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【エッセイ】イタリアのティラミス事件


「この目の前にあるものは一体なんだろうか?」
 イタリアのとある街のレストランで私は自問自答していた。
 恐らく、私が注文したデザートのティラミスのはずだが、どこからどう見てもティラミスには見えない。これは食してもいい代物なのか、そもそもこれは何なのか。周りの人が固唾をのんで見守る中、私はフォークになかなか手を伸ばせずにいた。
 
 今から3年ほど前、私は上司たちのお供でイタリアへ出張した。お供といってもフライトやホテルの手配、訪問先のアポ取りなど、ありとあらゆることをやる専属秘書のようなものだ。以前にフランスに駐在していたこともあり、ヨーロッパ方面に強いだろうということでお供を命じられたのだ。しかし、4年間の海外駐在中にイタリアに行ったのはたったの1回だけであり、実はほぼイタリア初心者といっても過言ではなかったが、言ったところで特に何も変わらないのでそれは言わずにいた。
 
 ミラノでの用事を済ませ、手配した車で約80km離れた街へ向かう。イベントの準備のため、その街に暮らす人たちとミーティングをするためであった。
 車の中では上司たちと通訳のYさんがおしゃべりをしている。Yさんはミラノ在住の日本人女性で通訳やガイドもやりつつ、声楽家としても活躍するパワフルで素敵な女性だ。イタリアに暮らしていることもあって音楽や芸術に精通しており、話題も豊富で上司たちを飽きさせないでいてくれている。
 その日はとてもいい天気で、私は車窓から青く広がる空を見ながらその日のランチについて考えていた。特にレストランは予約しておらず、そこで会う方々のお勧めのところに行くつもりでいたのだ。イタリアならば、食べるものは必然的にイタリア料理になる。
 
 イタリア料理は日本人の口に合うとよく言われる。大体のものはそれに当てはまるが、日本で食べるイタリア料理は日本人向けに少しアレンジされていると個人的には思う。日本でも馴染みの深いパスタやピザも、イタリアで食べるそれはやはり日本のものと比べると微妙に味が違うのだ。それでもおいしいものはおいしい。
 出張中の楽しみはおいしいものを食べることだ。今日は何が食べられるかな、おいしいものが食べられるといいな。私はその街までの道中、ランチをとても楽しみにしていたのだ。まさか、あんな悲劇が起こるとも知らずに。
 
 目的地に着くと、待ち合わせ場所で日本人のTさんが我々を待っていてくれた。Tさんも長年イタリアに住んでいる職人さんだ。久しぶりの再会を喜び、午後からのミーティングに備えて腹ごしらえをするために、Tさんお勧めの地元のレストランに行くこととなった。
 
 案内されたレストランは、年季の入った、いかにも地元向けですという感じのところだった。地元に住んでいる人が行くなら間違いはない。中に入ると、まだランチには少し早かったのかお客は我々だけだった。奥のテーブルに着席し、メニューを見る。当然ながらイタリア語のため、YさんやTさんが気になるメニューを通訳してくれた。どれもこれも気になるものばかりだ。私は日本ではお目にかかることがほとんどない煮込み料理を頼んだ。上司たちもそれぞれ注文し、料理が来るまでイタリアやTさんの近況話に花を咲かせていた。
 
 料理が到着し、食べ始める。煮込み料理は想像以上においしく、スプーンが進む。丁寧に時間をかけて煮込まれており、味わい深い。素朴な感じではあるが、気取った感はなく、親しみやすい一品だった。他の人たちもおいしい、おいしいと言いながら各々の皿を楽しんでいた。
 
「デザート、何にします?」
 Yさんがメニューを見ながら我々に声をかけてくれた。フランスもそうだが、イタリアでも食後のデザートはマストだ。珍しいデザートにも心惹かれるが、やはりここは本場のティラミスを食べておかねば。絶対おいしいに決まっている。
「ティラミスでお願いします」
 私は意気揚々と注文をした。上司たちやYさん、Tさんはティラミス以外のデザートを注文した。イタリアでティラミスを頼まないなんて、そんなことを密かにおもっていたのは内緒だ。
「あ、デザート来ましたよ」
 Yさんが言うと、お店の人がいくつかの皿を持って、我々が座っているテーブルにやってくる。上司たちの前にデザートが置かれると、次は私の番だった。そして、私の目の前に置かれたのは、ココアパウダーのたっぷりかかったティラミス…ではなかった。
「……」
 私は視線を皿から逸らせずにいた。私は確かにティラミスを注文したはずだ。
 
「あのさ、それ何?」
 しびれを切らした上司が私に聞いた。
「ティラミスだと思うんですけど……」
「ティラミスってそんなのだったっけ?」
 いや、少なくとも私の知っているティラミスではない。
 
 目の前のものは、茶色に近いオレンジ色だ。ココアパウダーもかかっていない。ザバイオーネ・クリームとビスコッティの層も作られておらず、すべてがごちゃごちゃに混ぜられていた。そもそも四角い形もしておらず、柔らかい何かをおたまですくって、そのまま皿に盛りつけただけのような感じだった。端的に言うと、不味そうだ。
「そんなティラミス、初めて見ましたよ。おもしろいですね」
 YさんとTさんは口を揃えて言った。しかし、その目はまったく笑っておらず、むしろ得体のしれないものを怯えて見ているという感じだ。今まで和やかな雰囲気だったのが、私のデザートが来た途端、なんともいえない微妙な空気に変わった。そのティラミスの話題に触れたいけれど触れちゃいけないような、誰もが聞きたいけれど口を開いてはいけないような、そんな雰囲気の中、私がいたたまれない気持ちになったのは言うまでもない。
 
 私は恐る恐るフォークをその物体に刺した。フォークがずぶずぶとその中に入っていく。少しだけ先端に物体の一部を乗せ、口に運ぶ。デザートを食べるのにこれほどの恐怖を感じたのは初めてだ。目をつぶったまま口に入れる。味はティラミス……ではなかった。これまで味わったことのない味だ。ビスコッティは粉々になっているせいか、舌触りはザラザラしている。マスカルポーネのまろやかさと味はなく、ただただ甘ったるい何かが口の中に広がる。今まで見たことも味わったことのないもので、何とも形容しようがなかった。

 困惑する私のために、Tさんがお店の人に尋ねてくれた。
「これって本当にティラミスですか?」
 お店の人が自信を持って「もちろんだよ」と言うかと思いきや、返ってきたのは違う回答だった。
「多分そうだと思う」
 いやいや、多分とか思うって何だよ、作った本人だろ!内心そうツッコみながらも、目の前のものを見るとそれ以上はなぜか怖くて聞けなかった。はっきりティラミスと言ってくれれば、この店オリジナルティラミスでまだ百歩譲って納得できたのに。中途半端に「多分そうだと思う」と言われ、私のもやもやは解消されることはなかった。
 結局、お店の人も含め、私が食べたのはティラミスだったのか、それとも他の何かだったのか分からないまま終わった。ちなみに私はそれを二口食べて、フォークをテーブルに戻した。それ以上、私のフォークが動くことはなかった。そのまま、このイタリアのティラミス事件は迷宮入りしてしまったのだ。
 
 それからどこかへ行くたびにティラミスを注文するようになってしまったのは、この「ティラミス事件」からだ。なぜかティラミスがティラミスであるか確認したくて仕方がないのだ。
 
 そもそもあれ、本当にティラミスだったんだろうか…。

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