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【無駄を選ぶ】最適化の先にある価値、気づいたアーティストたち

最先端を追い続けた結果に、差は生まれない。時代のアップデートは当然とし、“無駄”を選べるアーティストが求められる。このトピックでは、「無駄の真価」を、知ることができる。機材や技術やネットワークに依存してそれを自身のスキルだと想いこもうとしている一般人アーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 “マーケット”という矛盾領域 』

要望を満たすべく最適解を求めればコモディティ化により価値が喪失されるのが、マーケット。そんな矛盾を抱えながらも拡大し続けている間は問題なししかしそれは、「ブランドの消費」に他ならない。

企業によって管理運営されているこれら“マーケットの実態”、アーティストには語られないという不文律がある。命を賭してブランドを生んでいるアーティストにはどうあれ、不愉快な方程式だからだ。

わたしは、語る。警鐘はそのままに、マーケットの疲弊を観れば、アーティストのチャンスを説く。企業とマーケットに恨みはないが、業界への愛とアーティストへの信頼は絶対だ。どちらかを選ぶ場面にあらば迷いなく、アーティストに味方する。メサイア コンプレックスで在ろうはずもないわたし自身、アーティストであり。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:秋の映画祭シーズンに苦戦するアジアの映画人たち

秋の映画祭シーズンに参加できないアジアの映画人たちの、カムバックが期待されている。

今年の主要映画祭では、アジアの映画が苦戦している。これは、必ずしも映画の芸術性を反映したものではなく、映画産業の東西間の痛ましい2021年の分裂の兆候である。満を持して開催されたカンヌ映画祭では、アジア系の作品が目立って少なく、ヴェネチア映画祭も同様だった。

アジアの映画祭が抱える問題の核心は、COVIDによる渡航制限と、権利者や配給会社のハイブリッド映画祭やオンライン映画祭への不信感にある。また、中国の映画産業の方向性が変わったことで、さらに複雑な状況になっている。ハイブリッド映画祭やオンライン映画祭に作品を出品しないアジアの映画会社はたくさんある。彼らの自国映画館市場はあまりにも重要なのだ。近年、アジアのストリーミング産業は急成長しているが、その他の収益源は欧米の映画に比べてまだ小さいのが現状だ。

カンヌ映画祭の『Introduction』を担当している韓国のFinecut社の代表、Suh Young-joo氏は語る。「ハイブリッド映画祭については非常に慎重になっている」

業界に反アジアのムードがあるとは思えない。もしパターンがあるとすれば、それは個々のケースバイケースの対応によるものだ。いくつかの映画祭は(デジタルプリントに)個別の電子透かしを入れることにも消極的だ。

ヴェネチア映画プロデューサー、マイ メクサワンは言う。「映画制作者やエグゼクティブが秋の映画祭に出かけることは可能だが、帰国時にはホテルに閉じ込められ、1週間の旅行が1ヶ月近くになってしまう。最近は(アジアの)バイヤーが市場や映画祭に足を運ばなくなりました」

しかし、中国の映画産業はよりプロパガンダ的な方向に向かっており、海外の映画祭にとっては魅力的ではない。香港国際映画祭のエグゼクティブ ディレクターであるアルバート リー氏が語る。「メジャーな監督は現在、映画祭用の作品を作っていません」アジアの業界にとって海外旅行は苦痛でしかないのだ。 - SEPTEMBER 03, 2021 VARIETY -

『 ニュースのよみかた: 』

主要国際映画祭のマーケットから、アジア作品が消えた。アジアは帰国時のハードルやプロパガンダ問題などを抱えるがそもそもに、“ハイブリッド開催”に否定的なことが要因だ理由は、自国の「映画館事業が最優先」なために、という記事。

ここ数年間に国際映画界を席巻していた感のある“アジア映画”への逆風と、それをソフトに肯定している内容だがそれはつまり、ブルーオーシャンを宣言しているに等しい。

日本映画界は、後輩の韓国コンテンツ産業界に負けた。勝てているのは唯一「アニメーション映画」だけであることを、数字が証明している。ならばこそ、今こそ日本のアーティストたちは国際マーケットを目して、全力でアプローチすべき絶好のタイミングである。世界に、日本の席がある。今なら。

覚悟の精鋭揃いな韓国、国政参加を隠さない全力の巨大中国しかし彼らはメジャーに進出していたからこそ、世界一時停止の悪影響に打ちのめされている。米国、中国に次ぐ世界第3位のマーケットである日本それは、“世界に出なくても自国で稼げば十分安泰”という安直な事業モデルに支えられてきた。そのマーケット、もう業界を支えられない。

アーティスト個人には手に負えないサイズに観えるしかし、正しいパートナーと組めば、可能なのだ。アーティストのあなたは覚悟一つで、世界に届く。想像してみると善い、現状からの下降線を生きるこの先をもしくは、世界を。

心配は要らない、そこに集っているのは各国の、同志アーティストたちだ。

『 最先端を追うのはマナー 』

重要なのは“偏愛”でありつつも、「最先端のアップデート」を疎かにしていたなら本末転倒である。ネットを巡回して手に入るのは二次情報以降の“ネタ”でありそれは、情報ではない。

「情報」とは、自らの検証時間と取材労力に資金を投じた先に手に入れるエビデンスとマテリアルを“ストーリー化”した一次情報のことである。それ以外のすべては「話題用のネタ」だと理解し、取り扱いには留意することだ。

『 偏愛という強さ 』

無駄を選んだ先の深掘りを、「偏愛」という。そこは当然に、ライバルのいない完全なるブルーオーシャンである。つまり、「無駄を価値化」さえできればアーティストは、国際マーケットにおいて唯一無二の強さを有することとなる。

無駄とは、進化を終えて認識外に追いやられている“常用素材”のことだ。そんな無駄の中には極々希に、実に魅力的な“それまでの物語”をもっているものがある。日常に疑問を抱き、分解し、検証し続ける先に奇跡はある。いっけん“無駄”に観えるその過程を、「偏愛」という。

無駄という過去には、輝くストーリーが眠る。

『 編集後記:』

掃除機がない。
ホテル暮らしだというのもあるがそもそもに個人スタジオにも事務所にも、掃除機がない。とはいえ、目についた埃は見逃せない。多少潔癖感のあるわたしは都度ハンディータイプのドライとワイパータイプのウェットシート、99.99%除菌ティシューと濃度75%業務用アルコールを常用しておりそもそもに掃除機をかける場面がないのだが、どうも羨ましい。日常がスマートに観える。毎日埃を探して床を張っている男はどうにも、美しくない。

観えない可能性を求めて徹底の果てに、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記