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4月7日

4月7日

この日は私にとって特別な想いがあります。

理由は戦艦大和が沈んだ日。

1945年3月末から始まったアメリカ軍による本格的な本土侵攻となる沖縄への上陸が開始。

地獄の様な地上戦ならびに、特攻隊による捨て身の攻撃が行われる中
戦艦大和も沖縄を守るべく、大日本帝国海軍最後の艦隊出撃が決まった。

海上特攻隊として沖縄へ向かい
浜辺に乗り上げて海上砲台となりアメリカ軍へ攻撃
砲弾が尽きたら乗組員による突撃を敢行する一億総特攻の魁、生きて帰らぬ死での旅路

大和は第二艦隊の旗艦として軽巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風、雪風、浜風、朝霜、霞、初霜、冬月、涼月の9隻を従えて出撃

79年前の4月7日
沖縄を目指す第二艦隊はアメリカ海軍の艦載機による波状攻撃を受けます。
低く立ち込めた雲を利用したアメリカ軍艦載機を捉える事ができず、大和の主砲は1発も撃つことができません。

艦の左側に集中攻撃を受けた大和は午後2時23分に沈没。
生き残った乗組員の証言や後の海底調査により左に傾斜した状態で煙突から海水が機関部に侵入する事で起きた水蒸気爆発と弾薬庫へ引火した爆発により船体が二つに割れた事がわかっています。
まれに轟沈と表現されますが、轟沈は攻撃から1分以内に沈む事なので大和の名誉も兼ねて沈没と認識しています。

第二艦隊は大和の他にも矢矧、磯風、浜風、朝霜、霞が沈没し、合わせて4044名が亡くなりました。

生き残ったのは雪風、初霜、冬月、涼月の4隻
長崎県の佐世保に帰投した乗組員達を晴れた空と桜が迎え、多くが7日の悪天候を悔やみ泣いたそうです。

私は当時17歳の元乗組員八杉康夫さんの講演で当時の空気感や大和の最期に触れました。
戦艦大和の最期、特攻隊員達の想いなどは今の私に大きな影響を与える程衝撃的でした。

八杉さんが2020年1月に91歳で亡くなった事を受け
長らく当事者の遺族、研究者でもない私が八杉さんの体験を、大和の最期を、日本を守るために戦った方々の話を伝える立ち位置を見つけられずにいましたが
戦場を知る方々がこの世を去った今は知る者として
知りたい人への情報提供や橋渡し役など、できる事がたくさんあると遅まきながら気付きました。

きっと他にもできる事がある
ただ単に反戦や戦争の残酷さではなく
平和の礎となった皆様の想いや決意を、みんな日本を守るために命をかけて戦った事を後世に伝えていく手助けを続けていきたいと思っています。

2024年4月6日執筆

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