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知能の遺伝

多くの人々は外見や、運動能力の遺伝は認めるのに知能の遺伝はあまり認めない傾向にあるような気がする。

「遺伝の差はほとんどなく、努力次第で知能は差をつけられる」

このような意見は多くの人に受け入れらそうである。ただこれは本当に正しいのだろうか?

実際ギフテッドと呼ばれる天才は10歳程度で米国の難関大学に合格していたり、反対に知的障害者にはなるべく分かりやすく説明しても、高度で抽象的な概念を理解することは難しいだろう。

もちろん、学力と知能は別としても、それなりの相関があり、以上の例の原因を知能の遺伝抜きで説明することは難しいだろう。

では何故人々はそれでも知能の遺伝を認めたがらないのだろうか?

推測にはなるが、知能は現代の文明社会において非常に人生を左右する能力だからだろう。その裏付けとして、運動能力は一部のアスリートを除けばそこまで人生を左右することは少なく、外見の遺伝はそもそも、姿そのものに反映されるため隠す(否定する)ことができない。

これは最早、一部のタブーとされる領域の問題に発展してるのかも知れないが、おいらはそれは善ではないと考える。何故なら、知能の才能を早期に発見できれば、英才教育でその才能を開花させることに繋がり、反対にその才能が極端に低く生まれたにも関わらず、周囲から学問の道を強要されたりすることがあるからである。これはサッカーの才能がない者に「サッカー選手になれ」と言うのと本質的に変わりはなく、強要される本人にとっては非常に大きな苦痛であろう。

このようなことから、あまり綺麗事ばかり言ってタブーを避けるのではなく、時にはタブーと正面から向き合うことの方が、むしろ当事者たちのためにもなって良いことなのかもしれない。

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