理性による慰め

怒り、悲しみ、不安や恐怖といった様々な「情念」にどう対処したらよいか。いろいろな対処法が提唱されているだろうが、ここでは「理性的な対処法」を紹介しよう。まず、哲学者のデカルトが薦める「恐怖に対する理性的な対処法」から。

デカルトという人は、若いころに無給で自ら進んで軍隊に入り軍人として働いたり、ヨーロッパ中を旅して回ったりという波乱に飛んだ生活を送っていた人である。その彼が自身の体験から出たと思われる、恐怖を乗り越えるための理性的な経験則を提唱しており、次のような方法である。

いま、戦場で突然恐怖に襲われたとしたらどうしたらよいか。そのときには、勇気を奮い起こして恐怖を乗り越えようと努力するだけでは十分ではないと、デカルトは言う。そのようなときには、恐怖という情念が生み出す恐ろしい想像を、 ほかの方向に逸らすように考えを凝らすという間接的な方法で、 恐怖を克服してゆくべきだというのである。

たとえば危険はそれほど大きくないと考えてみたり、 逃げるよりは踏みとどまって防ぐほうが安全だという理由を考えたりして、 危険についての想像から考えを逸らすのである。 また、 もし恐怖に耐えかねて逃げたり隠れたりすれば、 あとで後悔したり人から非難されるなど不名誉を味わうことになるだろう。 しかし危険を踏み越えてあえて留まり、 戦いに勝つことができれば、 賞賛と名誉を得るだろう。 そのような方向に考えを凝らし、 留まって抵抗するほうが得策だと確信させる理由に考えを凝らすことで、 恐怖に打ち勝ってゆくべきだというのである。

このようにある困難な状況に際しては、 それをさまざまな視点から、 とくに自分にとって耐えやすく有利で都合の良い視点から眺めることで、 恐怖という情念を統御してゆくのがよいとデカルトは勧めている。とくに情念の働きによくあるのが、不安が不安を生み、恐怖が恐怖を生むという具合に、想像力の働きでますます恐怖が増大してゆく悪循環だから、まずそれを断ち切る必要があるというわけであろう。

もうひとつは、デカルト派の哲学者アランが勧める「悲しみ」への理性的対処法で、彼も同様な方法を勧める。

たとえば失恋して悲しみに暮れている男は、 昔の楽しかった思い出にふけったり、 彼女の裏切りや不実な仕打ちを思い出したりして、ますます自分で自分の悲しみを煽ることになる。 それよりは、 自分を振って去っていった女性の顔のなかで、 なにか気に食わなかった箇所、 鼻のかたちとか太り気味であったとかを思い出してみるのがよいと言うわけである。 あるいは彼女のむかしの無神経な振る舞いを思い出したり、 彼女が年をとってお婆さんになったときのことを想像してみるとよいのだと。

デカルトやアランが勧める上述のような方法は欺瞞的なことではなく、 情念に対抗するきわめて実践的な武器となる。 なぜなら 「自分にとって最良の味方は自分である」 という原則に従って、悲しいときには自分で自分を慰め、 不安や恐れのときには自分で自分を励まし勇気づけるように努めることは、 実践的で有効な対処の仕方であろう。

しかもこうした理性的な戦術で情念に対処することは、 人間にしかできないことである。 動物には精神がなく、 考えるということがないから、 自己の情念に悩まされることはない。その代わり、動物の身体的苦痛は人間のそれよりはるかに耐えがたいものだろうとK・ローレンツは言っている。それは、人間とは違って動物には理性による慰めというものがないからなのだと。人間なら、歯痛に悩まされても歯医者へ行けばすぐによくなると考えて耐えることができるが、動物はただ痛みを受け入れて耐え続けるだけで、理性的な救いがないわけである。

人間は精神を付与されており、 考える動物であるから様々な情念に悩まされるわけだが、 理性的に考えることで様々な情念に対抗することもできるわけである。動物は人間のように情念に悩まされるということはないが、なにかに感動するといった高級な感情はもたないし、共感とか同情といったものもない。精神を欠いているからである。

(参考文献)
・デカルト「世界の名著22デカルト」野田又夫ほか訳、中央公論社
・アラン「幸福論」白井健三郎訳、集英社文庫
・K・ローレンツ「生命は学習なり:わが学問を語る」三島健一訳、思索社

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