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肥前有馬氏の足跡を追って⑤【廬山寺 菊亭ジュスタの墓】(2023/10訪問)

蔵出しですが、2023年10月に京都市上京区にある廬山寺の菊亭ジュスタ(有馬晴信継室)の墓にお参りしました。
蘆山寺は天台系のお寺で、かの紫式部の邸宅跡といわれています。拙著「紫式部と藤原道長ーそして、物語は残ったー」(2024年2月 ㈱And Tech発刊『歴史愛好家のための日本の歴史』所載)の取材を兼ねての訪問でした。


天台圓淨宗 蘆山寺



ここで、有馬晴信についておさらいします。


【肥前有馬氏第14代当主 有馬晴信】(永禄四年/1561?~慶長十七年/1612)         *生年は家譜等では永禄十年(1567)

・元亀二年(1571)兄、有馬義純の早逝により、弟の晴信が家督を継ぐ。
・天正七年(1579)龍造寺氏に起請文を提出し、服従を誓う。
・天正八年(1580)龍造寺氏に対抗するためイエズス会の援助を受けるべく、口之津に来航したイエズス会巡察使、ヴァリニャーノにより洗礼を受ける。洗礼名、ドン・プロタジオ(のちにドン・ジョアン)。
・天正十年(1582)ヴァリニャーノの発案により天正遣欧少年使節をローマへ派遣(晴信の名代は従兄弟の千々石ミゲル)。
・島津氏と手を組み、天正十二年(1584)沖田畷の戦いにおいて龍造寺軍に勝利、所領を守る。戦勝記念としてイエズス会に浦上を寄進する。
・天正十五年(1587)島津氏と手切れし、豊臣秀吉に臣従。島原半島4万石を安堵される。同年、伴天連追放令が出される。
・文禄元年(1592)小西行長に従い大村・松浦・五島氏とともに文禄・慶長の役に従軍。
・慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに際し東軍に与し、徳川家康に所領を安堵される。江戸時代初期、南蛮貿易の実績を活かして朱印船貿易に注力し財を成す。
・慶長十四年(1609)前年のマカオでの殺傷事件の報復のため長崎港沖でノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を撃沈させる。
・グラサ号事件の恩賞として鍋島領となっていた有馬氏の旧領、肥前国三郡(藤津・杵島・彼杵)を回復しようと幕臣本多正純の家臣、岡本大八に多額の賄賂を贈り旧領回復のあっせんを依頼するも失敗。慶長十七年(1612)甲斐国に流され賜死となる。(岡本大八事件)
・晴信の嫡男、直純は徳川家康の養女、国姫を正室に迎えていたこともあり連座を免れ元の所領を新恩給付される。キリスト教を棄教し領内のキリシタンを弾圧するも、願い出て、慶長十九年(1614)日向国縣へ転封となる。



キリシタン大名として有名な有馬晴信ですが、最初の正室である兄の娘、ルチアを文禄・慶長の役の陣中で亡くし、その後小西行長のあっせんで都の公家の娘であるジュスタと結婚したといわれています。

ジュスタは権大納言、中山親綱の娘。初め菊亭季持に嫁ぐも夫が早世。小西行長のあっせんで有馬晴信に再嫁後に受洗。洗礼名ジュスタ。甲斐国で有馬晴信の最期に立ちあう。晴信との間の二男子(フランシスコ、マチアス)は晴信の嫡男、直純により殺害され、一男子は出家。女子のうち一人は甲州地侍、有賀氏に嫁ぎその子孫が代々謫居跡を守ったとのことです。

このジュスタのお墓が京都、蘆山寺にあります。


実家、中山家の墓所の一角にある菊亭ジュスタの墓。


それにつけても有馬晴信の継室が"一度菊亭家に嫁いだ中山大納言家の娘"ジュスタさんというのが今一つ腑に落ちません。彼女はそれこそ「本物の公家の娘」で、かつ菊亭家の縁者なんですよね。よく田舎の小大名に嫁いできたなぁ、と。
(ちなみに最初の夫、菊亭季持は早世したため従二位権中納言止まりでしたがその父親は右大臣。ジュスタが生んだ子である経季も亡くなる直前に右大臣になっています。)
戦国時代に公家の娘が武家に嫁いだ例として、有名なのは武田信玄公の正室、三条夫人だと思うのですが、他はあまり聞いたことがないような・・。
(これに関しては歴友より、北条氏綱の継室が近衛尚通(関白太政大臣)の娘である例と、今川氏親の正室で義元の母、寿恵尼が権大納言中御門宣胤の娘である例をききました。)戦国時代はやはり武家同士の政略結婚が多いようなイメージで、有馬氏の歴代当主の正室にも公家の出はいないようです。

もっとも、有馬=西の端の田舎、という前提が少し違っていて当時は「南蛮の文化が流入する最先端の地」というイメージだったのかもしれません。
また、後に晴信の嫡男、直純は徳川家康の曽孫で養女の国姫を継室としますが、このあたり「元守護家」である有馬氏のプライドの高さというか、強い上昇志向があったのかもしれません。
岡本大八事件の際しての晴信の強気の行動にもそれが表れているようにも思います。

閑話休題

岡本大八事件で幕府の罪人となった晴信は甲斐国に流罪となった後、長崎奉行の長谷川藤広の暗殺を企てたとの罪で切腹を命じられます。キリシタンである晴信は自害を拒み、家臣のカギ左衛門に命じて自身の首を刎ねさせます。立ち会ったジュスタは、以下の様な気丈な姿を見せています。

・・この悲劇の場に、気丈な奥方ジュスタが居合わせた。夫の首をとるといとも優しく口づけし、自室に退くと涙にくれ、嘆息しながら追悼の祈りを捧げ、己れの諸々の不運を神に申し出た。そして、現世を捨てる徴しとして髪を断ち切った。

(『史料で読む長崎県の歴史』外山幹夫/1993年6月 清文堂出版㈱ P196より引用 原文は1612年度
イエズス会日本年報)


模範的なキリスト教徒と評価されるジュスタですが、凄いというか何というか・・いくら武家の妻となったとはいえ、夫の首を抱える前に見ただけで卒倒しそうな気もするのですが・・いかがでしょうか?
戦国の世の空気がまだ残っていたであろうこの時代、これくらい気丈でないと生きていけなかったのかもしれませんね。

ジュスタは晴信の死後男子を一人生むものの、その子は後に出家。
京都に戻ったジュスタは、秋月の大名黒田惣右衛門(直之)の未亡人マリアと一緒に禁教下に宣教師をかくまったりしたそうです。

「肥前有馬氏の足跡を追って」シリーズ、あとは山梨県にある「有馬晴信謫居跡」を訪問したいところですが、九州からはなかなか遠くいつになるのやら・・。
最後に肥前有馬氏の居城である日野江城跡の写真をもって本稿を終わりたいと思います。最後までお読みいただきましてありがとうございました。


長崎県南島原市にある日野江城跡。



参考文献

  • 『キリシタンになった大名』結城了悟 著(1999年2月/聖母の騎士社)

  • 『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』五野井隆史 監修(2017年9月/宮帯出版社)

  • 『史料で読む長崎県の歴史』外山幹夫 編著(1993年6月/清文堂)

  • 『家康考』より拙稿「徳川家康の対外政策と岡本大八事件~鎖国への途~」(2023年1月/㈱And Tech)


*蘆山寺のHPはこちら



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