思い知らされたばかりだ。
「まぁ、確かに。わざわざは言わないわね」
思い当たるふしのあるつかさは苦笑いする。
「でしょう?」
「それはあたしらに、しあわせになりたいなら不倫しろと勧めてるのか?」
不倫からは一番遠い真実が突っ込む。
「そうじゃないわよ。…ただ、この歳になると若い頃のようなコイバナで盛り上がることもないじゃない? 魔がさしたとして、だれに話すわけでもなく滾々と思い悩んでる人がいるかもしれないって話よ」
「そりゃ、だいたい結婚してるからな。あたしみたいに終わってるヤツもいるだろうけど」
「でも、これから始まる人もいるわけじゃない? それでも、改めて突っ込んだ話はしなくなるでしょう? 魔がさしたとして、だれに追及されるわけでもないから、それがしあわせかどうかも確かめられない。でも、周りから見れば、自分以外はみんなしあわせに見える、そこが問題なのよ」
「ふーん…」
そういうもんかね…と、真実はチラリとスマートフォンに目を落とした。
小さな小窓が点滅している。それはメッセージなのか電話なのか、気になるところではあったが無視を決め込みビールグラスに手を伸ばした。
「人は『しあわせか?』って聞かれたら、普段どんなに不平不満を言っていたとしてもひとまず『とりあえず、しあわせ』って答えるじゃない? たとえ家族のだれかが大病に見舞われていたり、生活になんらかの支障があったり、経済的にどうにもならない状態であったとしても、他人に披露するなら『不幸のアピール』をするより、とりあえず『しあわせな振り』をしたいのが人の心情じゃないかしら? 大変だとか、どうにもならないと言っていても、実際に借金がどれくらいであるとか、夫に浮気されているなんて、自分から公言するひとはいないでしょう?」
「確かにね…。噂は聞いても、本当かどうかなんてわざわざ確認しないし、その噂を流しているのも本人じゃないしね」
つかさ自身、職業柄お客さん同士の噂を耳にすることが多々ある。だが、噂をしているだけで、直接本人から身の上話を聞くことはほとんどないのだと、改めて思ったのだ。
「そりゃ、みんながみんな満足ってわけにはいかないだろ」
そんな当たり前を言ったところでどうなのだと、真実は言いたいらしい。
「だからそこなのよ。自ら『不幸』だと声高に訴えるひとがいないように、夫婦仲が『悪い』と堂々と答えられるのは、よほどの仲じゃないとね。現状がどうあろうが、無意識に周りの芝生を眺めて『あそこよりはマシ』と自分を取り繕ってやり過ごすか、特記事項としての自由恋愛を優遇するか…それが今の世の中で。それが許されてしまうというのも時代のなせる業ってところかしら?」
「まぁ、今の時代、貧困の差が昔ほど目に見えないから? 多少のはったりは効くからな。だからと言って浮気が正道ではないだろうが」
「だから、少なからず夢を見たくなる主婦の気持ちも否定できないということよ。みんな、なにかしら悪あがきしてるってことね」
「悪あがきねぇ…それが思春期…?」
「…そう」
「思春期に元カレって、建設的じゃないね」
「それだけじゃないって言ってるじゃない。浮気でモノゴト解消されるなら、だれもそれを止めやしないでしょうし、そもそも一夫一婦が間違いってことになるでしょうよ、」
「…はいはい」
「ちょっと、マコ。変よ…なにかあったの?」
その言葉に真実は急に動きを止め、口いっぱいに頬張ったまま「べつに」と視線を反らした。
「そう言えば、『虚構のオスカル』って人いたよね?」
それまでワインを飲みながら静かに聞いていた織瀬が、急に言葉を発した。
「いた! それ、フィクション女! 名前忘れたけど、知ったかぶりでなんでも自分のことのように話して回ってた…」
思い出した真実がビールを吹きそうになる。
「え~いたっけ? 忘れちゃった」
「つかさはあまり『オスカル』に詳しくないものね…彼女、確か転校生で、人の話を聞かずに割って入るタイプだったわ」
「へぇ、本当にいろんな『オスカル』がいるもんね」
つかさは苦笑いでワイングラスに手を伸ばす。
「昔のように尊敬されるだけではないみたいだけれど…」
自分たちよりもずっと以前の、女学生らのような「厳かな」意味ばかりではない…と、玲は少し皮肉めいた自分たちの時代に含めた言い方をした。
「第2の思春期っていうけど、さ。最初の思春期から間がありすぎじゃない?」
織瀬が素朴な疑問を投げかける。
「言われてみれば…そうよね」
いつもの冷めた玲らしかぬ饒舌ぶりにつかさが、
「急にどうしたの?」
と訝し気に問いただす。
すると玲は優雅に溜息をついて見せ、
「最近、白髪が増えてね…」
赤髪に白髪もないものだが、そうおもむろに横目で肩にかかる自分の髪に目を落としたのだ。
「なんだ、それ」
ビールグラスに手を伸ばしながら呆れ声の真実。
「カラーリングがね、2ヶ月もたなくなってきたの…」
瞬きしながらしんみりと答える玲に、
「わかる…。毎回美容師さんに『でも、まだ大丈夫ですよ~』って言われるたびに、だれと比べてるの?って聞きたくなる」
確かに…と共感する織瀬。
「そうね…。あたしは毎度、思い切って切ろうって決めて行くけど『いつも通りでよろしいですか?』って言われると『はい』って答えちゃう…」
「あら、つかさ。きれいな黒髪なのにもったいないわ」
「最近、歳とともにキューティクルがくすんでいってる気がするのよ。…いつも流れで切りたいって言えなくなるんだけど…」
「切りたいの?」
織瀬は〈エスカルゴ〉を器用にトングで挟み上げながら、つかさを見遣る。
「さっぱりしたい、とは思ってる。いろいろ…イメチェン? でも具体的な髪形は決めてないけど…時々バッサリやってやりたくなるのは事実ね」
うんうん、と自分を納得させるようにうなずく。
「なに、そのモヤっとした会話」
3人をそれぞれに見る真実の目は、明らかに嫌悪の色を発していた。 
「…いろいろ限界を感じるって言ってるのよっ」
心なしか小声で、言い訳のように口にする玲の手元では面白いようにカルパッチョが細かく分断されていく。
「なるほど、なるほど…」
しみじみと赤ワインを嗜みながら、一瞬のうちに納得するつかさには思うところがあるらしい。
「たかが白髪染めで。それは思春期じゃなくて、老…か」
「マ、コ…!」
「まこちゃん…」
ふたりの声が重なる。
「カラーリングだってば…」
「ぷっ…どうしちゃったの? 玲はともかくつかさまで」
それまで笑いをこらえていた織瀬が、一つ一つ丁寧に殻の中の残り汁をパンにかけていた〈エスカルゴ〉を取り落としそうになる。
「おりちゃんは感じない? 最近肩凝りが激しいなーとか、腰が痛いわあとか…傷が治りにくくなったとか」
「まあ、多少…? でもそれは仕方のないことじゃない? 年齢的に?」
そういう織瀬も語尾を強調するあたり、身に覚えがないわけではないらしい。
「髪の毛、大事よ…。カラーリング!」
あくまでも髪が気になっているのだと強調する玲。
「まぁ確かに…カラーリングを白髪染めとは、まだ言いたくはないわね…」
織瀬は首を縦に振り、納得しながら小さくちぎられたパンを口に運ぶ。
「なんだなんだ…ここは、ジジババの集う病院の待合室かなんか?」
いつもひっつめ髪で、冠婚葬祭時以外髪形など気にしたことのない体育会系の真実は、ぐびぐびとビールグラスを空けていく。
「マコ!」
たしなめられても真実はひるまず、ウェイターにグラスを振りながら玲ににじり寄る。
「あれだね? 玲。白髪云々言ってるけどさ、ホントのところ体重の戻りが悪いんじゃないのか?」
カタリ…と、玲のしなやかな指からナイフが落ちた。
それは核心を突いた真実が、地雷を踏んだ音だった。
最近の服装を見るに、派手さは変わらないが締まりのない服になった…と真実は余計なコメントを付け加えた。
「え? そういうこと?」
ワイングラスに手を伸ばした織瀬が足元を覗き込もうとする。
「おりちゃん…」
黙って、と口パクでつかさが制する。
「もうすぐ40、いつまでも同じ体型でいようなんておこがましいの。体型どころか、他にもいろいろ問題ありそうだけどな」
最後のひとつを口に放り込み、口を閉じる代わりにわざとらしくナプキンを口に当てて見せる。
「マ~コ。ケンカ売ってる?」
「事実!」
ナプキン越しに鋭い目線で応える真実。
「ちょっと、本気でやらないでよ…」
いい加減にして…と、つかさが小声で仲裁する。だが、
「女はね、生まれた時から頭の上にも命抱えてんのよ…」
ナイフをすくい上げ、だんだんと語気が荒くなっていく玲。
「は? 髪は女の命って? 重い頭だなあ」
「なによ、マコだって染めてるじゃない。まぁ確かに、あなたの頭は軽そうだわ」
真実はいつも髪を束ねやすいよう細かいパーマを当て、学生時代から変わらずに明るい栗色を貫いていた。
「赤毛に言われたくない」
常日頃から「自分は派手顔だから…」と赤系に染めている玲だが、当然気に入ってやっていることだ。それを真実はいつも「若作り」だと指摘する。
「キンシコウみたいね」
少々手入れを怠っている真実の髪は確かに色が抜けていて、ところどころオレンジ色になっているようにも見え、それを〈キンシコウ〉=孫悟空のモデルになったと言われている猿の毛色に例えてなじる。
「…なに、ピリピリしちゃって…生理?」
追加のビールグラスを受け取る。
「こんなところでやめてよ、まこちゃん」
「やっぱり…。なにか、あったのね…?」
カルパッチョをさくさくと口に収めていく玲も鋭く切り込む。
「玲も…」
「デセール(デザート)までもつの~? 急いだほうがいい?」
途中で中座させられるのかと織瀬が遮る。意外と冷静に受け応えているのには、こうした玲と真実のやり取りが珍しくなく慣れているせいだ。中座させられるのも一度や二度じゃない。
「おいしく食べようよ…」
苦笑いで返すつかさ。
「お腹すきすぎてイライラしてんの?」
「…生理前なのよ」
「図星じゃん。そっちの戻りは早いみたいね」
「そんなの、今に始まったことじゃないことはあなたが一番よく知ってるじゃない」
玲は3人目の出産から真実の医院に世話になっている。
「だか、ら、まこちゃん」
「はい、はい、はい、」
「もう…」
どうしたの…。そう聞かずとも、今日の真実は出端から様子がおかしい。大きな溜息も何度目だろうか。
「やっぱりお肉も頼めばよかったかしら…」
これまでのやり取りに、身体が肉を欲しているとでも言いたげな玲。だがそんなやり取りもポワソン(魚料理)が運ばれてくるころには収まり、やんわりと次の話題に切り替わっていた。
「ムニエル大好き~」
そう言って白ワインのお代わりを頼む織瀬。話の矛先がすっかり真実に移ったことで安心したようだが、料理を取り分けながらもふたりの動向を窺う姿勢は変わらない。

画像2

「それ、で…?」
「…会うことは止めてないよ。こっちも仕事がら常に一緒にいてやれるわけじゃなかったし、一応父親だから」
それは別れた夫〈長谷川佑介〉とひとり娘〈美古都(みこと)〉との面会についての話題だった。
「離婚してなん年になるかしら?」
「もうちょっとで10年」
話題が変わっても、空気の重さは変わらない。
「どうも、女がいるみたいなんだよ」
〈白身魚のポワレ〉に、力強くフォークを垂直に立てる真実。
「だれに?」
「ゆーすけ」
「へえ…。それで会いたいって?」
眉根を上げて真実を見る玲。
「わざわざ会うような話じゃない」
「会わせたい、とか?」
「会いたいと思うか?」
「そうよね…」
これまでの真実の元夫の行動を思い起こしてみる。
真実の元夫を知るのは玲だけだ。同窓会で会った時にはすでに離婚が成立しており別居中だった。
「またデキ婚だよ」
「懲りないわね…」
「ちょうどよかったよ。さっさと結婚でもしてくれないと、こっちが迷惑。いつまでも家族ヅラされちゃたまんない」
そう言って、無造作にポワレを口に放り込む真実。
「まぁね」
ちらりと真実を一瞥し〈イサキのグリエ〉に視線を落とす玲。
「でも、美古都は…」
ふてくされている真実の本音が漏れた。
「言えないわけね…」
年頃の娘を持つ母に、悩みごとは尽きないようだ。

画像3

「今日は自宅に帰るのよね…」
ハイヤーの後部座席でイヤリングを外す玲。小さなバッグにそれを収め、機嫌を損ねたままそっぽを向いている右隣の真実を見た。
「今夜はね。…今、保育器に入ってる新生児がいるから、今週は操(みさお)先生と交代で泊まり込んでる。交代したところで、気になって寝れやしないんだけどさぁ…」
珍しく今日は玲の車に同行する真実は、うつむいて、小さくつぶやきながら髪をかき上げた。
「それであんな飲み方してたの…」
口では憎まれ口を叩いてはいても、本音は心配というところだ。
「それもあるけど…問題はそれだけじゃない。いくら飲んでも、酔えないっつーの」
そう悪びれる目線の先には明るく点灯するスマートフォンの画面があった。
「…自分の、こ、と、は、自分で、ケジメ、を、つ、けろ、…と」
そう文字を打ってメールを送信した。結局真実が出した結論は、佑介自身に娘へ結婚の旨を告げさせる…ということだった。
「当然って言ったら当然よね…」
言いながら気の利いた言葉を模索する玲。
「芸がない?」
うなだれたままそう答える真実は、なんとなく後ろめたい。多感な年齢の愛娘に対し、結局当たり前のことしかしてやれない自分に失望しているようだった。
「そんなことはないでしょ」
「そうだけどさ…母親はもっと器用でいたいじゃん」
珍しく子どものことを語り、憮然とし腕を組む真実。
「それは器用な母親が欲しかったってこと? 操先生天然だもんね…」
思い出して微笑む玲。
「天然ね…」
それ以前の問題…と真実は心の中でぼやく。
「天然なんだか、自由なんだか…昔ほどバカはやらなくなったけどな」
少なくとも仕事以外のことでは、母親を習おうとは思えない…と改めて思う。
「恋多き女ですものねぇ。あなたからはまったく感じられないけど…」
「恋多きね…あたしからいわせりゃ鬼畜だ」
「また、そんな言い方して」
「そこは、血筋じゃね~からな」
「もう…」
そうは言いながら、玲もそれ以上の追及はしなかった。
「操先生は知ってるの? 佑介のこと」
「言ったよ、一応。『…あらよかったわねぇ~』だって。同類だから共感できるんだろ」
声色を真似て肩をすくめる。
「いつでも佑介の味方だからさぁ。気楽なもんだよ」
「ふふ…操先生らしい」
「笑い事じゃないよ~。その調子で美古都に言おうとしたんだよ。いつまでも笑顔のいい子ちゃんじゃないっての。…もう少し考えてほしい」
思えば自分が思春期だった折も、真実は母の天然っぷりに振り回されていたと振り返る。
「生理でイライラしてれば、父親に会うのだってピリピリして大変なのに、このうえ女ができたなんて知ったらどうなるもんだか…。父親は別な意味で天然だし」
先が思いやられる…と重いため息をつく。
「かっこいいパパが大好きなんですものね…」
幼いころに会った美古都を思い浮かべる玲。
「とんだカッコ番長だよ」
「また、いつものでまかせじゃないの?」
「でまかせで妊娠なんて知恵浮かぶか?」
「解らないわよ、相手の嘘かもしれない」
「あぁ…それはあり得るかもしれないな」
佑介という男は、強面の容姿に似合わず「捕まえた犯人に同乗してお金を貸してしまう」ほどお人好しな男だ。ありえない話ではない、そうは思っても今回ばかりは事実であってほしいと願うばかりだ。
「穏やかに済むといいけど」
「それは切に願うことだね」
「お互い、いろいろあるわね」
「なに? なんかあんの、玲」
「実家の、会食に誘われてて」
「は…。それはご愁傷様」
「もう。ひと事だと思って…」
「ひと事だもんよ」
ぽつぽつと差しさわりのない会話のあと、少しの沈黙が続いた。
「ねぇ…」
だが、どうしても玲には捨て置けない疑問があったのか、何度も小さく息を吐いては重く口を開いた。
「マコ、あれから男は?」
「はっ、なに、いきなり」
多少の動揺からか、玲の顔は見ずに自分側の窓に映る玲の姿を睨みつける真実。
「織瀬のこと、私が気付かないとでも?」
前方を見たまま答える玲に、
「な…っ!」
真実は一瞬起き上がるが、苛立たしく息を吐いて窓の外に目を戻した。
「そんなんじゃないよ…」
「そう? ならいいけど」
「ホントに、そういうんじゃない…。それで元カレの話したの…?」
眉をしかめて玲に向き直る。
「あれはあくまでもつかさに言ったのよ」
「つかさぁ?」
さらに眉根を寄せる真実。
「夫婦としてすでに破綻しているなら、いつまでも操を立てている義理もないじゃない」
「つかさが浮気なんかするわけないじゃん」
「解ってるわ。話題作りよ」
「だからって…」
つかさが離婚を考えていることを知ったのは、真実も玲同様この間が初めてだった。それこそ子どものいないふたりは、いつまでも恋人同士のような夫婦関係を築いているものだと勝手に思い込んでいたのだ。人の人生など上辺だけじゃ測れない…と、心底考えさせられたものだった。
「つかさの旦那、見たことないけど…なかなかな俺様っぷりみたいだな」
腕くみしながら真実はしみじみと思い返していた。
「つかさ、旦那様しか知らないのかしら…」
思い出したかのようにぽつりとつぶやく。
「知らないっていうのは…?」
「男よ」
「ひとりいたって言ってた…」
「やっぱり!」
「なに、やっぱりって」
「いないわけないじゃない?」
「なに、力入ってんの」
「べつに」
すねた言い方をする玲は、なんだか楽しそうだった。
「あーっと、家の前まで行かなくていい。そこでおろして…」
真実の自宅は通りを外れた住宅地で、車の行き来もそうそうない場所にあった。
「この辺うるさいからさ…」
ハイヤーは路地の手前で停車し、足取り重い真実を掃き出した。
「ありがとね」
真実はいつも振り向かずに去っていく。が、
「私が言わなくてもつかさは…!」
車のウィンドウが下ろされ、窓の奥から玲の声が追いかけてきた。
「…とっくに織瀬をそそのかしてたわよ」
立ち止まり、
「は…! なに、それ」
意外な玲の言葉と、告げられた意外なつかさの行動に体は自然に反応した。振り返り暗闇の中に玲の姿を探す。 
「元カレの話をしたのは私だけれど、それ以前に『よそに目を向けるのもいいんじゃないか』って、織瀬に言ったらしいわ。つかさが。…反省してたけれどね、軽はずみだったんじゃないかって」
「ふーん…」
玲には聞こえない声で答える真実の頭の中には、なんとなくバーテンダーの真田の顔が浮かんでいた。










まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します